それについて
#2.追想





翌日になってひと月の謹慎を言い渡された。雑渡様の戒めは静かで、怒鳴られることも殴られることも無かったが、しかしその戒告は何よりも厳しく私を叩きのめした。後に、項垂れる私に穏やかに差し伸べられた手の暖かさと苦笑とを、私は生涯忘れないだろう。この方の手足となりたい、と私は再び強く感じた。謹慎の間、私は只管修練に励んだ。二度と敵に怯えて背を向け逃げることなどしたくなかった。何よりも、あのような、『女のようなもの」に、負けたくはなかった。眠るたびにあの、強烈なかんばせが、大輪の花の綻ぶような微笑が、敵を蹴散らす長い手足が、ちらちらと脳裏をちらつくのだった。実際、私の情熱の原動力となっていたのは、『それ』に二度と遅れを取るまいとする気持だったように思う。あんなもの。あんなものになど。二度と助けられたくはない。数日の後、『それ』が小頭の指した、「強い女」であるという私の推測が、事実であることを知って以降は、修練にいっそうの熱が入った。醜態を晒したくない、という矜持もそうだが、それ以上に、あれに勝ちたいという思いが何よりも強かった。あれより強くなり、あれより速くなり、あんなものは取るに足らないものなのだと、私は小頭に認めてほしかった。

「昔馴染みでね。」

小頭の、『それ』について語るときの口ぶりはいつも簡潔であった。だがこの簡潔さの中に、どうしようもない気安さと、共に過ごした時間の長さが感じられて、私は嫌だった。私の失態を冷やかす先輩などが、『それ』が私の命を救ったという事実にかこつけて、『それ」』ついて酷く饒舌に語るのは、却って『それ』の事をよく知らないことの証左のように感じられた。実際、誰もが『それ』のことを何も知らなかった。『それ』に関する情報はたった三つ。所属の城を持たぬフリーの忍であること。通り名がということ。そして、雑渡さまが小頭に就任されて以降、頻繁にタソガレドキの忍務を手伝うようになったこと。若く美しい女に目がない先輩方はこれを好機と捉えたらしく、私をからかうついでのように、殊更『それ』の話題を小頭に振った。

「小頭はさまと何処でお知り合いになったんです」
「忍の出逢いの場なんぞ戦場を置いて他にはにないさ」
「隅に置けませんな。恋仲なのですか。あのような美人と」
「邪推はやめておけ。私にはあんなじゃじゃ馬は乗りこなせない」
「そうでしょうか?私は是非乗ってみたいものです」
「乗ってみたらいい。口説いてみろ、手ごわいよ」
「そもそも連絡先がわからないのですが。御住まいは?」
「知らん。探せばわかるかもしれないが」
「じゃあ如何して忍務の依頼をしているのです」
「うーん。勘。」

そう言って小頭はニヤリと笑った。何度先輩方が『それ』についての情報を小頭から聞きだそうとしても、話はいつも此処で打ち止めであった。勘。先輩方は小頭の言葉に煙に巻かれたと不満に感じたようだったが、どうだろうか。私は案外、嘘でもなかったのではないかと思う。というくの一は、実在の忍でありながら、何処かしら寓話めいたところのある存在だった。腕が立つという話で、実際に腕は立つのだが、忍務の依頼が出来るのは、我々の知る限り、小頭のほかにはいなかった。かといって、小頭の子飼いの者という様子でも無い。大名か知己の依頼しか受けない、といつか、私と他に数人の部下しかいないときに、小頭が零すように言ったことがある。喧騒にまぎれて消えたが、それは本当の、事実だったのではないだろうか。兎に角、戦が近くなる、又は戦が佳境になると、何処からともなく現れ、静かに依頼をこなし、音も無く去る。それがという忍であった。

と二度目に顔を合わせたのは、私の謹慎が解けてから一年以上を経てのことだった。私は『それ』に命を救われた恩があることが嫌で嫌で仕方が無く、の現れそうな戦場を予め調査しては、別の場所に配されるよう苦心し続けていたのだ。いくら相手が『それ』だとしても、恩人に対してあまりに失礼な話だが、兎角、『それ』に礼を言わねばならぬことが、私にはあまりにも苦痛だったのである。そうしてまんまと一年、逃げきった。あの日以来常に鮮明であった苦い記憶が少し遠のきかけた頃だった。あまりにもタイミングが良かったので、私の心を見通した雑渡様が、時機を図って下さったのかも知れぬ。そう考えると顔から火が出るような心地がする。

和やかな午後だった。茶を二つ持つように命ぜられ、別室で薄茶を二つ立てて小頭の部屋へ参じた。盆を置いて戸を開け、一礼して部屋の中を窺うと、文机を背もたれにして、黄緑の座布団の上に足を揃えて座る小頭の目の前に、酷く不機嫌な面をしたが座していた。ぎょっとするより先に、二度目の対面にも関らずその凄艶な花貌にまず目を奪われたことを覚えている。文机の目の前にある窓から格子に区切られた日差しが差し込んで、板張りの床に小頭の影を伸ばし、小頭の背にさえぎられずに届いた光がの白い頬を照らしていた。長い睫に覆われた瞼を固く閉じている所為で、濃い黒い睫が白い頬に落ちていた。眉間には深い皺を寄せ、紅色の唇を引き結んでいる。私が引き戸を開けても、腕を組んで微動だにしない。あまりに麗しく、精緻な細工の施された人形のように見えた。見事な造作であるとしか評し様の無いかんばせ。容姿だけは、どうにもならない。予め持って生まれたものだ。故に私は人のかんばせにさして頓着したりはしないのであるが、のそれは、それについて考えたくないと思えば思うほど頭を離れなくなるような、強烈な美貌なのだった。まるで呪いのように。だからこそいっそう腹立たしく、憎悪せずにいられなかった。

小頭はああ、と私に軽く手を振った。盆を持ち直した私がぎこちなく腰を上げると、そのままでいいと笑って、小頭が立ち上がる。固まる私に笑って近づき、盆ごと茶を取って、下がっていいと手で示した。小頭は盆の上の茶碗を一つの前に置き、座りなおしてご自分の前に盆を置いた。冷たい床がきりりと軋む。その音に反応したように、は片目を開け、眼球だけを動かして、じろっと私を一瞥した。大きな瞳が黒曜石のようにきらりと光る。視線の鋭さは変らず、相対するものを射抜く、矢のようだった。しかし応戦するように、思わず睨み返す私には、それがどうしたと言わんばかりで、すぐに瞼を閉じてしまった。その無関心さは、もう私の命を救ったことなどとっくに忘れてしまったという様子であった。思わず頭に血が上り、頬がカッと熱くなる。小頭が私の名を呼んで、繰り返し促すので、一礼して廊下へ出たが、冬の初めの冷たく締まった空気すら、私の怒りを抑えるには足らなかった。部屋からは、の低い声と、小頭の笑いを含んだ声が交互に聞えた。何を話しているのか、興味はあった筈だが、煮え滾る憤怒はあまりに強く、意識をそちらに割くことができない。私は両手の拳を握り、歯を食いしばってそこに立っていた。

数分の後、通りがかりの先輩方に肩を掴まれて揺すられ、漸く我に返った。先輩方は立ち尽くす私を見止め、心配してわざわざ私に声をかけてくださったのであったが、戸の向こうにがいると知るなり、私の存在なぞすっかり忘れてしまったらしい。私を放り置いて、小頭の部屋の前に集まって、聞き耳を立て始めた。眼前に並ぶこそこそとした後ろ姿の情けなさに、ようやく冷静さを取り戻した私であったが、先輩方を諌めようと脚を踏み出す前に人垣に囲まれた木戸ががらりと開いた。引いた戸に手を当てて、仁王立ちするの玻璃のような双眸が、じいと私たちを見ていた。矢のような視線は誰にとっても強すぎるようで、一番前に陣取っていた先輩などは、顔を赤らめて凍りついたまま後ずさりする始末である。及び腰の集団に、はふん、と高飛車に鼻を鳴らした。

「何か用?私?それとも雑渡?」

つっけんどんにそう問うた。突き放すような口調の為か、その声は以前聞いたより高く聞えた。しかし、聞かずにはいられない響きは相変わらずで、その強さにたじろいだ私達の誰もが、返事が出来ないでいた。沈黙は数秒続き、そうして先輩方は漸く、これが好機だと気付いたらしい。神出鬼没で、気が付いた頃にはもう居ないくの一と、会話が出来る数少ない機会であると。一方で、私はがいとも容易く小頭を呼び捨てにしたことに非常な衝撃を受け、人垣の一番後ろで奥歯をぎりぎり噛み締めていた。先輩方の肩越しに見えた小頭は、私の点てた薄茶に口をつけ、ご自分の煎餅を齧りながら、こちらを見もせずに肩を竦めて首を振っていた。その様子すら、小頭との親密さの証のように思われた。私の怒りなどさておき、狼隊の中でも一番押しの強い大男が、の両手を握らんばかりに前のめりに語りかける。は迷惑そうに言い寄る男の顔を見上げた。

「大変なご無礼を致しました。しかし、どうかお許しください。私は貴女の事が知りたいのです」 気障な芝居口調に、ははあと気のない相槌を打った。後を追いかけて、「私どもは、です」と先輩の言葉に誰かが訂正を入れる。はいかにも慣れきっている風で、半眼で声のほうに御座なりに手をひらりと振った。それだけの動作ですら溜息を漏らすものがいた。 「幾つか質問をしても?」
「まあ・・・。答えられる範囲で。挙手制ね」

酷く面倒臭げにしながらも首を縦に振ったのは、断ったほうが面倒だな、と推測した故の行動だろう。しかし消極的な肯定にも歓声があがり、一気に喜色が広がった。先陣を切って迫った男を押しのけるように、居並ぶ頭があちこちから手が挙がる。指名されるより前に不躾な質問を投げかける。

「お住いは?」
「いきなり?黙秘」
「ご結婚は」
「してないわよ」
「恋人は」
「居ない」
「失礼ですが御年は?御幾つですか」
「失礼と思うなら聞かないでくれる。ちなみにほぼ雑渡と同じ」

ざわり、と一瞬、集団が湧き、水を打ったように静かになる。私も思わず息を呑んだ。見えない。見目の印象が実際の年齢とあまりにも乖離していた。小頭の年齢は三十路に差し掛かる頃である。此処にいる大半の人間よりも年嵩だ。はどう見積もっても二十代前半、或いは、十代後半と見えたかもしれない。小頭は相変わらず腰を座布団に落ち着けたまま茶碗を干して笑った。それ見たか、と、からかうような笑みだった。

「そいつ十年近く見かけ変ってないよ」
「花の命は結構長いのよ」

小頭の後を受けたがそう言って、目を伏せてふっと微笑する。蓮の花の綻ぶような笑みであった。実年齢の衝撃に凍り付いていた先輩方を再びとろけさせるには充分な威力で、初めにに詰め寄った先輩が、我慢をしきれぬ、というふうに、とうとう手を握った。先輩の黄色の、豆だらけの両手は、のたおやかな白い手に重なるといっそう堅く見えた。

「小頭とのご関係は」
「十年近い腐れ縁」

後ろで小頭が笑う。彼はその様子すら目に入らぬようで、頬を赤らめたまま深呼吸をした。

「デートしてください・・・!」

一拍置いて、怒号が廊下に木霊した。我も我もと便乗する声と、図々しさへの非難が半々、轟々と天井を揺らす。その的たる本人は最早以外目に入らぬようで、堅く握り締めた手をどんどん己の胸に近づけて鼻息の荒い様子であった。私はその様に呆れ返り、軽蔑の念すら抱きながらも、無意識に小頭を横目で窺うように眺めていた。小頭は半眼で、暇に任せてつまらぬ本を読むかのような、薄い笑いを浮かべ、の背中を見ていた。といえば、きつく握られていた両手をどうやってかするりと桃の皮を向く様に外し、呆れたように髪を掻きあげる。そして一度首を傾むけてから、軽い調子で言った。

「私よりも強い男ならいいけど」

の言葉に、その場の誰よりも速く、後ろの小頭が吹き出した。くっくっく、と噛み締めるように笑う。

「お前それいつも言ってんの?かぐや姫気取り?」
「黙れば?部下の躾も出来ないどっかの小頭のほうがよっぽどお笑い種よ」