それについて
#1.追憶





究極、私という男は『女』なるものをそもそも同じ『ひと』という存在として認めてはいない。姿や先入観で対象を侮るのは忍として二流の証である、ということを、忍になる為に生まれ忍として生きてきた私は痛いほど学ばされてきた筈で、また実際、それに深く同意するところではあるのだが、最早幼少期の刷り込みと言って良いこの偏見から、結局今も尚抜け出せずにいるのだった。つまらぬ弁解をさせていただくが、軽蔑侮蔑は極めて自動的な、殆ど本能に近い感情である。理性で律することができたなら、私とてそうしただろう。例えば戦場でくの一と対峙する時など、一度見て、ああ女か、と侮りから緩んだ緊張を、否、あれは敵だと、間を置いて引き締めるのだ。一瞬の判断が命取りになる戦場でこの性分は難儀なことこの上ないが、一行に治る気配が無い。こんな有様では私は私に指揮官の才がないことを認めざるを得ない。部下はいつか私の一瞬の侮りが元で命を失うであろう、そう常々思っているのに、治らない。不可能だ。私の性根がそうさせるのだ。

生家は女の多い家系で、私は三人の姉にかなりの間を置いて漸く、高坂家の長男として世に生を受けた。年の離れた姉達は、待望の跡取りたる私を随分甘やかし、過保護な母などは殆ど溺愛と言っていいほどの可愛がりようであったという。幼い時分は身体があまり強くなかったこともあり、三つを越える頃までは、殆ど外に出たこともなかった。だから私の一番初めの記憶は、真新しい畳の香る書院から廊下に顔を出して、ぱたぱたとかけてくる姉の足音に耳をすましていた光景である。老境に差し掛かりかけた頃にようやく跡取りを得た、元来は厳格な男であった父は、ほんの偶のあれそれがほしいという姉達の控えめな要望には省みもしないわりに、長子の私には何でも与えた。それは幼き日の私に、自分がこの世で一番偉いのだと錯覚させるには充分すぎるほどの甘やかしようであった。老いたる父のそれでも力強い腕や、読み聞かされる軍記物の英雄を通して勇猛な『男』を学んだ私には、それぞれあまり身体の強くなかった母や姉達の遊びや笑顔はいつも退屈で儚かった。女とは脆弱で柔い、ぼやけた白い丸のようなものなのだと私はそこで刷り込まれたのである。更には長じて、身体も丈夫に育ち外へ遊びに出、同じ年頃の小生意気な少女らと行き会って喧嘩になる度、「あれは女子なのだから」と諌められた経験が、私の女子への蔑視をいよいよ確固たるものにした。女は弱い。男である私と、同じ土俵になど立たない。更に少し長じれば、あれほど喧しかった近所の少女らも、大人しく小さく恥じ入って、花のような匂いをさせるようになった。ああ、あれらは矢張り、あれは住む世界の違うものなのだと、私は考えたのだった。

「女など、弱いものです。相手にするものではないでしょう。」

その前後の話の流れすら最早覚えていないが、そう言った幼い私を、それは違うと笑って諌めたのが、若かりし頃の組頭であった。その長身の半分の背丈もなかった私の頭に手を置いて、まだ火傷に侵されていないつややかな頬を緩めて雑渡さまは微笑された。

「女を侮るのは良くないな。女は強いものだよ。」

美しいものを見るような目をされ、その笑みになんとも形容しがたい苦笑めいた表情が広がっていくのを、私は呆然と仰ぎ見て居た。憧れの方に諌められたことの恥ずかしさ、薄い靄のような柔らかい苛立ち、そして、何を言っているのだろうかという、純然たる不理解が胸を占めた。女など。私は男である自分が女より優等であることを固く信じていた。そうでないことを知った今ですら、どこかでそれを信じている有様なのだ。無力さに起因する全能感で、己の傲慢さに少しも疑いのなかった当時の私に、雑渡様のお言葉が理解できぬのも無理はなかった。

雑渡さまが言った言葉の意味を、はっきりと理解したのは、それから少し時間が経ってからのことだった。そして、あの眩きものを見るかのような瞳が、『女』という性別を眺めたというよりも、寧ろ特定の人間に向けられたものだと知ったのも、その時だ。 私にとって、女とは、ぼんやりとただ柔らかい、白い丸のことをなのだ。だから、『それ』は、少なくとも私には、けして女などでは無い。丸いところなど、ぼやけたところなど、あの存在の何処にもありはしない。初めてそれを見たのは、十三の晩夏のことである。


人生で、二度目の忍務の最中であった。戦場に程近い山中で、私は一人味方と逸れ、敵の忍に追われていた。死ぬと思っていた。よく覚えている。死ぬと思った。恐ろしかった。止まることが命を諦めることと同義であることにも気付かず、私は恐怖に足を取られて地面に尻餅を付き、己を殺すであろう切先に怯えてまるで死を待ちわびるかのように目を堅く閉じていた。しかし痛みや衝撃はいつまでもやってこない。恐る恐る目を開くと、杏仁肩の視界の中を、形すら解らぬ速さで影が動いていた。状況も忘れ、きっと遥か上空を鳥が飛んでいて、影だけが私の目前にあるのだと思った。無限のように長い数秒の後、『それ』の黒曜石のように鋭く輝く双眸が私の目を引き付けて、それが鳥の影などでなく、生きて動く人間だと気付いた。射抜くような視線。白刃の切先を連想させる跳ね上がった眦。覆面に覆われぬ目元の、自ら発光しているかのような白い肌、長い手足は竹のように撓って敏捷に動き、猫のように軽やかに地面を蹴るその身体が跳ねる。烏羽玉の黒髪が靡いて、その手に堅く握られた苦無は、当然の運命の帰結を描くかのように、正確無比に敵の咽喉を裂く。何度も。何度も。そのたびに噴出す鮮血を事も無げにさらりと避けて、『それ』は尻餅をつく私を一瞥した。

草深き森の、木々の連なりが丁度途切れ広場のように開けた場所である。重なりあう葉の間から差し込む新緑色の木洩れ日が、斑に『それ』』を照らしていた。まるで舞台のようだった。捉えたものを焦がしそうな強い視線は鋭く、鮮明で美しかった。厳然とした性別の差異を、女の性を、その身体に認めながらも、私の本能は『それ』を女と認識することを拒絶した。何だ、これは。『それ』は自らの築いた屍の山の上に立ち覆面を解くと、一文字に引き結ばれた鮮やかな紅を晒し、一拍置いて莞爾と笑った。青空のように含みなく晴やかな笑顔だった。

「タソガレドキの子?」

女にしては低いが、よく響く声だった。耳によく馴染み、強制的に話を聞かせる力を持っている。意味を理解した私は、顔に血が集まるのを感じた。怒りと、急速に『それ』に対して湧き上がった、恐ろしいほど憎悪で。

タソガレドキの忍組に、それも無理を言って漸く狼隊への入隊を許されたばかりの私は、功を立てることに必死であった。その焦燥から先走り、一人隊から逸れ、敵の目に留まり追い詰められていたのであるが、それでも一端の忍びであるという矜持は堅かった。「里の子」という表現は、ひどい侮辱に感じられた。そもそも女に命を助けられたという事実が私の自尊心を痛めつけるには充分すぎるもので、こんな何処の者とも知れぬ者などに助けられるぐらいなら、ここで死にたかったとすら思った。未だ立ち上がりもしない私に、女は髪を掻きあげて小首を傾げる。図ったように、遠くの空で笛の音がした。重なり合う枝葉に覆われた空では日の傾きはわかり難いが、木々の影は長く伸び始めていた。

「私、あなたのとこのバイトよ」

聞きもしないのにそう名乗る。子供を諭すような声色であった。怪しいものではない、と暗に語る。頭に血が昇った私には、「命が助かって、運がよかっただろう」とでも言うかのように聞えた。怒りの為の震えを怯えととったのか、『それ』は懐からタソガレドキの印と、組頭の―――当時は、小頭の、花押の付いた札を見せた。その時組頭を勤めておられたのは無論別の方である。雑渡様の花押の札を持つのは、組頭からでなく、小頭である雑渡様からの依頼で此処に居たからに他ならない。私の直感は瞬時に、あの幼い時分の、雑渡様の表情を思い出した。そして、これがあの方の仰った『女』だと、悟った。あれほどの方が、女などを恐れるのは、全てこの者を見ての事なのだろうと思った。

その事実は私の『女』に対する敗北であり、自分が軽蔑しているものに敗北した、という絶望であった。花押を見止めた瞬間、まるで自分が敗軍の将であるかの如き虚しさと哀しみが、一挙に胸に押し寄せてきた。枝を揺らして風が森を通りぬけていく音が妙に大きく耳に響いた。私は相変わらず尻餅の体制で、点々と生い茂る草と、腐りかけた落ち葉に覆われた地面に付いたままの両手で、咄嗟に土を引っかいていた。夏の終わりの草の匂いに、噎せ返りそうだった。爪の間に柔らかい土が入り、集められた細かな葉の切れ端ごと、堅く拳を握る。血管が切れそうなほど腕に力を込めながら、ふと気付くと、恐怖の余韻か、私は立ち上がることが出来なかった。そのことを気取られることがいっそ恐ろしく、私は身の上を明らかにした女をいっそう強く睨み付けた。

『女』は尚も動かない私を見て不思議に思ったのか、長い睫に彩られた双眸を瞬いていたが、やがて我が意を得たような顔をして私に近づき、ああ、思い出すのも不愉快なことだが、その細腕の何処にそんな力があったのか、私をひょいと抱えあげてしまった。十三歳。二度目の戦であった。張り詰めた神経と身体に不相応に大きすぎた矜持で均衡を崩していた私の精神は、その凄絶な怒りと絶望と恥辱を受け止めきることが出来なかった。衝撃に絶句した私は、城へ送り届けられ視界より『それ』が消えるまで、ただの一言も発することができないでいた。極め付けにその気配が絶たれて漸く私の口をついて出たのは、あとうことか、嗚咽であったのだ。