所用のため久々に袴を着たので出来心で加州清光を帯刀したところ、人型のほうの加州清光は喜色満面、といった様子で頬を紅潮させ、にこにこ微笑んでいる。ただ日当たりのいい縁側に座しているというだけなのだが、前のめりに身を乗り出す清光のうつくしいかんばせはあまりに眩く輝いているので、まるで彼自身がぴかぴか光っているかのようだった。曰く、人の腰元に本体があるのはとても落ち着く、そして誇らしい、というものらしい。私は人間に生まれ、本体と呼べるものはこの身体一つなのでその気持ちはよくわからないが、まあ、慣れた場所にあるというのは心地よいものなのだろう、なんでも。

清光は沖田総司という、江戸の終わりに活躍した伝説的天才剣士の持ち刀であるから、こんな歴史になんの名前も残らない女の腰元に落ち着いていいのかとも思うのだが、終始ご機嫌な彼は私を庭に立たせ、もっと背筋を伸ばして、だの、柄を握ってポーズを取れだの、ちょっと鯉口を切ってみて、だの、好き勝手指示を飛ばす。私も暇に任せて言われた通りにしてやると、ますます嬉しそうに鼻息も荒い様子でいて、私にはやっぱりその気持ちはよくわからない。

終いには、「ちょっと抜いてみてよ」とまで言いたした。

さすがにそれは。

と思ったが、清光の美しい紅玉の双眸が期待にきらきら輝きながら私を見据えるので、胸中で沖田総司に謝罪しながらも、仕方なく鞘から刀身を抜いて、おそるおおる空に掲げた。研ぎあげられた鉄の肌が、蒼天に映える。見ているだけで皮膚が切られそうなほど、鋭い姿である。

初期刀としてこの手にとったときから知っていたことだが、きれいな刀だ。天下にその名を残す剣士の愛刀であった彼が、こんな事前講習を2か月程度受講しただけの素人丸出し抜刀に耐えられるのかと思ったが、ちらりと横目に見た清光は面映ゆそうに微笑んで、至って嬉しそうにしている。 その幸福を絵に描いたような微笑は、こちらが恐縮してしまうほどだった。本職にはかなわないとしても、もっと真摯に、抜刀の練習とか、刀の扱いについて予習とか、しておけばよかったと、今更後悔の念が肩にのしかかってくる。

「ごめん・・・」
「え?何が?」
「扱い下手でさ・・・」
「んーん!全然!下手じゃないよ。大事にしてくれてんの、わかる。主に触れられてると、主のことわかるよ」

そう言われて、はたと気づいた。その感覚は私にもわかる。握った刀の柄が、想いにこたえるようにあたたかい。私も、そうだ。私も、清光に触っていると清光のことがわかる。物の声を呼び起こす、という力のためか、物に触れるとき、そこに残った誰かの記憶や、思いや、魂が流れ込んでくることがある。私は新選組のことも沖田総司のことも参考書での知識しか知らないのに、目を閉じれば線の細い、清光と安定によく似た青年が威勢よく刀を振るっている光景を、瞼の裏に描くことができる。いつでも。

武士の誉。誇りの具象。求めてやまなかった、だれかの夢の場所。二度と届かない、遠い思い。諸々のこと。

瞼を光に擽られて目を開ける。掲げられた加州清光が、日の光を受けてきらきらと光っている。きれいだなあ、とつぶやくと、彼は照れたように目を細めて、誇らしげにこういった。

「かわいくしているから、大事にしてね」



(本丸の思い出1/end)