あっという間に均衡を失った。足首に巻き付いた鎖を凝視して、その武具「微塵」が竹谷八左衛門の得意武器であることに気付く。してやられた。
 実習と実践は紙一重、というよりも、表裏一体ですらあって、実習で命を落とすことも貞操を失うことも、さほど珍しいことではない。傾いた身体は地面を踏まず、そのまま穴に引き摺り込まれ、反射で掌が無様に空を掻いた。指先がゆっくりと丸まっていくのを眺めながら、まあ仕方ないか、と、諦めが体温を静かに下げていった。気楽な諦観は忍びの性か、それともこれから自分の身に起こるだろう「予想外」を楽しんでいるのか、自分でも判然としない。
 私の知る限りでは、竹谷八左衛門は女の足に得意武器をひっかけたりするような男ではなかった。いつでも優しく、少し情けなくて、実力行使なんて絶対しない。そのはずだったのに、どうしたことなのか。  感情を誤魔化そうとする、ぎこちない微笑を思い返す。記憶の内容は半月前の一幕だった。  竹谷八左衛門は、私のことが好だと言った。というか、言わされていた。





「ごめん。私、男らしい人が好きなの。七松先輩とか中在家先輩のような、肉体派で自分を譲らない人みたいな」

 正直に断ると、鉢屋と不破は全く同じかんばせを見合わせて何やら思案顔をしてから、同じ木から別れた枝がそれぞれ左右に違う形に伸びていくかのように、異なる反応を示した。右側で、鉢屋はいかにも柔和そうに見える丸い目を半眼にして窓の外を見ながら「趣味悪い女。解散だな」と言い捨てる。左側の不破は眉根を寄せてぶつぶつと「いや、男らしいところもあるし肉体派だし……でも八左衛門は気が優しいところがあるから……」などと真剣に思考の渦に沈んでしまった。
 鉢屋の変装は学園一精巧で、まず正体を看破できることはないが、不破の顔をしているときだけは、素の鉢屋三郎に触れているような気がする。どうでもいい話だけど。
 私は視線を手元の茶碗に落とし、ふやけた茶葉の滓が浮く水面を見つめた。昼の日差しが反射する濁った水鏡には、鉢屋と不破に挟まれて、すっかり小さくなった竹谷八左衛門が、顔を赤くしたり青くしたり忙しく、しきりに手甲で額の汗を拭っている様が写っている。
 私は軽く天井を仰いで、遠い南にあるという、ある木に寄生して養分を奪う植物の話を思い出していた。二人がけの座席に三人で座り、不破と鉢屋に挟まれて頑なに下を向いている竹谷の姿は、糧を奪われて痩せ細っていく木そのもののようだった。そもそも自分を振った女の目の前で、友達が両脇に控えている状態も、端的にかなり情けない。この気弱さよ。
 鉢屋の云う事、不破の懸念、どちらも正しいように思われた。気質と女の趣味が合っていないのだ。竹谷は、客観的に快活で分け隔てなく優しい男だ。なぜ私のように性悪で高飛車な女を好きになったのだろう。まあくのいちなどというのは9割高飛車で1割は人格破綻者なので、仕方がないか。
 理由を聞いてみたい気持ちはあったが、話を聞けば情状酌量の余地を持たなければならないだろう、と思うとこれ以上の面倒も気が引けた。私はひとつ、区切るような気持ちを込めて頷くと、席を立った。

「じゃあ私はこれで」
「まあ待てよ」

 すかさず鉢屋が制止する。うんざりだ。けれども、後までしつこく付き纏われるのも厭なので、渋々足を止める。鉢屋はにやりとして、自らの左手を差し出すように開いて見せた。

「八左衛門は結構肉体派だし、通すところは通す一本気なところもあるぞ。いい物件だと思うが、再考の余地は?」

 私はその、明らかにダメ元、という提案を受けて、暫く、口に出す価値もないようなことをいくつか考えた。まあなんというか現実逃避を一瞬しただけだ。何も考えちゃいない。考えたようなそぶりをしてから、私は鉢屋に向き直って首を横に振った。

「単に頭脳派じゃないってだけでしょう」
「きっつい女だな」
「そもそも、女に口説き文句を弄そうというのなら、こういう状況自体どうかと思う。友情は素敵だけど」

 慌てて不破が立ち上がって否定した。

「いや、この場は三郎が無理やり整えたんだ。八左のせいじゃない」
「そういう押しの弱さが興覚めなのよね。子供っぽい」

 言い切ると、不破は酷い衝撃を受けたようにしおしおと萎れてしまった。竹谷の顔はうかがえないが、そのまま踵を返して店を出た。暖簾をくぐる直前で、鉢屋が苦々しげに、やめとけあんな女、と言うのが聞こえた。





 回想は終わりだ。今回は、あの日コケにされた仕返しか、それとも、本気で何か仕掛けてくるつもりなのか。足には今も、竹谷の微塵が絡んでいる。強い痛みは無いが、咄嗟に抜け出すこともできない。落下に備えて、受け身のために背を丸める。
奥歯を噛んでいたが、衝撃はなかった。丸まった背中を、誰かの手がすくい上げて、痛みを得ないまま、気が付くと熱く柔らかいものに包まれて地中に転がっているようだった。痛くも苦しくもないが、動くことができない。
 目を開けると、頬にちくちくと、灰色の、傷んだ髪が突き刺さっている。汗と土の匂い。
 穴に落ちた私を、竹谷が抱きとめていた。胼胝だらけの固く太い指が口元を覆ってくる。耳元で、吐息だけが「静かに」と囁きかけてきた。不服だった。ビビっている、と思われることがだ。この醜態、敗北!言われなくても静かにするに決まっている。実習で大声などあげるものか!
 黙ったまま頷けば、竹谷は吐息だけで少し笑った。土まみれの布地が頭上にかぶせられて、何かおかしい、あれ、もしかしてこれ土遁?
 思い至った瞬間に、穴の外から話し声がした。

「今、女がいなかったか?」
「こんな山奥にか?」
「最近戦があったからな、幽霊でも見たのかもしれん」

 聞き覚えがある声だった。頭の中の情報を探そうとして、その前に竹谷が正解を言った。吐息が耳を擽る。
「ドクササコの忍だな」
 男たちの声は、そのまま雑談を交わしあいながら遠のいていった。私はそれを聞きながら、状況を整理した。
 つまり、私が竹谷を警戒したのは言いがかりで、無警戒にドクササコの忍に姿を見せかけた私を、竹谷が庇った、という状況なのではないか。

 声が聞こえなくなってしまうと、竹谷はふと思い出したように、私の口を覆っていた指を外した。離れる瞬間、やはり汗の匂いが鼻をついた。

「……なんでドクササコがこんなところに?」
「実習と戦場が重なったんだろうな。先生に報告しよう」

 まあ、先生方は意図的に重ねてるような気もするけど……。と竹谷は頭を掻きながら溜息を吐いた。唇を解放したのちも、体を押さえつける腕を解くつもりはないらしく、それとなく体を捩っても、「結構肉体派」らしい身体はぴくりとも動かなかった。燃えるように熱い皮膚が衣の布ごしに伝わって、私の汗を誘う。

「助けてくれたの?」

 尋ねると、竹谷は少し黙ってから、まあ、と歯切れ悪く認めてから、たまたまだけど。と付け足した。恩に着せようとはしない言い草に、意図を図りかねる。一貫して控えめな言動のくせに、竹谷の腕は私の胴を自分の腰に抱え込み、空いている指が私の輪郭をなぞるように衣を撫でた。平常心でいるつもりが、息を呑んだのは反射だった。
 竹谷は私の呼吸を聞き取ると、また微かに笑ったような吐息を漏らし、ぐっと腕に力をいれた。
そして、どこか諦めたように言った。

「先輩方なら逃がさないんだろうけどな」

 溜息ののち、押し出されるように体温が離れていく。私が目を白黒させていると、竹谷は両手を軽く上げて、いかにも善良そうに言った。

「すまん」

 どうにも本気の謝罪らしいその台詞に、私はいよいよわけがわからなくなって首を傾げた。今、かなりいいところまで行ってたのでは?と、他人事のように思う。

「私のことが好きなんじゃないの?」

 すると竹谷はこの期に及んで頬を赤らめて、「好きだけど」と前置きをして、なんとも情けなさそうに眉を寄せ、「でも、こういうのは俺の柄じゃないだろう」とだけ言った。
 ふう、と息を吐いて背を向けようとする動作を見ながら、じわじわと、私は肌に熱がこもっていくのを感じている。

「戻るか。……どうした?」

 そんなの、こっちが聞きたいほどだ。本当に優しいばっかりの気弱な男だ。好みじゃない。好みじゃない、のに。指が彷徨って竹谷の衣を掴む。頬に集まった燃えるような血潮がどくりと、私にだけ聞こえる音を立てていた。