泥舟奉公






 三ヶ月毎の更新の書類に認印を押すたび、私の上司が安堵の吐息をそっと漏らすことを知っている。先天的に底意地の悪い性格なので、その時はいつも「やっぱり新しい勤め先が決まったので、今までありがとうございました」と告げられた上司の顔を想像して楽しんでいるのだけれど、現実、これも生来怠惰な性分が邪魔をして、なかなか新しい職場を探そうという気になれず今日に至るわけである。上司は私が求職活動を始めることを非常に恐れていて、他の人とはちょっと違う次元の量の仕事をぶん投げてくるので、休みもなければ帰りも遅い。一般的にそれは逆効果だが、すぐにでも仕事を捨てようという気にならないのは、数多の労働条件の劣悪な城と違い、評価も時給もガンガンにあがっていくからである。流石民草の血税を搾りとり、豪族の財産を毟りとり、暴虐の限りを尽くして憚らないドクササコ城、人の金で払う給与は安いものなのだろう。勘定方の金銭感覚は気が狂っているとしか思われない。この師走など派遣のくせに私には賞与がついた。無論、破格の待遇は、金銭感覚の異常さのみによるものでなく、この上司が裏で手を回しているからに他ならない。賞与の発表のあと、個室に呼ばれて正社員の口を勧められた。断った。上司はかなりガッカリしていて私はこっそり愉快だった。使う時間もないので、賞与と時給が合算され、老後資金だけがいたずらにたまっていく。まあ金があるのはいいことだ。貯めたいだけ貯めたらとびきりいい着物を仕立ててそれを着てとんずらしてやろうと思っている。それには今はまだ少したりない。

 何故正規雇用されないのか。などと同僚にも尋ねられるが逆に彼らは何故、ドクササコ城などに就職したのだろう。ドクササコ城の忍者だなんてことが街でバレたら目も当てられない。往来を歩いているだけで、腐った柿を投げつけられ汚水をぶっかけられる。人非人の部類ではないか。いくら待遇がよくても悪評が立ちすぎて日常生活に支障をきたすのでお断りだ、と言ってやりたかった。しかしそれを聞いた職場の皆がいきなり辞め出したら私の仕事が増えて困るので、夢があるから……中身は内緒だけどネ。とかなんとか適当な嘘をついて誤魔化しておいた。やっぱり仕事のできる人は目標があるんだね、などと言われたが、褒められて悪い気はしないものの、真っ赤な嘘である。だからまあ夢や目標など曖昧模糊としたものの有無は仕事の出来には関係がない、ということがわかる。

 最近変わったことといえば上司が一緒に昼ごはんを食べたがることがある。部下が無能なことを嘆いた際に、忍術学園の子供に、もっと部下とコミュニケーションをとれ、だの、そのような指導を受けたらしい。迷惑だな。休憩時間まで拘束されるのはパワハラだと思うが、断って機嫌を損ね、今よりさらにきつい仕事を回されたら嫌なので言うとおりにしている。忍たまもまったく余計なことを言ってくれたものだ。

 そもそも私は手前味噌ながら「無能な部下」には含まれないので、昼食を一緒にとることによる更なる成長、コミュニケーションの深化を見込まれる筋合いはないない。しかし、上司がそれを望んでいる当事者の社員たちは、いつのまにやらお昼の会から1人また1人と抜けていった。よって今で、私と上司は哀れにも2人差し向かい合って食卓を囲んでいるのだった。上司を立てる気がまるでないマイペースな彼らも彼らだが、上司も上司なのだ。初めの3日を過ぎた後は、もうすっかり諦めたのか、私以外にはたいして声もかけなくなってしまった。まさしく3日坊主というやつだ。しかし、何故上司が彼らを昼食に誘わなくなったのかは、私にもわかっている。つまらない理由である。
 彼らの弁当が、上司より豪華だから。
 営業日のほとんどを9時に出社して5時に帰っているドクササコのプロパー忍者たちは、毎日おいしそうなお弁当を自前で作ってきている。これは、はっきり言って、私でも、側で見ていてムカつく。なぜかというと、わたしの食事の内容は、上司とほぼ同じだから。ひどいものだ。買ってきた握り飯ひとつあればまだいい方で、団子一本はザラ、繁忙期繁忙期のとき等は忍者食の兵糧丸一粒で10秒チャージ、しかも別に珍しいことではない。日が昇る前に登城し、日が昇る頃に帰宅しているのだから昼食の準備に時間を取れないのは当たり前の話である。無能どもは当たり前のように手作り弁当を食べて重役出勤を決めているのにだ。ハア。この世は苦海。
 面倒でもあるが、上司とともに決まった時間に食事をとるようになって、兵糧丸一粒ということは随分減った。栄養状態だけで考えればこの状況はプラスではある。

 上司は時々、外出の帰りなど、うどん屋に連れて行ってくれることもある。今日みたいにね。

 だしの香しい匂い。箸の先ですくい上げた麺を啜りながら、昼があたたかいものだと午後の仕事に人間味が出ますね、と私が言うと上司は「そうだな」と同意した。暗殺の帰り道だった。上司はいつもながら見事という他ないお手並みで仕事をこなした。流石に凄腕などと直截な渾名を付けられるだけのことはある。この上司は一般には、ドクササコの凄腕忍者と呼ばれていて、随分長い呼び名だが、名前も苗字も非公表なので仕方がない。ドクササコ城の忍者はあまり本名を公開しない。伝統的にその傾向があるようだが、この上司が上司になってから、いっそう顕著であると聞く。上司は城内でも凄腕さんとかなんとか呼ばれたり、社員番号で呼ばれたりしている。まあ、実際のところ城内で上司を呼ぶものはあまりないのだが。隠密機動が売りの忍者隊なので、おおっぴらに手を振って呼びつけられても困るのだった。

「あの男、知ってましたね」
「何だ」
「貴方のこと」

 今回の標的の話である。事切れる直前に、赤と黄色に濁った目が恨めしそうに上司を睨んだ。ドクササコの凄腕忍者。と彼は呻いた。それが最後の言葉になった。どうにも上司の悪名はこの界隈に通りすぎているようだった。

「最近は表に出ることも多かったからな」

 と上司は言った。あまり気にしていない様子でうどんをすすっては嚥下している。忍者は何でも早いに越したことがないが、ほとんど咀嚼をしないのは果たしてどうなのか。人のことを言えた義理ではないものの不養生である。

「顔が売れたら困りますよ、我々のような者は」
「ふん。まあ用心しておこう。素性が割れるわけでもないがな」

 素性が割れるというのは、素性のある人の言葉である。名を明かさないのはそのためだろう。大切なものは奥にしまって隠すのだ。常々思うのだが、この上司は悪名高い暗殺者のわりに信じ難いほど愚直で純粋なところがある。戦国の世に善も悪もないと言って、悪行三昧に手を染めることになろうとも、自分の仕事を卑下することはないのは、そういう気質に依るのだろう。

「お前も名は秘したらどうだ。」
「別に隠す価値ないですよ。本名じゃないですし」

 もちろん、私には本当の名などない。ここが終わればまた違う名を名乗ることになるだろうし、違う年齢になるだろうし、顔だって変えてしまうかもしれない。本当の根無し草には隠し事もない、ただただ風にたゆたって、流れていくだけだ、身体が消えてしまうまで。 そんなことを考えていると、湯気の向こう側で、上司はなんとも言えない渋面を作って私を見ていた。

「……雇用主に虚偽の報告をしたということか」
「いいえ。そもそも、実際のところ私には名前がないんですよ。親もいませんし、どこで生まれたのかもわかりません。歳も多分19歳じゃないし、もしかしたら顔も違うかもしれませんよ。あと私の雇用主はドクササコ城でなく派遣会社です。」

丼に残った汁を飲み干しながらそう告げる。我ながらお化けのような人生だ。実態がなく、誰にも望まれず、闇夜に紛れて人を害す仕事をしている。まあそれももう、今更な話だ。丼を置いて一息つくと、隣から骨張った手が伸びてきて、私の顎を掴んで横を向かせた。人差し指が下顎をそっと輪郭をなぞるように撫でで、精悍な瞳が私を射すくめる。常ならぬ様子だった。
「素顔に見えるが」
 うーん。これ色恋営業だな。ということはすぐにわかった。くノ一の術を派遣に使うあさましさ。顎のあたりの手を思い切り叩き落とすと、痛っ、と上司が呻いた。知るか。
「顔の話はもののたとえですよ。ていうかセクハラです。触んないでください」
 冷たく言うと、上司は困りきったように眉を下げて、諦めずに私の手を握りしめてこようとする。はいこれ哀車の術ね。なんで私に通じると思うのだろうか。
「正規雇用されてくれ」
「次その話したら辞めます。あと次触ったら辞めます」
「すぐ辞めるって言うな!お前が辞めたら俺はどうなる!?」
「そんなん知りませんよ。私派遣なんで」