一、.そのきさらぎの望月の頃



兵庫水軍きっての色男である義丸が遊君に袖にされたというので、男衆の食卓は俄かに盛り上がりを見せていた。
座敷の端のほうで麦を掻き込んでいた網問は、義丸を中心にして輪になっている水軍の衆を眺めて、そりゃあおとことおんなのことなのだから上手くいかないこともあるだろう、と年頃のわりにませたことを思った。網問は北の海からの流れ者であるが、男女の縺れ話には、今までどこにいても事欠いたことがない。確かに義丸の兄貴といえば、これまで出逢った数かぎりない男たち中でもぶっちぎり満点、天下無双の男前だが、まあ、ああいう立ち上るような色男相手では気後れする女も少なくはないだろうな、と思う。男も色々だが、女も色々なものだ、うむ。
勝手にひと段落して咀嚼に集中し出した網問を、車座のうちから不意に顔を出して振り返る目があった。網問よりひとつ年嵩の水夫、間切である。彼は当然、網問が自分の後ろで車座を囲んでいるものと思っていたらしく、気の抜けた顔で一人夕餉を続ける網問を見るなり、さっと車座を抜け出し隣まで下がって、声を潜めて網問に囁いた。
「おい、お前何してんだよ」
「メシ食ってるけど」
「あの義丸の兄貴が振られたってんだぞ」
義丸に聞こえないようにだろう、間切は網問の耳を引っ張って直接鼓膜に声を吹き込むように言う。声量はないが、勢いは怒鳴るようだ。あたる息がくすぐったく、網問は顔を顰めた。
「そりゃ義丸の兄貴はカッコいいよ。でも好みじゃないって女もいるでしょ、普通」
「馬鹿、声抑えろよ!」
「いいぞ、もっと言ってやれ網問!」
いつの間にか車座から網問の様子を伺っていた由良四郎が大声で笑ってそう言った。人垣の中心でやさぐれたように酒を啜る義丸が、網問と間切を丁寧に睨みつけて唇を歪め「聴こえてるからなお前ら」と凄んだ。兵庫水軍随一の腕自慢の殺気に流石のお気楽網問も身が竦む思いがした。間切などは幼いころから義丸の恐ろしさを叩きこまれているらしく、涙目になって網問の肩に爪を立てている。
蛇と蛙の睨み合いを終わらせたのは肩を義丸の肘置きにされている鬼蜘蛛丸で、「いい薬だ、これを機にお前もそろそろ落ち着け」と呆れたように言い捨てて義丸の頭を軽く叩いた。同年の鬼蜘蛛丸に諌められた義丸はなんとも形容しがたい、笑ったような悄げたような怒っているような、それでいて懲りずに悪巧みをしているような不思議な表情をして、杯に手酌で酒を注ぐと一気に煽った。味方がいないのをわかっているようで、そういうとき義丸は驚くほど引き際がいい。頭の第三協栄丸いれば義丸を庇ってとりなしてくれたかもしれなかったが、生憎この夜は弟を訪ねて留守にしていたのである。
鬼蜘蛛丸が右手を左右にパタパタ振って、網問と間切に気にするなと言う。それでようやく緊張の糸が切れたのか、網問の肩に食い込んでいた間切の指が弛緩して、かわりに身体全体が間切に持たれかかってくる。終いには網問の膝に突っ伏してしまった間切のために食器を避けてやりながら、折角だし、と網問は義丸に向けてこう尋ねた。
「そんなにいい女だったんですか、義丸の兄貴」
膝の上で間切が噎せた。義丸はしかし随分興を削がれたふうで、酒を飲みながら至って冷静に頷く。
「ああ、まあな。」
「港でも噂になってますよ。美人らしいじゃないですか。ねえ、見てみたいですね、舳丸の兄貴」
網問に便乗した重が、瞳を輝かせながら舳丸に同意を求める。義丸の女事情にまるで興味がなかったらしく、網問と同じく一団から離れて一人で飯を食っていた舳丸は、それで初めて顔を上げ、重や義丸を見た。重と違って別に女など見たくはないのだろうが、義丸の手前なんと返したものかと思案しているのだろう。しかして、馬鹿正直な沈黙を破ったのは舳丸ではなく義丸であった。
「駄目だ。お前と鬼蜘蛛丸は絶対会うな」
虫を払うようなしぐさをして、断固とした口調でそう言い切る。鬼蜘蛛丸は自分の諫言が全く効いていないこと察して肩を落とした。蜉蝣が一人吹き出して、義丸の背中を叩いて笑いながらこう言った。
「おめえのこと振る女は大抵舳丸か鬼蜘蛛丸が良いって言うんだよなあ」
「最初だけです。最後は兄貴が持っていくでしょう」
舳丸が顔色を変えずにそう返す。義丸は返事をしないで黙っている。負い目に感じるような心当たりがあるのだろう。網問はその様子を見ながら、義丸の兄貴はどうやら本当に振られたことがなかったらしい、と思った。義丸は天才肌の小器用な男だが、努力家でもあり、粘り強い。あの色男にしつこく言い寄られたら、釣れない女も参ってしまうものなのだろうか。
「じゃあ兄貴、今回の敗因はなんです?」
網問の質問に、鬼蜘蛛丸が呆れたような笑いを零して答えた。
「敗因もなにも。10日通って部屋にもあげてもらえなかったんだとさ」
「・・・7日目からは窓が開いた」
「毎日懲りない阿呆が哀れに思われたんだろうな」
「窓が開いてどうしたんです兄貴、登ったの?」
「登れたら振られてないとさ」
「もう黙ってくださいよ!」
義丸が一喝して、一同は笑いながらばらばらと席に戻り出した。間切もようやく身を起こして、網問の隣に座りなおす。蜉蝣が最後に自分の円座に胡座を掻いたのを見届けて、義丸はさっと居住まいを正した。
「言っておきますが、俺ァ負けた覚えはない。此処で引き下がるつもりもないですからね」
馬鹿につける薬はないといわんばかりの鬼蜘蛛丸の嘆息が義丸の言葉尻に被って、水軍の衆は再びどっと湧いた。
笑い声に招かれたように、開け放たれた戸から俄かに潮風が吹き込んで、網問の髪を掻き混ぜる。嗅ぎなれた潮の香に誘われるがまま外へ目を向けると、夜の帳の真ん中に、銀色の望月が浮かんでいた。