春の夜の蓋が開く




うまく息ができない。嫌な夢を見ている。渦中にいてなお、全容が掴めない夢だ。身体は疲労に浸って昏々と眠っているのに、意識だけが暗く濁った微睡の中を彷徨っている。幼いころ泥濘に足を取られて倒れ伏したときの、覚束ない感覚に似ていた。四肢は重く泥のように変質して、もうどこにあるのかも判然としない。指の一本も動かすことができないのに、冷たい汗が背筋を滑っていくのをはっきりと感じる。皮膚は燃えるように熱く、身体の芯は凍り付いたように冷え切っている。漠然と何かに追われている感覚がある。痛烈に自分が何かを恐れているのだとわかる。歯の根が合わないほどの震えが身体の一番奥から湧き上がってくる。怖い。逃げたい。隠れたい。だけど身体が動かない。どこにも自分の手がないのだ。

どうしてしまったのだろうと思う。このところはもうずっと安らかで、悪夢に魘されることなど無かった。闇の中で途方にくれていると、湿った微睡の中にくすんだ光の裂け目が覗いた。光は急速に面積を広めて、私の視界を白く塗りつぶした。やわらかい輪郭が浮かぶ。男子にしては柔らかそうな唇が団子を頬張って綻んでいる。

ああ。そうだ。こうして秋晴れの空がどこまでも高い日だった。遠くに見えた山々の紅葉が紅く色づいて美しかった。あの日だ。これはあの日の夢なのか。納得する。脱力が次いで来る。私の手の甲に、お前の掌が優しく重なっていた日。



のことが好きだよ」

どうしたの?言葉を返さず固まっている私に、男は笑って小首を傾げた。気づかわしげ親しげで、かわいらしい笑顔だった。私はこの男のこの笑顔が大好きだった。特別な意味でだ。つまり私は今、好いた男に口説かれている。休みの日、初めて二人で出かけないかと誘われて、大きな暖かい手に手を引かれて街を歩いた。昼下がりに一息つこうと団子屋の軒先に並んで腰かけて、色づき始めた山々の赤い紅葉の美しい様を眺めながら、付き合わないか、と持ち掛けられたのだ。ご丁寧なことに男の手は伏した私の手の甲にそっと重なって、爪の切りそろえられた大きな親指が私の指先を時々そっと、内緒話のように撫でた。夢みたいだな、と私はその指先を見て思っていた。なんという如才なさだろうか、若い女なら誰でも舞い上がるような場面形成、この男は学園では天然ボケと呼ばれているそうだが、天然ボケが聞いて呆れる。えぐい、というほかない。

私はすべてを知っていたので、これは実際泡沫の夢想なのである。この男はそもそも私のことなど特に好きではない。ただの同級生としてしか見ていない。これは彼が簡単に恋人を得ることができるとクラスメイトに証明するための手計なのだ。五年い組がその手の賭で盛り上がっていることはくのいち教室ではとっくの昔に知れ渡っていた情報だった。くのたまどももさんざん忍たまの純情を手の平で弄んでいるのだから、これはお互い様であるという他ない。狐と狸の化かし合い。くのたまと忍たまの仲というのは、伝統的にそういう文化なのである。だから、この男は私がすべてを知っていることを知っている。知っていて、私に色よい返事をしろと言うのだ。彼の体温が手中にあって、彼が私を慕っていると言った、それだけの嘘に、震えるほど喜んでしまうこの私に。わかっているだろう、と、尾浜勘右衛門の丸い柔和な目が、口より雄弁にものを言う。

頭の中に天秤があった。右側の皿には卒業までの1年余りの日々が桜色を帯びて、きらきら輝きながら載っている。左側の皿には血と土と鋼が山のように盛られ、色味はどう見ても暗く、鈍色が時どき卑屈に閃いている。わざわざ言う間でもないが、桜色をした右側の皿を尾浜が握っているのである。尾浜の遊びに乗ってやりさえすれば、この一年だけ担保される私の夢だ。最後の一年。好きな男に、普通の女たちよりはそばにいることを許される日々。割り切りさえすれば、きっと充実した一年になるだろう。外道魔道の忍の道に身を投じきる前の、最後の人の世の思い出だ。時々一緒にこうして出掛けたり、話ができたりしたらいい。そうじゃないか?右の皿が比重を増して下がり、中のものが輝きながら私の手中に落ちようとする。尾浜の親指が私の人差し指の輪郭をなぞる。寄る辺がないように、或いは、催促するように。私は顔を上げて、尾浜の目を見つめた。はい、うれしい、と返事をしてやるつもりだった。

この男が自分をそれほど好きじゃないことを知っていて、将来を引き受ける気などさらさらないのも知っていて、卒業とともに捨てられるか、下手をすれば卒業前に捨てられることにも気づいていいて、それでもいい、と思ったのだ。桜色の玉は私の手の中にあった。その瞬間確かに。ぎゅうと握ると恋が溢れて、どうしてこんなにこの人が好きなんだろう、と不思議だった。

瞬間、見つめ続けた背中ばかりが、吹き出すように眼前を踊った。はじめはただの憧憬だったのだ。私の学年には早くから同級生がいなかった。いつも人に囲まれて明るく、楽しいことを探すことに余念がなく、飾らず、自分のやりたいことにひたむきに向かう、尾浜という男が羨ましかった。奔放で無邪気で、だけど実は責任感が強いことは、その背中を見ているうちに知った。おおらかに笑っていて、やりたいことはやりたいようにやって、変なところで矜持が強くて、仲間や後輩を大切にする。知っている。ずっと見ていたから。ずっと羨ましかったから。そして思い知る。この男の友の中に、自分は入っていないのだ。無念というほかない。そして、この先、どうやっても、私がそこに入り込むことはない。

私が一番見たいこの男のことは、そばにいてもきっと見ることはできないのだった。

じゃあ、もう、いいじゃないか?そう思った瞬間に、口が先に動いていた。

「ごめん、無理」

手の中の桜色はいつの間にか潰えて、土くれの塊が爪の間に食い込んでいた。私は目を閉じて、尾浜の手の平をはじくように、手をきつく握りしめて拳を作った。それから瞼を押し上げて、まっすぐに尾浜を見据える。誰かが物陰で息をのむ。 タイミングよく、遠くで鳥が鳴いた。空には雲が出始めて、すべての浪漫が幕を降ろしていた。そろそろ帰らなければ門限の時間に間に合わないだろう。尾浜は殴られた人のように目を見開いたまま暫く固まっていたが、やがてうめき声をあげながら頭をがしがし掻いた。そうして半眼で私を睨む。

「一応聞いとくけど、・・・何で?」

嘘だと知っているから。茶番に付き合うのが嫌だから。本当に好きだから。好きなことがつらいから。恥ずかしい理由はいくらでもあったけれど、どれも彼に投げ返すには不釣り合いにまじめで重たかった。苦笑を禁じえず、笑ったまま肩を竦めた。

「そのほうが面白いから」

そうだろう。この台詞が一番、この恋にはふさわしい。私は団子の代金を置くと、立ち上がって学園への道を歩きだした。歩いている途中で涙が出てきた。最後まで、往生際の悪い恋だったと思う。



それにしたって何故今更、こんな夢を見るのだろう。あの日から尾浜とは特に話をしていない。毎晩の夢に出てきてほしいと願い、夜着を裏返したことも、とっくに昔の話だ。娯楽にされる前に娯楽にして捨てた、私の恋。この期に及んでまだ未練があったのだろうか。いい加減諦めろ。そろそろ私も最上級生になるのだ。血と土と鋼を山盛りにした、修羅の道を歩いていくのに、叶わぬ想いなど邪魔な荷物でしかない。そうだ。これで良かったじゃないか。この五年間ずっと見ていた。好きだったのだ。心はあの男の思い出とともに捨てていく。この先誰にも恋はしない。だから、もう許してほしい。

「やだね。許さん」

覚醒は一瞬だった。薄いまどろみの膜がはじけて、瞼が跳ね上がるように開く。叫び声をあげなかったのは、口が塞がれていたからだ。柔らかい唇の感触のあとに、ずるりと生々しい他人の熱が口の中に割り入って、歯列をなぞり舌を引っ張りだしてくる。息ができない。熱い。思考力が奪われていく。身体が熱くて重いのは、なんのことはない、他人の体温と体重が、そのまま身体の上にのっているからである。暗闇の中、尾浜勘右衛門は、私の瞳をのぞき込んで舌なめずりをした。

「魘されてたな」
「上にのられてたら、そりゃあ・・・っていうか・・・何してるの・・・?」

尾浜は酷薄に笑って、私の首元に顔を埋めた。やわらかい髪の毛が顎を擽る。ざらりと首筋を舌が這う感触がして、肌が泡立った。耳元に直接吐息が吹き込まれる。熱元を引っ張り出されるような所業に耐え切れず身を捩ると、尾浜の指が手首に食い込んだ。痣になるような強さだった。

「何って。夜這いだよ」

聞くだけ野暮だと言わんばかりに、尾浜は言った。夜着はすでにかなり乱れて、帯も引き抜かれている体たらくだ。シナ先生にバレたら死ぬほど怒られるだろう。予想外すぎる出来事に赤面するのも今更で、呆然としたまま尾浜の肩越しに天井を仰ぐと、見慣れた木目と木目の隙間に人が一人通れそうな穴が開き、屋根裏の闇がのぞいていた。あそこから降りてきたのか。天井裏などというベタの極致な侵入経路、何よりくのいち教室に夜這いなど、大した大胆さである。思い人ながら、頭がいかれているのではないかとすら感じる。昼間に手練手管で連れ込み宿にでも引っ張りこむほうが余程成功率が高いと思うのだが、この人は怒りで頭が沸いてしまったのではあるまいか。

「・・・此処で私が大声出したら退学になるよ。頭に血上りすぎじゃない?」
「そうだよ」

尾浜勘右衛門は何の衒いもなく肯定して、それから目を細めると、私に触れるだけの口づけをした。ゆっくり唇が離れると、自分の顔に熱が集中していくのがわかった。尾浜は私が赤面する様を眺めて、小首を傾げて、親しげに、気づかわしげに、かわいらしく微笑んで、私の頬を撫でる。

「でもこのほうが面白いだろ?」