天の国は近い・下





小松田さんが差し出す入門表にサインをしたところで、大木先生は門の向こうで見慣れた細い背中を見とめた。まごうことなき、ちゃん本人であった。薄紅色の小袖に、山吹色の帯。いつもの姿だったが、はたで見ていると、随分いい女だった。鬼も十八、番茶も出花。名前を書いた入門表と筆とを小松田さんに返しながら、大木先生は感心するとともに拍子抜けした。流石に展開が早すぎる。いくら元がギャグ漫画とは言え、あまりにいい加減すぎないか。これからいかにして消息を掴むかを考えていただけに、あっさり目標を見つけてしまった大木先生は、なんだか出鼻をくじかれたような気持ちになってがっかりした。

大木先生の勝手な落胆も知らず、 ちゃんは丁度、後輩の善法寺伊作が穴にはまっているのを助けようとして、穴に手を差し伸べているところだった。善法寺の手を取って、後ろに重心を寄せて引っ張る。よじ登ってくる善法寺にあわせて、案の定後ろによろけた。その肩を大木先生は後ろから支えてやった。背中が胸に倒れこんでくるのを受け止める。善法寺の体重もあわせて、なかなかの重さだった。

「すいません、・・・って、先生」

振り返ったちゃんが目をまんまるに見開いて、大木先生を見た。黒い瞳に自分が映っているのが見えると、なんだかすごく懐かしいような、なんともいえない気持ちになる。

「大木先生?お久しぶりです」と、泥まみれの善法寺が明るく挨拶をするので、大木先生はちゃんから視線を外し、空いていた左手を挙げて「おー」と返した。

「今日はどうされたんです?学園長先生にご用でも?」
「いや。・・・調べものがあったんだが」
「図書室でしたら今日は長次が開けていますよ。・・・先輩は、本日はどうして?」
「勤め先で南蛮の珍しいお菓子をいただいたから、くの一教室のみんなに差し入れをしようと思って」
ちゃんが答えると、善法寺は爽やかそうに破顔した。 「それは羨ましいですね」
「今回は数がなくてごめんね。次は皆にお土産をお持ちするから」
「ありがとうございます。それで・・・」 善法寺が何か言いたそうに視線を彷徨わせるので、大木先生はつい「どうした?」と聞いてしまった。善法寺はためらいがちに、しかし意を決したように口を開いた。両目に明らかな好奇心の色を載せて。

「あの・・・お二人は随分・・・なんだか距離が近いですね?」

目のやり場に困ったような様子で、大木先生は自分の失態に気付いた。咄嗟にちゃんの肩をは離そうか迷ったが、あまり慌てて離しても、それはやましいことがありますと言っているようなものである。しかし、今まったく考えていなかったが、善法寺の言う通り、この距離は他人同士の距離ではない。殆ど胸に抱いているような体制ではないか。

一度寝ると距離が近くなるというが、まさにそれである。最悪だった。

悩む大木先生をよそに、ちゃんは身をよじって大木先生の腕を抜け出し、空いた腕にしがみ付いてしな垂れかかった。まるで冗談みたいに。

「うふ」
「うふじゃない」

反射的に頭をはたくと、ちゃんはくすくす笑った。善法寺も気が抜けたようにほっと息を吐いて、ずれた頭巾を整える。

「そういえば先輩は大木先生の大ファンでしたね」
「そう。そうなのよ。絶対結婚してもらうから楽しみにしてて」
「大木先生と先輩の子供か〜すごいのが生まれそうですね」

伊作、お前よくそういうこと平気で言えるな。平素なら確実に殴っていたが、今度ばかりは絶句してしまい言葉が出てこない大木先生を他所に、伊作せんぱーい、と遠くから声変わり前の男の子の声がして、善法寺は慌てて振り返った。見れば長屋の渡り廊下で、保健委員らしき生徒たちが落とし紙を片手に手を振っている。「では、僕はこれで失礼します」、と頭を下げた善法寺がかけていく背中を、二人は仲良くくっついたまま見送った。

「・・・・・・。」
「・・・・・・。」

善法寺と保健委員が連れ立って視界から消えてしまうと、ちゃんは大木先生の腕からぱっと手を離し、潔白を主張するように両手を挙げて笑った。びっくりするほど、いつも通りのちゃんの笑顔だった。

「ずいぶんお久しぶりですね。こんなにお目にかからないなんて変な感じでした」
「お前が来なかったんじゃろーが」
「来るなとおっしゃったのは先生なのに。忘れてしまったんですか?」
「素直に言うことを聞くタマかい」
「これも先生との約束ですから。もうお伺いはしませんよ。ご安心なさって下さい」

そう当然のように言うので、大木先生はどう反応したらいいかわからなかった。こういうときは大抵、口が勝手に動いて、妙なことを言ってしまうものである。

「・・・それでお前はいいのか、

ちゃんは苦笑した。いいも悪いもないだろう、決定権は自分にはないのだから、という表情だった。大木先生の腕に触れて、促すように歩き出す。さらりと長い黒髪が風に流れて大木先生の目を引いた。

「どこへ行く」
「とりあえずお菓子をシナ先生にお渡ししたいので、職員室に。ねえ、先生。ちょっと歩きましょ?」

そうしてちゃんは、言葉を選ぶように途切れさせながら、躊躇いがちに口を開いた。

「いい、というか、まあ流石にこの先娶ってもらえるとかって思ってないんですよ、初めから。あわよくばっていうのはありましたけど・・・もう満足です。ずっと確認してみたいことがあって、どうしても一度はって思ってて。念願叶ってよかったです」
「・・・確認って。何を」

するとちゃんはまじめな顔になって、大木先生の耳に唇を寄せた。すごく大事な秘密を口外するような真剣な顔だったので、大木先生も身構えて珍しくきちんと話をきく体制でスタンバイした。が、実際、打ち上げられたのはこの程度のことであった。

「房中術とか色仕掛けとかとにかく苦手で・・・。昔から。交合でほとんど快感拾えなくて痛いだけなんですよ。在学中に同期から『一発好きな男にやってもらうと全然違うよ』って言われて・・・だから一回だけは大木先生にお願いしたくて」

おいおい。

と、大木先生はかなり呆れた。流石、忍術学園が誇るくのいち教室卒業生、己の術の研鑚に余念がない、と感心でもすればいいのか。倫理観もぶっ壊れて大した忍者である。ていうか、あんな切なそうな顔しておいて、初恋の男を便利棒扱いするな。げんなりしている大木先生から身体を離して、ちゃんは伏し目がちに嘆息した。

「・・・やっぱり苦手なもんは苦手なんだなって思って割り切れました。好かれてないとダメなんでしょうね、きっと」

は?と、大木先生は思った。ちゃんに言われた言葉をまったく理解できず、大木先生はとからくりのようにぎこちなく首を傾げた。骨がぎぎぎ、と軋む。 なんだか、意味はよくわからないが、物凄く、めちゃくちゃに今までの人生でほかの誰にも言われたことがないレベルで失礼なことを、この女に言われなかったか、今。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おい、待って」
「はい、待ちます」
「今の『好かれてないとダメ』ってどういう意味?」

すると比企ちゃんは、あー・・・、と呻いて、髪をかきあげながら胡乱な返事をした。 大木先生はもうその時点で嫌な予感しかしなかったが、自分が聞いた手前聞かないわけにもいかなかった。

「そのままですよ。私、やっぱり得意じゃないんだなって。最初はほんと感動って感じでしたけど、途中であ〜、これって流れ作業だなって思っちゃって・・・正直、大木先生って私のこと全然好きじゃないじゃないですか。そのことが物凄くよくわかったんですよね。まあ、そんなの初めからわかってたことなんですけど、わざわざ身をもって思い知らされてしまったっていうか」

大木先生は空を仰いだ。

「・・・つまり、何だ。そこらの野郎にヤられんのと、変わらん、と」
「いや、そんなわけないでしょ。全然ちがいましたよ。凄く嬉しかったですけど・・・でも」

何故最後に逆接が付くのだ。頼むからもうそれ以上何も言わないでほしい、と大木先生は思った。もう聞きたくなかった。しかしやっぱり、制止することもできなかった。見上げた清々しい春の青空に、にこにこと微笑んだ10歳のころのちゃんが、右手ででっかい槌を振り上げているイメージが浮かんだ。大木先生は長いこと忍者を生業にしていて、死にかけたことも、何かを捨てなければいけないこともあった。そのたびに、持ち前のど根性で乗り切ってきた。逃げたい、なんて思ったことはなかった。なのに、今、こんなくだらない、長閑な状況から、逃げてしまいと心の底から思った。あんなデカい槌で殴られたくなかった。あれじゃあ頭蓋骨が粉々になってしまうではないか。

「まあ、もう二度といいです」

無慈悲にもあっさりぶん殴られて、大木先生は粉砕された。完璧な破壊で容赦なかった。自分が自分であるための、とても大切な何かが、真っ二つにされたのを大木先生は感じていた。 大体の内容は予想できていたのに、身体中の血の気が引いて、背中を冷たい汗が滑って、それから猛烈に首のあたりから耳にかけてが熱くなった。

「だからもうおうちにはお邪魔いたしませんよ。ご安心なさってください。毎月お邪魔して、すみませんでした。時々お目にかかれると嬉しいんですけど、学園にはどのぐらいいらっしゃってるんですか?」

こうなると、もう、ちゃんの言葉が耳に入ってこない。右耳から入って、左耳を抜けていく。過去、現在、未来の時間軸が入り乱れて、大木先生の頭の中でぐるぐる回った。燃えるような首元の熱は皮膚を食い破って身のうちを焼き、血を煮え滾らせて身体中を熱く焼いた。いろいろなことを思った。口に出す価値もないようなことで、結局のところ大木先生の感情はたったひとことに集約され、極太フォントでもってデカデカと大木先生の胸を占めた。

ふざけんじゃねえぞこの、小娘が。

大木先生は完全にブチ切れていた。
そりゃあ、そうだ。男一匹33歳。半ば隠居状態ではあるものの、まだまだ働き盛り。忍里として知らぬものはいない、甲賀の里の出身である。甲賀といえば山田風太郎の時代から燦然とエロ忍術を磨き続けたその道のプロ集団である。大木先生だって、泣かした女は数えられないほどいても、女に泣かされたことはなかった。

空を仰ぐ大木先生のこめかみには青筋が浮いていたので、ちゃんは少したじろいで、先生から離れようとした。離れていこうとするちゃんの手を、大木先生が掴んだ。でっかい手であった。ちゃんの手首を一周しても、指はだいぶ余っていた。とても振りほどける力ではない。比企ちゃんはしかたなく、粛々と抗議した。

「・・・先生、手首が痛いです」

ところが、大木先生は地獄の底から這いだすような低い声で、おもむろにこんなことを言い出した。

「お前には、親がなかったな」
「はい。先生、手が痛いですって」
「よし、今から学園長先生にご挨拶に伺う。お前も来い」
「私もう、ご挨拶しちゃいましたよ。ここで待ってますから、お時間あるならご飯でも食べて帰りません?っていうか本当に痛いんですが、手」
「わしの言葉が足りなかった。よ〜く聞け」

大木先生はちゃんの手を離すと、代わりに両肩を掴んで引き寄せ、さすがに急な状況にを把握できていないらしいちゃんの困惑顔をまっすぐ睨んで、至近距離で捲し立てた。もちろん、盛大に唾が飛んで、比企ちゃんに降り注いだ。

「今から!学園長先生に!お前を!嫁に貰う!ご挨拶に伺うのだ!」
「顔でっかくして言わないでくださいったら・・・って、え?」

大木先生は、小首を傾げる女の、驚いたかんばせを見て、素直に美しい、と思った。

倫理も道徳も教師も生徒も、どうでもいいではないか。どうせ時代は室町末期、戦国の世。戦乱・暴力・裏切り・強姦・児童ポルノ・放火・強盗が蔓延り、忍者だの武士だの大名だの、人殺しのろくでなしの魑魅魍魎が跋扈する時代である。未成年保護も人権も倫理も、日の本ではあと600年は生まれない概念なのだ。今ここで手放して、この女を帰してしまえば二度と生きてまみえないかもしれない。だったら、このまま持って帰って、手練手管で縛り付けて二度と離さなければいい。初夜の感想で「もう二度といいです」などとナメたことをほざかれる前に、この女を甲賀仕込のエロ忍術でメロメロにしてやったらよかったのだ。否、今からでも遅くない!このくその役にも立たないつまらん話は「この後めちゃくちゃセックスした」で締めてやればいい。この女の初恋も叶うし、大団円ではないか。大木先生はそう思った。

すっかり頭に血が上った大木先生は ちゃんの手首をもう一度掴んでひっぱりながら歩きだした。ちゃんは珍しくおろおろとして、小走りになりながらあとに続いた。

「どうしたんですか先生?さっきの話に結婚要素ありました?無理しなくていいですよ?」
「したかったんだろうーが」
「そりゃあしたいですけど私先生がお元気でいらっしゃるなら最低限幸せですし。お気遣いいただかなくていいですよ」
「もう黙れ、お前は」

ちゃんの一言一言に無性に苛々した大木先生は、怒ったときに浮かべる不気味な笑みを満面に張り付けて、ちゃんを振り返った。鬼気迫る形相は、とても相手を生涯の伴侶に選ぶときのそれではなく、これから戦争に行くような闘争心に満ち満ちている。悪鬼のような笑顔で、なんだか弱り切った様子でいる女の腰を引き寄せて、大木先生は力強く囁いた。

「天国見せてやる」