天の国は近い・上





大木先生はとても困っていた。

桜の花の満開の下。杭瀬村のはずれの、大きな桜の根本に寝転んでいると、勝手に溜息が口をついて出る。 生来豪放磊落を絵に描いたような性格で、思い悩む性質ではない。甲賀の里に生まれ、忍として生きてきた。甲賀は忍術学園とは比べものにならないほど過酷な忍里で、幼馴染と呼ぶべきだった、同年代の子供の随分多くが、日の目を見ることもなく死んでいった。大木先生だって、修行や忍務で死にかけたことは一度二度の話ではない。ただ、大木先生には生まれつきの才能と精神力が備わっていて、迷いや葛藤というのとは、殆ど無縁で今日に至った。大木先生にとって世の中の事象は非常にシンプルで、悩もうが落ち込もうが白は白だし、黒は黒だった。

だからこんなにも気が塞いでうじうじと悩んでいるのは、おおよそ大木先生らしくない事態で、大木先生自身もどうしたらいいのかわからないでいるのだった。何にこんなに落ち込んでいるのかも、判然としていないぐらいである。ただ大元の原因である女の子の笑顔だけが、もやもやと胸の内に燻り続けている。

件の女の子、名をちゃんという。

ちゃんは、大木先生の元教え子の1人である。くの一なので担任をもってやったことはなかったが、彼女が学園に在籍していた六年間、大木先生はずっと学園にいて、担任の傍、手裏剣や甲賀忍術について講義を受け持っていた。

思い返せばちゃんは、10歳で入学したときから既に大木先生のファンだった。

男一匹33年、そのうち数年を学校の先生などしていたら、生徒に惚れられることもある。しかも当時の大木先生は20代、はっきり言って、モテ期だった。学園の外でもそりゃあもう、めちゃくちゃに色々なことがあったし、くのたまの上級生に思いを告げられたことも、指の数では足りない程ある。だが、大木先生は天に誓って、生徒に手を出したことも、出そうと思ったこともなかった。そもそも、ガキは守備範囲外だったのである。
当時はそんな状況だったので、10歳のちゃんにいくら想いを告白されようと、大木先生はあまりに気にしていなかった。生徒には未来がある。学園という狭い箱の中でたまたま自分を選んだだけの事に過ぎない。いつまでも自分を慕っている者などいない、と、大木先生は確信していた。

実際、大木先生に告白したくのたまは悉く玉砕したが、みんな彼氏を作ったり卒業後親の言いつけ通りに嫁いだり、それぞれ自分の道を進み、大木先生の元を濁さずに発っていったものである。

ちゃん以外は。

ちゃんは11歳、つまり二年生になっても、まだ大木先生を好きだと言っていた。まあ、これはいいか、と大木先生は思った。三年生になると、告白はさらに熱烈になった。ブームが長いな、と大木先生は思った。四年生になって房中術の実習が始まった頃にはついに夜這いをかけだした。これはまずい、と大木先生は焦った。生徒に寝床に来られたのは初めてのことではなかったが、ちゃんは10歳の頃からの延長戦である。流石に放置するわけにもいかないので、首根っこをつかんで山本シナ先生に突き出した。その後、シナ先生からはこっぴどく叱られたようだった。

それで、 ちゃんは結局、別の男で処女を捨てた。

安心したのも束の間、五年生になっても、六年生になっても、ちゃんは大木先生が好きだと言うのだった。

六年生になったちゃんは、かつてのまんまるい子供ではなく、すっかり可愛いギャルだった。大木先生はちゃんにアタックされるたび、忍たまの数名から恨みがましい視線を寄越されることがあるのにも気付いていた。

ちゃんがどうしてそんなに自分を気に入っているのか、大木先生には全くわからなかった。

大木先生の困惑をよそに、ちゃんは卒業まで大木先生を追いかけ続け、卒業してからも、大木先生に一直線なのだった。卒業式に告白されたことはあっても、卒業後まで追いかけ回されたことはない。ちゃんが卒業してすぐに、大木先生は学園を辞めて杭瀬村に家を持ったが、ちゃんは一月に一度程度の頻度で大木先生を訪ねてきては、身の回りの世話などを強引かつ甲斐甲斐しく焼き、夜中になると布団に潜り込んできて、

「先生結婚してくださいよ?わたし働いて生活費も入れますから〜」
「結婚がだめなら一晩でいいですよ」
「先生!一回だけ!ね!!!ね!!!???」

などと言うのだった。

ちゃんは現在、フリーの忍をしていて、そこそこ売れっ子である。
遠方の城からスカウトを受けていたのに、それを蹴って今に至る。卒業式の直前、条件はよかったのに何故、と問う同級生に、「大木先生に会えなくなるし」とちゃんが説明しているのを大木先生は聞いてしまっていた。

ちゃんは確かによく育った。好みではないが、客観的に見て可愛いとは思う。一週間程度大木先生の自宅に滞在していくちゃんが毎晩布団に潜り込んでくるので、大木先生はその期間、忍耐を試されていることを感じる。子供と親ぐらいの年齢差があるが、若い女は若い女なのだ。村の寄り合いで酒を飲み、酔って帰って朝、寝起きに隣でくーくー寝息をたてているちゃんの夜着の袂を開きそうになったことがあることは、大木先生の誰にも言えない秘密だった。その晩は池で寝た。

生徒。

生徒は駄目だ。それだけはまずい。

学園長や山本シナ先生や野村雄三先生に何を言われるか、想像しただけで頭痛がするものだ。何より10歳の頃のちゃんの屈託のない笑顔を思い出すと、どうにもそんな気になってはいけないと感じていた。大木先生にとってちゃんは、未来のある、自分の教えを受け継ぐ、かわいい生徒の1人だった。

筈だった。大木先生は、そういう美しい師弟愛のようなものをきちんと持っていた人なのである。

じゃあ何故、やってしまったのか。

そう。やっちまった。一戦交えてしまった。抱いた。寝た。性的関係を持った。8年に渡った愛ゆえの拒絶が完全に意味を失い、ここまでつらつらと語られていた師弟愛が水泡に帰し、学園を出てからの3年間の忍耐がなかったことになった。ここまで我慢しておいて何故、と言われても大木先生には答えられない。自分でもわからないからだ。しいて言うなら、たまたまその時、捨て鉢な気分になってしまったのである。

ちゃんが最後に大木先生の元を訪れたときだった。よく晴れた冬の日である。 偶然にも、ちゃんの同期が大木先生を訪ねてきていた。お里で嫁御をもらうことになったので、あいさつに伺った、と彼は説明した。ちゃんは喜んで、持参した食材やらお土産やらで簡易的な祝宴を催した。楽しそうに話す二人の生徒を見ながら、大木先生は、まあ、そういう年だよなあと感慨深い気持ちになった。自分は結婚になどはさらさら興味がなく、妻を娶るつもりもないが、生徒はみんなとまり木をきちんと見つけて、大人になっていくものである。

そして翌朝、ちゃんが洗濯をしているときに、大木先生はちゃんになんとなく声をかけたのである。

「お前もそろそろ、身を固めたほうがいいんじゃないのか」

言った瞬間に、なんだか自分はすごくよくないことを言ってしまったのではないか、と大木先生は感じた。引退しても元は忍術学園の教師にまでなった忍である。状況がよくないことを察知する勘は鋭い。ただ、そんなことを言わないほうがいい、という勘が働かなかったのは、大木先生とちゃん、お互いにとっての悲劇だった。

8年も好きな男にそんなことを言われてしまったちゃんは、敷布を擦っていた手をとめ、顔を上げて、大木先生を見上げた。表情のない、水鏡のような瞳に自分が写っているのを大木先生は見た。ゆっくりと、雪解けのように、諦めたような微笑が広がっていく。

「大木先生はそんなこと、お気になさらなくていいんですよ」

大木先生はその実、このとき何を言われたのか、一瞬わからなかった。お気になさらなくていい。気にしないでいい。気にするな。頭の中で言葉を変換し、馴染ませていって、初めて意味を咀嚼した。

そして、鋼が焼けるような、激情を感じた。

ちゃんの反応は、大人として、まあわりかし正しかった。大木先生は、ちゃんがどこに就職しようが、だれを好きでいようが、そのことについて責任をとってやるつもりは全くないのである。だから、ちゃんの人生のことを、大木先生が気にしなければならない理由はない。それだけのことだ。

なのに、そのことに、物凄く腹が立った。

大木先生は、今までこんな風に教え子に怒りを感じたことはなかった。怒りをどう処理したものか考えあぐねて、そのままちゃんに背を向けて、ペットのうさぎのラビちゃんの散歩に出かけた。ラビちゃんのかわいい背中を見ていても、大木先生の気は一向に晴れなかった。

日が暮れてちゃんがいつものように布団に入ろうとしても、大木先生はむっつり黙って、ちゃんのためにスペースを空けてやったりはしなかった。大木先生のほっぺたを指でつっついて、ちゃんは困ったように言った。

「何をそんなに怒っているんです」
「知らん!」
「もう・・・。わかりましたよ。明日の朝には出て行きますから今日は入れてくださいよ。ね、先生。つめて、つめて」

ぺしぺしと大木先生の肩を叩く。ちゃんなど、大木先生とは一回り以上違う歳のガキの癖に。そんな風に一丁前に人あしらいのようなことをされると、いよいよ腹が立ってきた。大木先生は、肩を叩くちゃんの手首を掴むと、思い切り布団に引き倒した。床の硬さがはっきりとわかる薄い煎餅布団に背中を打ち付けられて、すっかり油断していたらしいちゃんは軽く咳き込んでから、大きな目をぱちくりと瞬いた。黒目がちな双眸が困惑に揺れて、それから、期待をはらんで輝きだす。

「・・・えっ。抱いてくれるんですか。今?」

自分の下で静かにはしゃぐちゃんを見ても、大木先生の気は晴れなかった。寧ろ機嫌はどんどん悪くなった。一体こいつはいつになったら諦めるのだろう。学園を出て、既に3年が経っている。初恋と呼ぶには、あまりに濃くて長すぎる。一体自分は今後どうやってこのすっかり可愛いギャルになってしまった元生徒に関わっていけばいいのだろう。

その時、ほとんど理性がまともに動いていないということを、大木先生は気付いていた。ただ感情がぐるぐると熱く煮えている。じとりとちゃんを睨むと、ちゃんの指がぴくりと震えた。

「・・・してやってもいいが」
「え、ほんとに?」
「そのかわり、お前、もうここには来るなよ」

すると比企ちゃんは、金縛りにあったように固まった。数秒だか数分だか、永遠に近いような時間、大木先生の家を耳に言いたいほどの静謐が満たした。耳に握った手首から伝わる、ちゃんの脈だけが現実の音だった。血管が破れてしまうのではないかと心配になるほどに、速い。

やがてちゃんは、そっと大木先生の手をほどいて身を起こし、布団の上に正座して、頭を下げた。

「よろしくお願い致します」

それで抱いたわけだ。

実際に抱いてみたちゃんは、もうただの女だった。最中、二回ぐらい、全ての道徳を忘れて、若い女っていいな、と大木先生は思った。肌がいい。髪もいい。触り心地がいい。締まりもいい。有体に言って、最高の夜だった。さぞ自信があるのだろうと好きにさせてみたが、どう贔屓目に見てもちゃんは夜戯が得意ではなかった。そういえばそちらの方面は成績が芳しくなかったような気もする。 ちゃんは、きっと今日だって、いつもみたいに何もないものと思っていたのだろう。心の準備ができていなかったのか、一挙一動、可哀想になるほど手が震えていた。大木先生は悪い大人なので、それをどちらかといえば興味深く見ていた。それなりに華々しい女性遍歴を経ているが、相手は年の近い若い同業者や玄人の女が多かったので、ちゃんのような、ずっと年下の女の子に初っぽい反応をされるのは珍しかったのである。自分に跨って一生懸命に腰を振るちゃんを見ていると、つくづく悪い大人に捕まったな、と思った。

なんだか可哀想な気がして頬を撫でてやると、やっと念願が叶ったちゃんは、えらく悲しそうに先生に向かって微笑んで、大きな手に頬を擦り付けた。行燈の光に照らされた、長い髪がさらりと揺れて、白い肌に濃い影を落とす。ぞっとするほど官能的だった。

翌日大木先生が布団から起き出す頃には、ちゃんはもういなかった。

明け方に出て行ったのだ。そっと大木先生の腕から抜け出して、手早く荷物を纏めて、先生に一礼して、先生の家を後にした。大木先生はちゃんが帰ってしまうのに気づいていたが、どうにも起きるのが億劫で、またすぐ来るだろうし、いつも見送りはしていないし、起き上がってはやらなかった。背を向けたちゃんの肩が震えてどう見ても泣いていたから、起きてやりたかったが、微睡みが勝ってしまったのである。先生はちゃんが戸をしめていくのを半眼で見届けて、ふたたび眠りに落ちた。目覚めたのは昼前だった。久しぶりに女を抱いたので、かなりすっきりした、いい寝覚めだった。昨日あんなに不機嫌だったのは、欲求不満だったのかもしれない。悪いことをしてしまったという自覚はあった。次に顔をあわせるとき、どんな顔をしたらいいのか、考えただけで気が重かった。まあ、もはや、なるようにしかならないか。大木先生は考えるのをやめた。

しかし、それから一月経っても、二月経っても、杭瀬村の雪が解けて桜のつぼみが膨らみだしても、花がすっかり咲いてしまっても、ちゃんは大木先生のところに来なかった。 当たり前である。もう来るなと大木先生が言ったのだ。それを条件にしたではないか。 そんなことは気にせずにまた来るだろうと、どこかで大木先生は思っていた。今までだって何度も何度もちゃんを袖にしてきたのに、ちゃんは全然気にしていないみたいに先生のところへやってきたので。

でも、来なかった。 気づけば、ちゃんの住まいも、連絡先も知らない。自分自身でも驚くほど、大木先生はちゃんに関する情報を何も持っていなかった。素性を他人に悟らせないのは、忍者の基本である。知らない間にずいぶん有能な忍に育っていたものだと、大木先生はかなり見当違いに感心した。

しかしそうすると、大木先生はもう二度とちゃんに会えないのかもしれなかった。違う男と結婚しているかもしれないし、どこかで死んでしまったかもしれない。もしそうだとしても、大木先生にはそれを知る術がない。
ちゃんが幸せになってくれたらいいと先生はずっと思ってきた。ちゃんが何故自分を追い掛け回すのか、長年疑問だった。気持ちにこたえてやる気はなかった。一生ガキのお守りなどする柄でもない。

でも、だけど、きっと泣いていたのだろう、細い背中が震えながら去っていくのが最後だったとしたら、10歳から18歳まで、8年も自分を好きでいた女の子への仕打ちとして、それはあまりにひどいのではなかったか。あのとき、引き留めてやればよかった。起きてやればよかった。抱いたりするんじゃなかった。もう来るななんて言うんじゃなかった。少なくとも、もう来ないことを条件に、抱いてやったりするべきじゃなかった。もっと優しくしてやればよかった。あんな風に悲しそうに笑わせて、可哀想なことをしてしまった。

自分でもどうしたかったのか、今後どうする気なのか、さっぱりわからないまま、大木先生は一人で困りきって、煩悶しているのである。時間が経つほど気が塞ぎ、あのの時の背中が鮮明で、頭から離れない。会えば、何か、とは思う。忍術学園へ行けば何かしらの情報はあるだろう。が、よりにもよって大木先生がちゃんを探して忍術学園に行ったりしたら、学園で働く歴戦の忍たちは確実に何があったのか悟ってしまうに違いなかった。少なくとも、山本シナ先生は確実に気づくし、その場合大木先生が生きて学園を出ることができる確証はない。万策、尽きた。大木先生は口の中に苦虫の味が広がっていくのを感じていた。風がふわりと吹いて、桜の枝を揺らし、花びらが空を舞った。ちゃんとは春に出会った。入学式だから、大方の生徒と同じだ。なぜか自分に少しなついているだけの、くのいちの卵。手裏剣打ちの成績がよかった。足が速かった。読書家でずいぶん本を読んでいた。歌を詠むのが上手かった。10歳から知っている。よく笑う子だった。美しく育って、優秀な忍になり、学園を巣立っていった。

ずっとほかの生徒と同じだったのに。いつのまにか、こんなにも。

「・・・こんなに、何だっつーんじゃ」

咳をしても独り。呟いた台詞はずいぶん虚しく響いた。中年男の独り言ほど、救えないものもない。いよいよ山本シナ先生に殺されることも覚悟するしかなかった。自分がどうする気なのか知らないが、とりあえず会ってみないことには始まらないのだ。もとより、思い悩む性質の人ではない。大木先生は溜息まじりに、どこんじょー、と一言呟いて、重い腰を上げ、懐かしい古巣へ足を向けた。