忍に向いていないと言われたことはない。忍耐強く、優先順位が明確で、目的の為には手段を選ばず、しかし私利私欲に走らない。己はそういう者だと思っていて、またそうあるべきだとして育てられた。両親にもそれ以外の周囲も、資質を疑われたことはなかったように感じている。寧ろ期待されていて、いつもそれに応えようとしてきた。父と母は有能な忍で、息子の私はその技と心得の伝授を一身に受けた。忍とは影を生き、舞台の裏から世のために戦うものと聞かされて育った。十六の頃に実家を出て忍として独立したが、父や母の名は界隈では通っていたし、幼い頃から優秀だと両親の知人の間では有名だったので、初めから仕事には殆ど困ったことがない。何もかも順調で、働けば働くほど依頼は増えた。己の技能の伸び代は天井がないと思っていた。危険な忍務でも失敗らしい失敗はしたことがない。万事は私の思うように進んできた。いつでも。

妻を娶ることになったのは任務の行き掛かりのためだ。陽忍として素性を持って動くときには、所帯がある方が疑われにくい。当然ながら、妻と私の婚姻は、父と母のようにお互いの生業を知った上でものではなかった。妻は市井の出で、私が出入りしていた城で下働きをしていた女中の一人だった。私を没落した武家の出だと思っている。私が彼女にそのように説明していたからだ。父と母は戦で死んで、天涯孤独の身であるという、どこかで聞いたような身の上話をしてやって、偽名を伝え、関係を持った。似たようなことはいくらでもしてきたことだった。ただ居を構えて身分を偽る大掛かりな忍務は初めてで、色々と面倒なことも多かった。救いは妻が私をまるで疑わないことだった。頭の出来はそれほどよくないのか、忍務のために遅くに帰っても何も不思議に思わないようだった。

妻にした女はぽけっとした気性ではあったが気立てがよく、非常に働き者だった。一日中くるくる動いて、静止することがない。私にとって、働く女といえば母だが、妻の働き方は並大抵のものではなく、母の余裕のあるそれとも本質的に異なる。朝日が昇る前から長屋の掃除をして飯を炊き片付けをし洗濯をして布団を干し隣の子供の子守をして畑をして、それでも時間があれば元の職場に仕事を手伝いに行く。裁縫が得意で近所の娘たちに刺繍を教えることもあった。働き方のせわしなさは母よりむしろきり丸のアルバイトに似ている。金にがめついというわけでもなく、暇は性に合わないのだと笑った。とにかく眠っている時以外は常に働いている女で、そういうところが気にいって選んだのだ。喧しい質ではないが、気安い雰囲気で、どこにでも働きに行くので付近の噂話には通じていた。城で女中をしていた頃から、会話で齎される情報には実は何度か助けられたことがある。明るく後ろ暗いところのない、平凡を絵にかいたような普通の女だった。今までまともにかかわりを持ってきた女性といえば、一癖も二癖もあるくの一ばかりだったので、妻のように素朴で裏表のない人柄の女とともに暮らすのは新鮮だった。士官の口を探しに行くと嘘を言い、何日も家を空けて戻っても、妻はいつも笑顔で嬉しそうに私を迎えた。何も聞かずに信頼しきった目をして、私が差し出す金を受け取った。私を私が教えた嘘の名で呼び、私の飯を用意し、私の着物を繕い、私の背中をいたわるように撫でた。

妻が身籠ったのは二年目の春だった。相変わらず世話しなく働きながら、膨れていく腹を愛おしそうに撫でていた。私もときどき腹を触った。触りながら、父が知ったらなんというだろうと思った。両親とは随分顔を合わせていなかった。妻を連れていけたらいいのに、と私は時々夢想した。そんなありえないことを考える自分が存在することに驚いていた。この女の主人の親は、とうの昔に死んだことになっているのだ。私の本当の名も知らないのに、妻の腹の中にいるのは私の子なのだと思うと、そのたびに胸が凍っていくような心地がした。

戦乱は広がっていくばかりだった。世の安泰の為と嘯いて、得意先の馬鹿大名どもはこぞって戦をしたがった。小さな村が焼けて、家も畑も家畜も、子供も老人も男も女も何もかもいびつな形に崩れていく様を数えきれないほど見てきた。いつからか、焼けた死体が恐ろしく、かたく目をつぶって傍を足場に過ぎるようになった。すべての死骸が妻に見えた。私がやったようなものだった。それでも、家に帰れば妻は笑っていて、私を労った。いつのまにか、ずっと此処にと、願っている自分がいた。そんなことができるわけがないとわかっていたのに。綻んでいくものを感じていた。受けた教えや誇り、自分というものを構成する何もかもが。



方々手を尽くしたがどうにもならないことになって、今に至る。何もかも順調で、失敗などしたことがなかったのではなかったか。忍者に向いているのではなかったのか。何故、と考えてみても、頭は動かず、冷たい汗だけが皮膚を滑り落ちていく。慣れ親しんだ闇夜の森は月光も届かず、私は一人で安全で、この先も父に指南された世の太平に貢献できるだろうと思われた。立ち止まっているのに、勝手に息が上がっていく。口元を覆う覆面が吐息で湿って、うまく呼吸することができない。はあ、はあ、と、犬のような息の音がひどく耳に付く。苦無を握りしめた指が開かず、爪が手のひらの皮膚を食い破った。

この茶番をはじめるにあたって、自分が何を考えていたのか思い出すことができない。もしも露見したとき、あの無関係の、私の名前すら知らない女は、一体どうなってしまうのか、まさか、思い至らなかったのだろうか。どうでもよかったのだろうか。実在しない、天涯孤独の浪人の男に恋をして、私の子供を身ごもって、私ではない人間の名前を呼んで、私のために殺されてしまう、あの優しい普通の女が、どうなってもよかったのか。もう二度とあの家に帰ることはできないだろう。いつかそう遠くないうちにそうなることがわかっていたのに、私はただ指をくわえて終わっていく様を見ていたのだ。彼女とともに、少しでも長くあの家にいたいという、ただそれだけの、私の欲望のために。

どうしたらいいかわからない。誰かに助けてほしい。あの家に帰ってやりたい。思考が錯綜する。彼女に教えた名の浪人になって、彼女を守って死んでやりたかった。私の背中をやわらかい手で撫でて、いとおしそうに微笑んでいた目が、いびつに黒く焦げて、崩れていく。とうとう目からも汗か流れた。

君はきっと死んでしまうだろう。私が、俺が、そうするのだ。いつかの太平の世という、糞の役にも立たない大儀のために。


(傷年)