漫画みたいにうまくいかない


 何百年も前の地形がそのまま残っているような感じの、いかにも田舎の街に暮らしている。この辺りは都市の開発計画にも取り零されてしまって、どこにも高い建物がない。遮られることなく届く日暮れどきの西日はひどく眩しく、体は芯から冷えているのに、照りつけられた頬の表面ばかり熱くなって、何とも言えず気分が悪い。
 川縁の風は湿って冷たい。右手には桜川がざあざあ音を立てて流れて、土手と平行して延々先まで続いている。前を歩く男の影が長く斜めに伸びて、わたしのそれと並んで揺れている。都会は都会でビル風と言って、特有の強風に悩まされると聞くけれど、こんなふうに遮るものの無い、土手の上の細い道をぽつぽつ歩いていると、強い風が吹けば飛ばされてしまうような心もとなさがある。西側からふきつける風は桜川から湿気を掬いとって、私の髪を攫ってかき乱す。
 桜川というのは愛称で、本当はもっといかめしい名前があるが、川の両側を等間隔に並んだ桜の木が季節になると満開の花をつけて、近所では名所とされているというありふれた由来でそう呼ばれている。とはいえこの季節では葉を落とした木々の枝が寒々しく縮こまっているだけで、桜川の名はなんだか名前負けをしているような気恥しさがある。その所為なのか、伝七はいつもこの川をいかめしい正式名称のほうで呼ぶ。
 伝七はわたしの幼馴染で、小学生のころからの付き合いになる。 昔から勉強がよくできて、しかも顔が綺麗な男なので、何かと噂の的だ。高校に入学したての頃は、その花貌に誘われた女の子たちに、黒門くんってどんな人なの、としきりに尋ねられた。私は正直に、お坊ちゃん、優等生、神経質、などと答えて、大体その通りだったので、大抵の女子は彼を「観賞用」を判じたようだった。
三年が経った今でも、そういうことが全くないことはない。でも、最近の私が返す言葉はいつも同じだ。「怒ってる」。
 この返答は大抵の女子に、は不親切だ、という印象を与えてしまうようだけれど、実際本当のことで、伝七はいつからか本当にずっと怒っているようになった。長い時間をかけて、魂が怒りと同化してしまったみたいに。三年に進級してからは、殆ど笑ったところを見たことがない。
 幼い頃、手をつないでかけた道を、今は少し離れて歩いている。伝七の黒いダッフルコートの背中が前へ前へと何かに吸い込まれるように進んでいく。彼は振り返ったりはしない。後ろを歩くわたしが立ち止まると、一拍置いて彼も立ち止まり、でも絶対に振り返らない。そういうとき、わたしが再び歩き出す足音を待って、また伝七も足を踏み出す。彼は万事がこんな様子で、クラスメイトたちは、いつもそんな調子なのに、どうして彼がわたしといるのだろうかと不思議がっているようだった。
 ざくざくと、粗いコンクリート舗装の道を革靴が踏む足音と、びゅうびゅういう風の音だけがしている。あの革靴は今年の進級祝に彼の祖母が買ったもので、10万円ぐらいのオーダーメイドらしい。伝七の家はお金持ちだ。大学入学のときには一体いくらの靴をもらうのだろう。名の知れた都会の大学に行ったりしたら、ご家族は喜んですごくいいものを買うのではないか。或は、靴ではないかもしれない。時計とか。でも伝七は今の時点でも、誕生日にもらった随分高い時計をしている。
「伝七」
 わたしが呼んでも、伝七は振り返らない。立ち止まらない。寧ろ逃げるようにして、歩幅が広くなるのがわかった。いつもなら、何だ、程度のことは返してくれるので、多分今日は何か、わたしと話すのに都合の悪い、後ろめたいことがあるのだろう。育ちがいいのか、無視をするのは苦手な人だった。
 昔からそうだ。昔から、どんなに怒っていても声をかければ振り返って、応えてくれたのに。
 いつのまに彼は、振り返らなくなったのだろう。
 こういうときに胸にこみあげてくる感情を、わたしは巧く言葉にすることが出来ない。拗ねた子供に対するような呆れとおかしさ、胸を締め付けられるような切なさともどかしさ、心が焦げ付くような懐かしさ。色々なものが綯交ぜになって、暗闇に放りだされたように、心細さに襲われる。
 ふと気が付くと、聞けないことが雪のように降り積もっていて、凝り固まった言葉をひとつひとつに解けずにいる。
「伝七」
 私が足を止めると、伝七も止まる。暫くの沈黙のあと、俯いて諦めた人のように、何だよと、殆ど呻くような声が返事をした。なんだかとても痛そうで、可哀想だと思った。
 伝七のことは、聞けないことばかりなのに、私はすべての理由を知っているような気がする。
「どうして佐吉と一緒の高校に行かなかったの」
「・・・今更聞くことか。もう高3だろ」
「どうして大学に行かないなんていうの」
「お前には関係ないだろ」
「どうしていつも怒ってるの」
「別に怒ってない」
「どうしていつも私といっしょにいるの」
「どうして、どうしてって、お前がどうしたんだよ」
 伝七は殆ど叫ぶみたいな声を出した。背中越しなのに、言葉を叩きつけられるようだった。わたしはそのとき、言葉をとめなければいけないことをわかっていた。止めることができなかった。誰かが私の口を奪っているみたいに。
「伝七は人を殺す夢を見たりする?」
「やめろ」
「私がどうやって死んだのか覚えているの?」
「わけのわからないことを言うな!」
 伝七は身体をくの字に折って、地面に向かって絶叫した。打ちひしがれた背中に酷く見覚えがあって、堪らず地面を蹴って駆け出した。向かいに回り込むと、彼は刺された人のような顔をしていた。衝動的に腕に縋りついた私の肩を、よろめきながら彼が支える。分厚い布越しでもその体温はあたたかく、懐かしい匂いがした。泣き出したくてたまらなかった。言わなければいけないことがたくさんあった。
「もう私のことはいいよ」
 伝七の双眸が見開かれて、視線が絡む。驚きに丸くなった薄茶色の瞳は、その瞬間、何の色も無かった。
 一瞬の後に、じわりと目の際に涙の膜が張った。
 形の良い眉が固く寄せられて、虹彩が潤み、やがて燃えるような怒りに染まった。薄い唇が震えて、だけど瞳とは全く違う、まるで笑おうとしたような形に歪んだ。華奢な、それでも骨ばった指が私の肩に食い込んで、伝七の身体から引き離される。
 待って。違う。間違えた、そう、思った。でももう遅かった。
「お前は平気なんだ。お前が置いていった僕が、一人でどんなになっても・・・」
 色素の薄い目がわたしを覗き見てかすかな怯えの色を帯びてすぐ伏せられた。伝七は置き去りにされた子供が耐えかねたように、短く呻く。
「僕が嫌なんだ・・・」
 ごめん、と口にしようとして、できずに視界が揺れて滲んだ。伝七はじっとうつむいて、時々体力を凝縮して吐き出したような、短い息を吐いた。
 あんなに眩しかった日は、もう沈みかけていた。黒々とした川がわずかな光を反射して蠢いている。私も伝七も一人で立って、身を寄せ合うこともしないから、川辺の風はどんどん私たちから熱を奪っていった。