何処かで雨音がすると思ったら自分が濡れていた。掌で受けた水滴をしげしげと眺めてから空を仰ぐ。殆ど白に近い灰色の天幕が頭上を覆い、ところ構わずと言った様子で雫を落としていた。夏の雨特有の暗さもなく、曇っているわりに眩しい空である。目を傷めますよと咎めるような声色で言われて、上を向けて細めていた目を伏せた。柔らかい痛みが眼球の裏で身じろぎをする。睡魔がつうと閉じた両目を、右から左に通り抜けていった。叶うならここでこのまま眠ってしまいたいと思いながら、気だるい瞼をもう一度押し上げる。本降りに入り始めた雨は簾のように視界を遮るわりに、戦の残り火を消しはしなかった。踏みならされていない地面からもうもうと煙が昇っている。足元の小石を小さく蹴ってから顔を上げて、それで漸く声の主を真直ぐに見た。肉の焼ける匂いと水に湿る硝煙の匂いが混じり合って鼻についた。視界めいっぱいに広がっている、煙と雨の纏わる荒野の真ん中に、細身の人間が一人立ち、大きな、しかし成熟に従って鋭くなりかけている目を細めて、じろりとこちらを窺っている。漆を塗ったように艶めく黒髪を頬にはりつけて、瞼を覆う睫は長く隙間なく、影を落すように重たげだ。平素は喧しさが先立って忘れられているけれども、この後輩は本当はとても美しい容貌をしているのであった。人間じゃないみたいだと思ったのでそのまま言った。彼は一瞬瞠目してから、本気で腹を立てたときの顔をして、そのまま腹を立てた顔で無理矢理口端をつりあげて笑った。皮肉っぽい笑いを作ろうとして失敗したのだろう。遠まわしに言葉を投げるほど気の長い子ではないのである。


「人間以外の何がこんなことをするというんです」
「みんなやってるよ。みんな自分より弱いものを殺して生きているの。誰でも何でも」
「意味もなく殺したりはしないでしょう」
「意味って。なに。食べるためとか守るためなら殺してもいいの」


口元からはすぐに微笑みが消え、私から目を逸らす。引き結んだ唇は冷え切って紫になりかけている。雨中に立ち尽くす魔物のような若い、幼い、男は頭巾を外し、血の付いた右手をそれで拭った。潔癖な子供だったけれども、戦場で清潔な手ぬぐいを求めたりするほど忍びの作法を知らぬわけでもない。不安定な存在である。可愛くて可哀相で、短く嘆息した。抜き身の刀を不必要にゆっくりとした動作で鞘に収める姿は、教訓などないにもかかわらず、事実から何かを刻みつけようとしているかのようだった。自分の殺した誰だかわからない人間を悼んでいる。だけど貴方、私たちはこれからだってこんなことばかりの人生なのに、そんなに苦しんでいてどうするつもりなのだ。近寄っていって手を取ると、びくりと震える白く骨ばったその手は、流石に華奢ではないけれど、丹念に手入れされているのだろう、武器など握っているようにはとても思えない。茶でも立てているのがお似合いの、整った指である。この手が人を殺したのかと不思議に思いながら冷え切った指先を握ってやった。自分より少しだけ背の低い後輩は黙って両手を握られたまま、目を伏せて、子ども扱いですかと不平を漏らすが、振り払いもしなかった。いいんだよと私は笑って言った。気にしなくていいんだよ。私達の決めることじゃないんだから、私達がどうにかできることじゃないんだから、自分の責任の及ばないことを気に病む必要はないのよ。私達がやらなくてもどうせ誰かがやることなのよ。


やがて彼は顔を上げて手を握り返した。射抜くような視線で私を睨みつけると、「それでも私が決めたことです」と言い捨てる。手の力を抜くと、体温の戻り始めた彼の指はするりと離れた。細い身を翻して、戻りましょうと背中越しに呟き、あっという間に遠くへ飛んでいく。肩にかかる紫の頭巾が旗のようにひらりと踊った。あの子が人を殺したのかあ、さっきも思ったようなことをもう一度、物語でも読むような夢見心地で思いながら後に続いた。ぬかるんだ地面でも足跡をつけない忍びの歩き方は完璧で、本当にバランスの悪いことだと苦笑する。いつのまにか小雨になった空の雲間から黄色い日差しが降りて、煙立つ荒野も転がる骸も咲いた野花も一緒くたに照らしていた。




白濁