斉藤タカ丸が修行と称して海外の美容学校へ行ってしまってから、綾部喜八郎の髪の面倒を見るのはもっぱらの役目になった。綾部は絶世の美貌、という形容が男子に相応しいかどうかは微妙な問題だが、とにかく美しい顔立ちをしているにも拘らず身だしなみに頓着するという思想が無い。彼の幼馴染の平滝夜叉丸とは正反対である。斉藤が去ってから一ヶ月後、早速閉鎖した植物園の如き様相を呈し始めた綾部にはじりじりとした焦燥を抱いていたのだが、やわらかく波打ち曲線を描く色素の薄い髪を、糊やペンのインクまでついている錆びかけた文具鋏で切ろうとしたとき、遂に爆発した。駄目だー!と叫んで文具鋏をふんだくり、セーターに引っ掛けておいたピンで前髪を留めてやった。それ以来毎朝綾部は味をしめたのか、の席に来ては伸びた髪をまとめさせている。奇妙に習慣化してしまったが、綾部はピンが花の細工付だろうがシュシュがピンクで水玉模様だろうが、一切文句を言わないので、は実のところ密かに楽しんでいる。女顔というより寧ろ、女より美しい花貌に、華奢で美しい金属の飾りはとてもよく映える。出先で似合いそうな髪飾りを見つけるたびに購入していることは誰にも言ってない。 

「今日は二つに分けていい?」
「どうぞ」

綾部はいつもこんな調子である。は二つ御揃いの花柄のシュシュで綾部の髪を手早く纏める。髪を漉くとき指の腹で頭を撫でると気持ちよさそうに目を細める事を知っている。まとまりのいい彼の髪はその日一日ちゃんとがまとめたとおりの髪型をしている。綾部に手鏡を渡すと作品を仕上げたような気持になってはふっと満足気に微笑んだ。綾部は一応みとく、といった様子で手鏡のなかの自分をじっと見て、それから手鏡をに返す。飄々としたその紅顔には、二つ結びもよく似合った。とても、大変、かわいい。そこらの女など目じゃない。

「ありがと」

そうして席を立ち教室の一番後ろに立てかけてあるスコップを手に取ると外へ出て行く。どうせ校庭に穴を掘るのだ。穴掘りは綾部の趣味である。も何度か落とされた。否、落されている、今でも。多分これからも落される。言っても直らないのだ。もしかするとわざと狙っているのかもしれない。だとしてもしょうがない。彼の穴掘りを止められる人間などどこにもいないのだ。何もかも、いつもどおりの朝であった。は綾部がさっきまで座っていた席に腰を下ろした。パックの紅茶にストローを刺して口をつける。一時間目の数学の教科書を机の中で一番上に出そうとしているとふと視線を感じた。顔をあげると女の子の二人組みだ。クラスメイトだった。

「あのね、お願いがあるんだけど」

女の子が二人組みでお願いに来るときのお願い事が気分の良いものであるはずがない。は顔がひきつらないように気をつけながら辛抱強く続きを待った。実はもう予想が出来ていた。二人のうち、背の低いほうの女の子は綾部のことが好きだという噂を聞いていたのである。明日の朝が憂鬱になることは間違いないだろう。綾部の頭につける飾り専用の、ポーチについた猫の形のキーホルダーを、指先でぐっと握った。

「綾部くんの髪を」

結わせてほしいの。いいよと答えるほかない。これはやわらかいが脅迫である。証拠のように、斜め後ろに控えた背の高いほうの眼光は鋭くを睨むのだ。口元だけは微笑んでいるのに。まさか断らないわよね、と。

翌日、は学校を遅刻した。彼女たちのことを綾部になんと言えばいいのか思いつかなかったからだった。自分がいなければ彼女たちが勝手に結うだろう。あのふわふわの髪を。考えただけでいやだなあ、と思う気持を抑えきれない。綾部とは別に恋人同士でもなんでもないので、こんな感情を抱くのは大分お門違いなのだと彼女自身も理解してはいるのだが。そもそもなんでもない、という今自分で考えた言葉にすら傷ついたことは、結構大きな問題なんじゃないだろうかとは思う。だがそれ以上考えたくない。今のぬるまゆをなくしたくない。頭を抱えた。一時間目も終わりかけた、空っぽの校庭を歩きながら。憂いを振り払うように首を横に振って、聊か乱暴に足を踏み出す。硬い音がして鈍い足の痛みがくる、とそう思った。なかった。かわりに足場が崩れるような音がして彼女のローファーは宙を掻き、支えを失った身体は傾いたまま穴に落ちた。底にたどり着く前に綾部の穴だと思う。というかこんなところに穴を掘る変人は綾部しかいない。落ちてるのに、彼にかかわるものに触れたことに安堵した自分に、彼女は一瞬愕然とした。

「綾部!」

右肩を強か打ったは涙目になって殆ど無意識に彼を呼んだ。授業中である。あたりにはだれもいない。綾部がいるとも思ってない。呼んだだけだった。穴を掘ったことを責めたわけでもない。顔が見たかったのだ。自分が自分で感じている以上に綾部の髪を結わせるのが嫌だったことに気付いた。そりゃそうだ。だって大好きなのだ。自分だけの特権が嬉しかったのだ。痛みと情けなさで涙が滲んだ。日差しから逃げるように構わず土に頬を付けた。綾部の匂いがすると思った途端、影が落ちてきた。怪訝そうに上を見上げると、スコップをかついたシルエットがそこに浮かんでいた。濃い黒の影。穴に真直ぐ垂れたネクタイだけが辛うじて模様を残している。

「おやまあ。何で泣いてるの」
「痛いんだもん」
「僕よりも?」

謎かけのようなことを言いながら綾部はスコップを地面に置いてするりと穴におりてくる。底に丸まったようにして寝そべるの傍にしゃがんだ。髪の毛はいつもがそうするより大人っぽく、低い位置に尻尾髪にしてある。サイドを落している所為で目元が隠れて色っぽい。人気の美容師みたいだ。似合ってる。は綾部のほうに寝返りを打ってもっと哀しくなった。

「似合うよ、それ」
「そう。でも目にかかって邪魔」

やりなおして、と言いながら綾部は首の後ろのシュシュを解いて穴の底に座る。はしばらくぽかんとして、のろのろと起き上がった。手が汚れてる。セーターで拭いた。茶色の筋がついたが、構うものかと思った。鞄のポーチから、一昨日買ったばかりの青い石の飾りがついたゴムを出す。綾部の髪をまとめて後ろに梳く。綺麗な髪だ。殆ど何も考えずに髪を梳き続ける。綾部は目だけで空を見てる。はじめより随分長くなった髪をゴムで束ねて、きらきら光る石の位置を直して、ピンを出そうとしたところで、

「これはの仕事だから。さぼったら駄目でしょう」

なんて綾部が言うので、はとうとう本格的に嗚咽を漏らして泣き出してしまった。見た目よりずっと筋肉質な肩に額をつける。綾部は空を見たまま姿勢を変えずにの頭をぽんぽん撫でた。

「あやべぇ」
「うん」
「大好き」
「僕も」


(穴ぼこロマンス)