記憶は長じるにつれて徐々に増えた。俺はかつて、室町を生きていた俺と殆ど同化してはいるが、未だ思い出せずにいることも少なくない。まだ自分の記憶が何なのかもよくわかっていなかった子供のころ、ふと誰かに無性に会いたくなって一人で泣いていたことがよくあった。待つことは慣れているが嫌いだ。平和な時代に不自由なく生きてきた。親の庇護の元で飢えの恐れも屋根のない寒さも知らずにいる現代の俺が絶望を語ってもきっと思春期の子供の戯れにしかならないに違いない。だがここは俺にとっては地獄だった。そうだろう?来るのかどうかどころか、存在しているのかどうかすらわからない人間を待ち続けることは、あまりにも辛すぎた。今生で見るものは全てが美しく、汚泥にまみれることも血飛沫がとぶこともなかったが、綺麗な景色の狭間にかつての友を探しながら生きることが、堪らなく寂しかった。俺はに会いたかった。伊作に会いたかった。小平太にも長次にも仙蔵にも文次郎にも、会いたくて会いたくて仕方がなかった。友人との待ち合わせで、雑踏のむこうからあいつらがひょっこり顔をだして微笑むんじゃないかと、いつも妄想していた。人波の全てがあいつらに見えた。彼らを待っているのだと思っていた。嘘はすぐにばれて、それはいつも裏切られた。



を教室の片隅に見つけたときの歓喜を俺は生涯忘れないだろう。本当に嬉しかった。逢いたかった。逢いたかった。逢いたかった!身体が震えた。泣き出してしまいそうだった。こんどこそずっと一緒にと願った。あの時代のことが夢じゃなかったことを喜んだ。けれど、それは、間違っていた。俺は、どんなにそれが難しいことであろうとも、記憶の全てを封じ込めてしまうべきだったのだ。悪い夢を見ていたのだと、思っているべきだった。に、記憶のないあいつに、昔の話など語って聞かせるべきじゃなかった。学園の仲間の話。皆で馬鹿やった話、それが、人の肉を抉り取る記憶だと、誰かの生を摘み取った感触と同義なのだと、どうして思わなかったんだ。



最近また夢を見た。昔の夢だ。がそばで泣いてる。俺は手を動かして涙を掬おうと思ってる。でも手が動かない。諦めて口を動かす。大丈夫だ、。ごめん。お前は悪くない。これでよかったんだ。泣くな。大丈夫だから。また逢える。

「ごめんなさい、死なないで、食満」

泣きつかれて掠れた声だ。

「お願いだから」

その真っ白い手には乾いた血が固まって錆びつつある苦無が握られている。



俺は、なんてことをしたんだろう。こんなことを、あいつに思い出させるつもりなんだろうか。冗談じゃない。俺の記憶に呼応するように、は色んな事を思い出していた。このまま傍にいればいつかこの記憶にたどり着くだろう。もう時間がない。慌てて、東京の私立を志望していた進路を変えた。大学は地方へ行くことにした。ゆるやかに、不自然でないぐらいに、姿を消そうと決めた。が俺のことを気にかけたりしないように。頼むから、、もう何も思い出さないでくれ。忘れてほしい。俺の願いを哂うように、事態は悪化した。







数学の授業中だった。は机につっぷして眠っていた。寝息を立ててる姿を見て、こいつ受験大丈夫なのかよ、なんて、平和な感想を抱いて、すぐだった。何かから顔を背けるように此方に首を向けた。眉が寄ってる。魘されているとすぐに気付いた。嫌な予感に背筋が凍った。

「・・・で、」

「しなないで、」

薄く開いた唇がそう動いた。反射的に立ち上がろうとしたところで教師の教科書がの頭に落ちた。寝起きの呻き声に引きずり出されたように爆笑が起こる。教師も、笑いまじりの溜息をついた。教室で、俺とだけが、笑ってなかった。は不思議そうな顔で自分の手を見てた。苦無を、握っていた手だ。猶予など残されてはいないことを悟った。俺にお前と共にいる資格は無い。もう一緒にいられるわけが、ない。

昔のことなど思い出すなと告げて久しかった。もうは俺に昔の話をしなくなっている。無論俺もしない。どの程度思い出したのか、言わないし、聞けなかったが、全てでは、ないだろう。一緒に歩く最後の帰り道で、は俺の顔を臆することなく見たから。変な夢を見たのだと恥ずかしそうに笑った。綺麗な横顔だった。とても、とても好きだと思った。俺はこのひとが好きだった。愛してた。何よりも。生まれたときから、一番に好きで、一番一緒にいたかった。前の生で叶わなかったぶんも、想いを告げることすらできなかったぶんも、今度こそ、幸福な終わり方をと願った。しかし、でも、だめたろう。こんなことを思い出させてなんになる。平和な世界だ。進んで痛い思いをする必要など無い。は柔らかいところで守られて眠るべきだ。普通の男に、普通に愛されて、普通の幸せを手にするのが、きっと一番いい。

「食満、ねえ、なんかあったの?」

なんでもないと笑って頭を撫でたら、くすぐったそうに目を閉じた。を幸せに出来る権利がある俺以外の人間が、羨ましくて堪らなかった。





家に帰ってすぐ、親に土下座した。風邪だと言って学校を休んで、そのまま九州にある母方の祖母の家に無理矢理あがりこみ、地元の県立高校に転校した。携帯はひっきりなしになり続けたが、無視した。退学したのがばれてから、一週間で殆どが途絶えた。安心した。よかった。早く早く、恨んで、忘れればいい。



一度だけ荷物のために九州から実家へ戻った。空港で、不機嫌な父母に詫びを言い、搭乗口へ向う途中、唐突に夢の続きを思い出した。が泣いてる。俺は言う。大丈夫。また逢える。これはちょっと間違えただけなのだと。次があるからと、俺は言うのだ。

「俺は」

「次に逢ったら、俺はお前に、はじめましてと言う」

「お前もそう返すんだ」

「それで最初からやりなおそう」

「次は、今度は、ずっと一緒にいてくれ」

の手が俺の手をとって、自分の頬に当てる。

飛行機の、一番後ろの窓際に座った。シートベルトのランプがついて、アナウンスが入り、独特の浮遊感。小さくなっていく町の景色を見ながら、嗚咽を堪えるのが精一杯だった。何でこれを一番初めに思い出さなかったんだ。はじめましてと言えばよかった。そうしたら、きっと、ずっと一緒にいられたのに。







九州で大学に進学すると言ったら、進学先は自ずと限られた。国立以外は金を出さないと両親は言った。国立の金を出してくれるだけで奇跡だと思う。必死の受験勉強は、取り敢えず俺の気を紛らわせた。もう誰も探すまいと思った。誰を見つけても声をかけまいと誓った。とてもとても逢いたいけれど、でも、もう、沢山だ。俺もも、あいつらも、きっと今を生きていくべきなのだ。四ヶ月しか居なかった高校の卒業式を終えた後、勉強の成果は一応出て、俺は一本に絞った第一志望に合格した。合格通知を見た両親は、いくらか怒りを解いたらしかった。







極寒の冬が明けた春、桜も既に散って、四月になった。陽気とは裏腹に風は冷たい。入学式の体育館は寒かった。冷え切って赤い両手をすり合わせて息を吹き込む。サークル勧誘のちらしが飛び交う中、俺は腕を引く手を引き剥がしながら校門を出ようとしていた。受験が終って気が抜けている。することはないが、サークルや部活をやるような気力もなかった。我ながら情けないと思う。着慣れないスーツの汚れを払って、苦笑した俺の目の前に、同じように着慣れなさそうなリクルートスーツの女が立ちはだかった。俺は俯いていた顔を上げた。

世界中から雑音が消えた。細身の女が、薄い桃色のシャツのボタンを一段目まできっちり留めて、俺をまっすぐに睨んでる。綺麗な顔だと他人事のように思った。今まで何度も何度も、もしかしたら顔をあわせるたびに思っていたことだった。赤い艶のある唇をわざと大きく動かして、彼女は言った。

「はじめまして」

はじめまして。言葉の意味を理解するのに時間がかかる。なんでお前がここにいるんだと、混乱した頭には疑問のほうが先に出てくる。彼女は眉を寄せて、ヒールの踵を地面に一度打ち付けた。カン、と、乾いた音がした。

「何ぼさっとしてるのよ。早く返しなさい。はじめまして!」
「あ、え、は、はじめまして」
「全くもう・・・一番重要な約束も守れないんだからしょうがないわ」

でも食満って昔からそうよだねと言って、呆れたように溜息をついて、は髪を掻きあげる。固まっていた脳がようやく動き出す。ああ、こいつ、思い出したのか。思い出さないでいたほうがずっと幸せだっただろうに。俺は本当に、ひどい男だな。謝れよ。絶望しろと、思うのに、唇がつり上がるのを止められない。灰色だった景色に色がついたような、陳腐な錯覚すら起きる。軽い野郎だと昔文次郎に言われたのが瞬間的に再生された。あのときはがなり返したものだが、確かにその通りだ。参ったな。意志が弱い。あんだけ全力で逃げておいて結局嬉しくて泣きそうだなんて、ダサすぎて笑うしかない。なあ、お前、マジかよ。思い出してもまだ、俺のところに来るのか。肉を抉り取る感触なんて、悪い夢だって忘れちまえよ。

「今度はずっと一緒にいるんでしょう」
「・・・いいのかよ」

もっと良い男いるぞ。は、肩を竦めて、それから少し笑った。私多分、この日の為に生まれてきたと思う。ひらりと振られた手を掴んで引き寄せて、力任せに抱きしめた。花のような匂いがしたのと同時に、最期の景色を思い出した。お前、笑っただろう。あの日、俺の最期の時に。

「絶対約束よ。次は一緒に生きるんだからね」

なあ、お前、すごい女だよ。お前じゃなくて、俺が、この日の為に生まれてきたんだ。







(願わくは今度こそ幸福な終焉を)