メフィストフェレスに魂を売った





よく晴れた日曜日に部屋を片付ける以外の人為的要因によって物が散乱した部屋で膝を抱えて座っている、という状況は精神に大変な暗雲を齎すとともに散乱したものの一つ一つが頭の中で爆弾のように爆ぜて色んな記憶を引き出していき、結果的に更なる奈落へと私を突き落とす。勘右衛門の残したバンダナは殆どオートマチックに私の頭の中の引き出しを開け、勘右衛門が高校の時分、ドレッドヘアーにした日のことを思い出させた。終る直前ほど始まりを想わせる時はない。

 
その日のうちのクラスは地獄絵図と化した。一秒たりとも会話が続く気がしないという理由で兵助が泣き出し、勘右衛門の髪を一房とって中の髪の一本一本ががちぢれているのを見、「ξ!!!(゚∀゚)」というようなことを言ったハチは額を割られ、三郎は「友達が急にドレッドヘアにしてきた話を書く」というスレを立て、ひとしきり己の見の振り方を悩みぬいた雷蔵は飽きて持ち前の大雑把さを発揮し雪見大福をもそもそ食べていた。しかし私はといえば特に反応もしなかった。元々の勘右衛門の髪も相当面白いもんだったしシルエット的にはそんなに変わるもんでもないと思ったからである。ところが昼休みになって騒ぎが大分収まった頃、勘右衛門がわざわざ席までやってきて「どう?似合う?」と聞いてきた。珍しいことだった。私は似合わないといわれてもまるで気にしなさそうな勘右衛門を上から下まで凝視した。結論から言えば、とてもよく似合っていた。元の髪型よりずっと下衆っぽく見えて、下衆っぽい性格の勘右衛門にはまさにピッタリ!だったのである。
「似合ってるよ。性格的にもそっちのほうがいいと思う」
「皮肉っぽいねえ、ちゃん」
「正直な感想だけど。『後ろ入れるけどいい?』とか言いそう」
「ああ、うん言うよ?」
「やっぱり?」
この頭じゃなくても言うよ、と勘右衛門は言い、私は一度頷いた。深く納得する私の腕を掴んで勘右衛門はにっこりした。大変に下衆っぽかったが、教室の光の加減もあってか笑う男は美しく、私は目を見張った。勘右衛門は綺麗な笑顔のまま「今晩どう?」と言った。それから心なし急いで「明日でもいいけどさ。その次でも」と畳みかける。もっとマシな告白の台詞ならいくらでもありそうなもんだったが、何せ相手は勘右衛門だからしかたない。


とにかく重要なのはそのときの勘右衛門がとても綺麗だったことなのだ。勘右衛門は別に取り立ててすばらしい容姿をしているわけではない。若い健康な男なのでそれなりに見られる人間だが、それだけだ。しかし美とは何か?一瞬の光の角度である。私は勘右衛門が一瞬の光の角度を実に巧く集めることができるということを知っていた、というか、知っていると思っていた。私は目を瞬いて暫く目の前の美しい男を眺め、「いいよ今晩」と返した。そのようにして私たちは多少手段に問題があったとしても幼馴染から恋人同士への困難なシフトチェンジを比較的上手におこなった。


では私たちの幼馴染であり私の恋人である尾浜勘右衛門とは一体どのような男なのか?その答えは要約すると一言で済む。簡単に言うとクズだ。それは自他共に認めるところである。否、寧ろクズを自認しているけれども他人からの評価はクズ以下かも知れない。私や三郎やハチや兵助や雷蔵は幼稚園の頃から一緒にいる仲なので今更やいやい言いはしないが、勘右衛門=えげつない という等式は生涯崩れることはないだろう。彼ほど他人の感情の機微に鋭く、他者への思いやりに欠け、自己保身に終始し、反逆者に酌量の余地を与えず、情熱のない人間を私たちは他に見たことがない。七松先輩を知っていて勘右衛門をしらない人は「七松ほど酷くないだろう」と言うかもしれないがそれは大きな間違いである。七松先輩より酷いと私は思う。だって七松先輩は相手の傷の痛みを知らないのだ。対して、勘右衛門はそれを知っている。全てを理解した上で彼は非道な選択をする。そうすることを躊躇うこともしない。


尾浜勘右衛門のえげつないエピソードなら売るほどあるが、わかりやすい一例をあげておくことにしよう。たとえば高校一年の頃、立花先輩に女の子を取られたという他校の不良が学校へ乗り込んできたことがあった。粋な我が同輩たち、即ちハチと三郎と雷蔵、兵助なのだが、彼らは立花先輩に連絡をせずその場で片付けてしまおうとしたらしい。しかし敵は多勢に無勢であった。そんなわけで彼らは校舎裏でボッコボコに殴られていたそうなのだけれども、そのとき勘右衛門は現場を見て、しかもハチと目が合ったのにも関らず、素通りして帰宅したと言う。四人は誰も怒らなかったけれども、私はそのときルーキーズなどを読んでいて青臭い系のガキだったので、仲間を見捨てて逃げるか普通?と彼を非難した。すると彼はあっけからんと笑ってこう言った。
「何でだよ。立花先輩出せっつってんのに勝手に喧嘩したのはハチたちだろ?趣味にもつきあわなきゃいけないの?」
絶句した。そして私はこいつには何を語っても無駄だと悟り、それ以降二度と勘右衛門に倫理や道徳について説いたことはない。私たちは同じ学園で同じように育ってきたはずなのにこの男の血の冷たさは一体なんなんだろうか。


勘右衛門がそんなんなので三郎などは付き合い始めて三年が経過した今でも一ヶ月に一度は必ずお前らまだ付き合ってんの?という普通なら失礼に当たるであろう質問をぶつけてくる。勘右衛門と三郎の関係は良好だが、彼が恋人に向いている男ではないことは猿にでもわかることなのでこういう質問も仕方ないといえば仕方ない。私が頷くと三郎は溜息をついてこれだから芸術家は、と言って私を蔑むのだ。20年近く共にあれば蔑まれるのにも慣れるというものだが芸術家全体を非難するような姿勢には疑問を呈しておきたいところである。私以外の芸術家のためにも。しかし私は己が勘右衛門の傍にずっといることが私の芸術以外に起因しているとはとても考えにくいので反論できずに黙っているのである。


私はカメラマン志望なので仲間内で唯一内部進学を蹴って外の美大を受験した。勘右衛門は受験勉強に勤しむ私ににこにこしながら才能ないって!と言ったものだが元々私がカメラなんぞに嵌る羽目になったのも勘右衛門の所為なのだ。小5の私にちゃちいトイカメラを渡して「もういらないからあげる」と言ったのは彼本人であり、朝日が昇る直前の空が紫色で、場所によっては虹のように色が連なって見えることを教えたのも彼なのである。阿呆のようにマジカルアワーの写真を取りまくる私に、なんの気まぐれか一度だけ勘右衛門がついてきたことがあった。そのとき撮った空を見上げる勘右衛門の写真は私が今までに撮ったどんな写真よりも綺麗な写真である。紫の空を見上げる小さい男の子。幼少期の刷り込みに近い。私は勘右衛門についていけばもっと綺麗なものが見れるんじゃないだろうかと未だに信じているフシがあるのである。付き合うことになった理由だって勘右衛門が綺麗に見えたからだった。別に取り立てて見目麗しい男でもないのだけれども先ほど言ったとおり美とは瞬間であって容姿に大きな問題はない。こんな話を三郎にしたらやっぱり「これだから芸術家は」と言われてしまうのだろう。


しかし私は元来そこまで芸術家肌の人間でもないし、まともな生活を送りたい常識的人物である。というわけで高2から付き合い始めてそろそろ三年になる私たちの関係だが、この辺でピリオドを打っておきたい。物が散らかりまくった部屋の真ん中で周りを見渡して、やっぱりもう潮時だろう、と重ねて思う。そろそろ、終わりでよくないか、という感じなのだ。別に嫌いになったとかそういうわけじゃないが、勘右衛門は一人の女が御しきれるタイプの男ではない。説明が面倒なので省くが足かけ三年に及ぶ私たちの悲喜劇の中での彼の名言を置いておくのでどうか察していただきたい。曰く「遊び女なら浮気じゃない」「キスまではOK」「ホモのふりしてると女にモテる」諸々。


そのような暴虐を許し続けていた結果、こういうアホかつ疲れる事件に発展したのだ。右耳にピアスは男の恋人募集中の印であるということを知っているだろうか。私は最近まで知らなかった。勘右衛門は知っていた。勿論本人としては洒落であり悪質な悪戯であるのだが私の大学のガチホモが勘右衛門にホレてしまい、私に絶賛嫌がらせ中、というバカみたいな展開になっているのである。迷惑この上ない。私はこれまで何度か右耳にピアスをやめてガチホモくんに謝りに行くか私と別れるかどっちかにしろと言ってるのだが、勘右衛門はヘラヘラして、なんかガチホモくんと遊びに行ったりして弄んでるし。切れた私がもう出てって!そんな怒らなくてもいいだろ。みたいなことになって大喧嘩。色々あって物の投げ合いに発展し最終的には勘右衛門を私の部屋から追い出して二度と来るな!と叫んで試合終了。勘右衛門は5百回ぐらいインターホン押してきて私の神経を削りまくってからどこかに消えた。5時間ぐらい前の話。もう終わりだ。悩む間でもない。とっ散らかった床から腰を上げ、私は勘右衛門のバンダナを拾い上げてゴミ箱に捨てる。さよなら、と呟いた瞬間物凄い轟音がしてベランダの窓が割れた。


念のため言っておくがうちは三階である。ガチホモくんここまできちゃったの?警察行くよ?と思って顔を上げたのだがそこにいたのは他の誰でもない尾浜勘右衛門その人であった。男の全体が目に映った瞬間、私はそこに勘右衛門がいたことよりもベランダの窓が割れたことよりも勘右衛門が左手に持っているものに驚愕した。有り得ない。


それは100本あろうかという巨大な薔薇の花束だったのだ。勘右衛門と花ほど、似合わないものもない。アスファルトに咲く花を避けることもしない男である。まさかと思うがお詫びのつもりか?こいつが私に謝るとか有り得るのか?混乱する私を他所に、勘右衛門はガラスを破るのに使った金属バッドをぽい、と投げ捨てた。カーテンがはためき、風が私の頬を撫でる。勘右衛門は花束を右手に持ち直した。花束そのものにばかり気をとられていたので、それがどのような動きをするのか私には全く想定の範囲外だった。


次の瞬間、無防備の極みだった私は頬から肩にかけてを鞭で叩かれるような痛みと、皮膚を何かに引っかかれるような感触と、花屋の優しい香という、ちぐはぐにも程がある三つの衝撃に同時に襲われた。それも一瞬で、身体が右に物凄い勢いで吹っ飛ばされる。倒れる前に咄嗟にテーブルクロスを掴んだら、上にあった食器が全て床に落ちて耳を劈くような音を立てて割れた。何が起こったのかわからず、倒れたまま、少しだけ首を動かして勘右衛門を見る。勘右衛門はさっき金属バッドを捨てたのと同じ動作で、ぽいっと、花束を床に捨てた。私の傍には無残に首から折れた薔薇の花が悲しげに横たわっている。


20年近くを勘右衛門と一緒に育ってきた脳味噌は一瞬で全てを悟った。別れるつもりはないが謝るのは嫌だった。だからプレゼントと報復を兼ねたのだ。私は今、100本の赤い薔薇の花束で殴られたのだ。


呆然と視線を動かすと薔薇の花びらがそこいらじゅうに血痕のように散らばっていた。薄紫のテーブルクロスはくしゃくしゃになって床に落ち、さっきまではまともな形をしていたはずの白い食器の破片が花びらを間に挟みながら混在。クリーム色のカーテンが揺れて風が吹くたびに花が舞う。空が青くて、窓硝子の欠片に光が反射する。仁王立ちする若い男ははあ、と溜息をついて、「愛してるよ」と言った。すばらしい。完璧だった。なんて綺麗な景色だろうか。時よ止まれ、お前は美しい。