彼の後には草も残らぬ


かつて私の周囲にいて、私を知っていた人たちは、誰一人として、私の選択を肯定しようとはしなかった。目撃したら怒鳴り込め、と友人は言った。聞いたなら真偽を確かめろと、確かめたなら責めろと、欲しいのなら繋ぎ止める努力をしろと、彼女たちは皆口を揃えて言った。皮肉な言い方をするが、それはとても素敵な一般論だった。他人事でしかなかった。私への労りや同情を含んでいたであろう、諫言や苦言の全ては、私の心を動かすほどの輝きを持っていなかった。どんなに止められても、私にはその道を選ぶ以外には生きていく方法がないと、信じていた。私は自分でそうすると決めたとおりに、彼の浮気癖や放浪癖に対しても、何も見ていないふりをして、聞こえないふりをした。言わなかったし、行動もしなかった。これでいいのだと信じた。そのようなことをしているうちに私を心底心配してくれていたであろう友人たちは、次第に私から離れていったけれど、私は全く気にしなかった。寧ろ自分の選択にけちをつけられなくなったことを喜んだ。

人生とは、選択である。私は七松小平太を自分の人生全てを捧げるに相応しい相手だと定めた。小平太に思いを告げられて、付き合い出してからの私は、生来の御転婆も鳴りを潜め、以前のように彼の意見に声を荒げて反対したり、怒ったりするようなことはけしてしなくなった。小平太がいくら私を好きであろうとも、自分が小平太にとっていくつも、いくらでもある止まり木のひとつ以上にはけしてなれないだろうことを、私は知っていて、またその状況を変えたりすることはできまいとわかっていたので、せめて一番居心地のいい木でありたいと願っていた。小平太に安らいでほしくて、私はほかの全てを擲って彼に尽くすことを選んだ。友情も成績も矜持も尊厳も何もかもを忘れ、小平太のことだけを考える。誓ってもいいけれど、それで私は幸せだったのだ。そうでなければ私を大事に思ってくれた友を平気で切り捨てることができる筈がない。

どんな夜中で、どんなに疲れているときだったとしても、小平太が部屋に訪れれば私は喜んだ。ほかの女のところに行ってしまってもけして咎めなかった。どんな頼みでも絶対に聞いたし、いくら苦しくとも痛くとも不満はけして零さなかった。彼は私に何一つ与えなかったけれど、私は彼が微笑んでくれるだけで良かった。そう思えた。満ちたりるとはこういうことなのだと、固く信じていた。七松小平太が私に向かって微笑みかけるだけで、私という人間は非常に容易く、ぼろぼろに崩れていってしまうのだ。なんて軽くて、下らない命だろうか。





月の綺麗な晩だった。小平はいつものように前触れも無く私の部屋を訪れた。言葉も交わさず口づけられて、布団の上に押し倒される。口膣を蹂躙されながら私は恍惚とした。乱暴にされることすら求められている証だと思う。至福の瞬間だった。眩暈さえ覚えた。私は、本当に、小平太が、好き。好きで好きで好きで堪らない。どうしても、捨てられたくない。ほかの事はどうでもいいから、この人に喜んでほしかった。そのために身を切ることは苦痛ではなかった。

小平太は、何度も私の中で果てた。私ははしたない声をあげて荒ぶる波のような動きに身を任せる。溺れる様な想いを感じた。全てが終わったのは空が白み始めた頃で、障子の向こうから光が差し込んで私の上で気だるそうな目をしている小平太を照らした。彼は私から出て行くと、ゆっくりと身を起こして面倒くさそうに身形を整える。私もほうけたまま、のろのろと襟元を合わせた。今日は機嫌が悪いなとちらりと思う。私は水差しから湯のみに水を注いで、小平太の傍に置いた。彼はそれを一瞥して、髷を結いなおしてから口をつけた。喉仏がごくりと音を立てながら動くのを私はぼうっと見ていた。空になった湯飲みを置くと、小平太は私のほうを向いた。私を映す黒い双眸は酷く冷たかった。困惑した。何かあったのだろうかと私は思った。小平太は短い沈黙のあと、矢張りとても面倒くさそうにこう言った。

「お前、なにか不満とかないのか?」

私は一拍もおかずに、ないと答えた。すると、七松小平太は、明後日の方向を向き、短く息を吐いて、そう、何かを軽んじるような息を吐いて、一撃で、いとも容易く私を切り捨てた。あなたのために、何もかも捨てて、捧げて、こんなに尽くしてきた、この私を。

「なんか、お前、つまらん女だなあ」



頭が真っ白になって、顔面から血の気が失せていくのを感じた。口の中がからからに乾いていく。私は何も言えなかった。言われた言葉の意味がわからず、暫く呆然とする。それから―――衝動的に傍にあった抽斗の上の苦無を握り締め、小平太の頭に向けて振りかぶった。自分が何をしているのかもよくわかっていなかった。

けれどしかし、苦無を高く掲げた瞬間、脳裏に浮かんだのは、血塗れで横たわる小平太ではなくて、苦無を握ったまま殴り飛ばされて地面に伏した自分の姿だった。本能的に、私は自分の刃がこの男の肌に届かないことを知っていたのだ。ならば何故こんなものを振りかぶったりしたのか、殴られ損じゃないか。自問しながら、理由など解かりきったことで私はなんだか少し笑ってしまった。届かないから、振りかぶったに決まっている。小平太の肌にけして傷がつかないことにひどく安心している自分がそこにいた。

自衛の意思すらない、私なんか、もう何処にもいなかったのだと、そのとき初めて気がついた。鬼に恋をして、とっくの昔に死んでいたのだ。いくら努力をしてみても、捨てられるのは当然の話だった。彼がかつて、好きだと一度だけ言った女は、騒がしくて、すぐ怒って、泣き虫で、よく笑って、人に囲まれていた。なんでも見て、なんでも聞いて、なんでも言って、なんでもやった。論語の一説よりは、友人の助言を信じた。ああでも、あのままの私には、この男の所業には耐えられなかったのだ。傍にいるためには、死ぬしか、なかったのだ。怒りも悲しみもわきやしない。こんなことになってすら、身体に残っているのはただ小平太への恋心だけで、拳が近づくのを感じながら、どうか幸せになってほしいと執念深く願う。

おわってる。

半笑いのまま、私は次に来るだろう衝撃に備えて奥歯をきつく噛締めた。