食堂の厨にて、兵庫水軍の皆さんに貰った蛸を捌いたら、中からわっさーと髪の毛が出てきた。それでわたしはこう思ってしまったのである。あ、わたし、今けっこうきつい。落ち込むような事件は稼業の都合上しょっちゅうではないにしろ年に数回程度はあることだ。その度にバカ正直に悲しんだり苦悩したりしていてはキリがないから、わたしたちは、食べたり飲んだり遊んだりお喋りしたりして自分が辛いということに気づかないでいることに努めるのだけれど、今回わたしはその誤魔化しをしくじってしまったのである。しょっぱい気持ちを噛み締めて包丁を俎板の傍に置いた。濡れた手を前掛けで拭って生臭いまま顔を覆うと、竈の火を起こしていたきり丸がわたしを怪訝そう に呼ぶ。包丁が俎板を打つとんとんという音が急にしなくなったから奇妙に思ったのだろう。背後からわたしの肩を掴んで頭越しに、彼も俎板の上を見た。そしてきり丸も多分、やばいこれかなりきつい、と思ったに違いない。わたしたちのささやかな抵抗はこうして度々物語より奇妙な現実に圧し負ける。例えば徒労に終ったアルバイトの後で兵庫水軍に貰った蛸を食べようと捌いてみたら中からわっさーと髪の毛が出てきた、ということがあったりすると、わたしたちでも極まれに、自分の苦痛から目をそらすことを続けられなくなってしまうのだ。

きり丸は黙って厨の隅に放って置かれていた手拭を広げて俎板の上に掛けると、わたしの手を引いて外へ出た。骨ばった肉の少ない手は、それでも殊の外暖かい。外は初夏だというのに中々に寒くて、びゅうびゅういう風がわたしたちの耳の横を威勢良く通り抜けていく。きり丸はしばらく歩いて用具倉庫の前まで行くと、わたしの手をとったまま器用に、軽やかに屋根の上にあがった。空はまだ明るかったけれど、満月がもう出ていた。わたしは促されるまま、屋根の淵に足をぶら提げて、ひょろりと細い身体の隣に腰掛ける。やりきれねー、と言ってきり丸は笑った。だよねえとわたしも同意する。そうして取り敢えず一緒になってこの前の忍務について考えた。



それは学園から斡旋されたアルバイトだった。内容は都から港までの間、ある公家のお姫様の護衛をしろということで、姫君のお守としてわたし、護衛としてきり丸が声をかけられのだ。意外にも大変な忍務であった。何故なら若君の嫁にとお姫様を狙っていたのはドクアジロガサ城だったからである。たいした腕はないが、本気で殺しにやってくる人間を、誰かを守りながら撃退することはなかなかに難しい。しかもお姫様は道中あろうことかきり丸に惚れてしまいわたしにあからさまなやきもちを焼くようになって、ご機嫌取りも楽じゃなかった。それでもなんとかわたしたちは敵の忍軍を撃破し、さんざっぱら苦労に苦労を重ねて兵庫水軍の拠点とする港町に船をつけ、そこへお姫様一行をお連れした。お姫様は敵の忍者に大変におびえていらして(理由がそれだけとは思わないが)なんどもきり丸に船に乗るよう頼んだのだけれど、従者の侍はここでいい、と言って、代金の金子をわたしたちに支払って、結局そこでわたしたちとお姫様は別れた。港から出て行く船をわたしときり丸は並んで見送った。
「かわいかったね」
「ちょっとうるさすぎだろ」
「張り合いあっていいじゃない?」
「まあうまくいきゃ逆玉だったかもな」
おしいことしたぜときり丸は笑う。お姫様たちの一行はわたしたちに行き先を伝えなかった。ぼんやりとあの方向は南だなあとわたしは思った。予定より早く済んで時間が余っていたので、船が見えなくなるまで地平線を眺めていることにして、私たちは海岸線に腰掛け船がずっずと大儀そうに海面を進んでいくのを見ていた。帆が将棋の駒ほどの大きさになったとき爆発音が聞こえた。それがお姫様の乗った船から出た音なのだと気づいたのは、駒のような船から灰色の煙が出だして、船体が二つに割れてから暫く間を置いた後だった。
「嘘」
とわたしは言ったが、それはきちんと現実だった。わたしときり丸がさんざ苦労して守ったお姫様一行はお船が沈んで海の藻屑と化したのである。ひとりぐらい助かったんじゃないの、と思うかもしれないし、わたしだってそう思いたかったけれど、兵庫水軍の皆さんが態々確認に行った様子では、それは殆ど絶望的だということだ。実際その後、生存者が岸にあがるということはなかった。なんということだろう。重ねて残念なことに、爆発の原因は船に積んであった火薬で、その火薬はドクアジロガサの陰謀とかでは全然なく、お姫様たちの財産のひとつとして積んであっただけのものだった。船が爆発したとき、岩場から目をまんまるにかっぴらいたドクアジロガサ忍が出てきたので、それは間違いない。わたしたちは自分の仕事の甘さを責めることすらできなかった。万全を尽くした仕事は完璧で、お姫様は無事に守られ、ドクアジロガサは撃退された。しかしお姫様はあっさり死んでしまったのである。あんなに頑張って守ったにもかかわらず、無情にもわたしたちの目の前にて。わたしたちの苦労は全て、文字通り水の泡。きり丸なんて、道中敵の忍を2人も斬り捨てたのに、そこまで頑張らせておいて、本当にこれは、無い。正直言って、ドクアジロガサにお姫様がとられてしまった、というほうが、まだマシだった。

つまるところ、わたしたちは自分が風魔キラーの暗殺者二人とか、ドクアジロガサの忍者とかと、なんら変わりのないただの人殺しだと思いたくないのだけれど、こういうことがあると、結局わたしたちが殺した人たちの死は何の成果も齎さなかったことになるわけで、あいつらと自分たちのやっていることは本当は同じことだな、大儀亡き殺人だな、ということを、思い知らされて、それがとても嫌なのだった。



わたしたちは腹いせに岩場から出てきたドクアジロガサ忍をボコボコに殴って、もうもうと海上にもりあがる煙を前に顔を見合わせて、どちらからともなく、ちょっと遊んでいこうかと提案した。そうしてふたりして5日ほど兵庫水軍のお世話になった。蛸はその帰りのお土産で、わたしたちのこの徒労感を、虚無感を、罪悪感を、塗りつぶすための最後の仕上げであるはずだった。だから困るのだ。蛸の中から髪の毛がわっさーと出てきたり、その中にお姫様の髪紐と同じ色の紐があったりすると、本当に。身の程を知れと言われてる気がして、立ち直れなくなりそう。わたし正直いま忍者やめたい。打ちひしがれるわたしの頬を風が撫でる。

「なあ。もうやめねえ」

と、きり丸が言って、私の思考は強制的に止まった。わたしはそれが忍者になることについてのことばなのだろうか、と一瞬思う。もしもそうだったら、この世に人と思いが通じる瞬間があるのだと信じて、忍者なんかやめても良いかなと思った。でも、彼は薄笑いを浮かべて「考えてもしょーがねー」と嘆息した。このつまらない落ち込み会をやめましょうと言ったのだ。わたしはちょっとがっかりして頬を小さくふくらませた。

「考えちゃうよ」
「何を。髪が出てきた、はい終わり、だろ?」
「このまま忍者になるのかなあとか」
「ならねえの?」
「なると思う」
「他にないもんな」
「しかも向いてる」
「だよなあ」


他の奴ら6年になってからけっこう実習の度に落ち込んでるけど、俺らこんなになんねえもんな、めったに。ときり丸は嫌なことを言う。そして息を吐いて、ぐしゃぐしゃと前髪をかきながら、しかたなさそうに笑った。

「きりかえようぜ」
「じゃあなんかこのやるせなさを誤魔化す楽しみ考えてよ」
「いっこあるけど」
「どんなん」
「断られたら目も当てられないから言いたくねえ」
「既にこの状態が目も当てられない」
「じゃあ」


きり丸は体を起こして雑草をぺっと吐き捨てた。肩に手をかけられる。唇が触れあう。まあこうなるよなと思っていたので別に驚きはしなかった。遊興でも食事でも睡眠でも誤魔化せなかったなら最後にはやっぱりこれしかないのだ。わたしたちは唇を合わせて目を閉じ、粘膜を擦り合わせる。自慰にふけっている、という表現が非常にぴったりしている。学園で教わる忍の心得なんかクソの役にもたたないと思えた。いくらプライドを持って働こうとしても、その頑張りが実を結ぶか否かは私たちにどうこうできる問題じゃない。きっとこうやってわたしたちはなんどでも身の程を思い知らされるのだろう。ありとあらゆるものから外道の烙印を押し付けられるだろう。人生なんか碌なもんじゃない。自棄だもう。考えるのはやめにして、こんなことは全部、次に思い知らされるときまで忘れていよう。硬い背中に手を回す。骨ばった首筋に噛み付いて、わたしは今度こそ上手に自分を誤魔化すのだ。

件の蛸は夕食の後、誰にも内緒でふたりで味噌で煮て食べた。おいしかった。とても。とろけるように。



(ぼくらほんとはギリギリなのさ )