甘い夢を見せながら、耳元で現実を囁く。姑息に生き抜く術を徹底して教えながら、その後の難儀な生を見越した故か、学園はいつでも私たちに優しかった。実習やアルバイトで戦地の死臭を引きずりながら戻っても、門をくぐれば後輩たちは煌くように笑い、先生方の目は温かかった。外と隔絶された緩やかな時間。ぬるまゆに浸っている自覚はあった。湯がいつか冷めることも知っていたから、これはすべてはじめから約束された通りの終焉である。その日のために、私たちはここに居たのだ。

学園には卒業式がない。最後の授業が終わって、就職が決まれば、内定先の求めに応じて発っていく。三日前に潮江が出て行った。一昨日、善法寺がいなくなって、昨日は食満と小平太、明日には長次がここを発つ。今夜は立花がいなくなるし、私ももう荷物を纏めた。二度と足を踏み入れることもないだろう教室の真ん中、自分の席に腰を下ろして、窓の外を見る。夜が更けはじめて、裏山の頂上に大きな月が見える、見慣れた景色だった。月明かりを頼りに自分の机の木目をそっと撫でる。

「感傷的だな」

天井から、ぎしりと板の軋む音がして、見上げたら、立花が天井裏から、相変わらずの猫のような俊敏さでするりと下りてきた。もう顔をあわせないつもりだった。動揺を誤魔化すように男子禁制と呟いたら、立花は最後まで変わらんなお前はと溜息混じりに零した。からっぽの教室で、立花は私のそばに胡坐をかいて、窓の外へと視線を移す。月より遠くを見ていた。虫の音も聞こえない夜は静謐で、思い出ばかりがひっきりなしに浮かんで消える。数えだせばきりがないほど、やっておくべきだったことがあったように思う。立花は誰が見てもわかるような私への想いを吐露したらよかったし、私は立花の袖でも掴んで離れたくないと一言でも言うとか、そんなことを、しておいてもよかった筈だった。そこまで考えて、なんだか思わず笑ってしまった。後悔だけはいつでも容易い。何度時間を巻き戻せたとしても、私が私で、立花が立花である限り、けしてそうはしないだろうに。何故って、私たちは知っているのだ。自分の人生が、幸福に終るために誂えられたわけではないということを。

「縁がなかったな」

月を見つめたまま、嘆息して、立花は言った。細い肩が丸くなる。卑屈に苦笑を浮かべてそうね、と答えた。最後ぐらいと、立花のそばに寄って肩に頭を乗せたら、骨ばった身体はびくりと震えた。おかしくてくすくす笑ったら、頭を軽く叩かれる。そのままの手で撫でる、しぐさの柔らかさが痛い。

「抱いておけばよかったと思わないでもない」
「今更そんなこと言ってもしかたないわ」
「そうだな」


臆病だな私は、と立花は自嘲気味に笑った。似たもの同士なのだ、私たちは。一緒に逃げないかと喉元まで出かけた言葉を押し込める。出てくる言葉がひとつもなくて、死なないで、と縋る様につぶやくと、怒るか、笑うかと思ったのに、立花はうんといって、何一つ咎めなかった。私の旋毛に口付けて、ゆるく笑う、吐息が髪を揺らす。

、お前も達者でな」

死ぬなとは言わなかった、この人はやさしいひとだと思った。月が翳って、目を閉じたら、風が吹いて、立花の姿がなくなる。私の幸せを浚って消える。空には雨の気配もなくて、月は再び明るく、ひとりぼっちの教室を照らした。何もかも予定通りに、花は散って夢は、醒める。







ここからさき修羅の道