愛情と正反対の感情とは無関心である、というのも使い古された文句だが私には笑い飛ばすこともできない。無関心。お前のことなど埃を被った古書の虫食われた一字ほどの価値もないと言外に告げられるあの、せつなさと呼ぶにはあまりに大きすぎる衝撃である。喩が妙に現実的なのは、それが実体験に沿ったものだからだ。思い出さずにはいられない、二年前の夏のこと。放課後の図書室。窓の格子の隙間から見える橡には、蝉がたくさんしがみついて束の間の浮世を一刻も無駄にせず謳歌せんとけたたましく啼いていた。刺すような日の光が室内にも伸びていて、山と積まれた古書の一冊一冊を点検する、中在家の頬を照らして、茶色の髪が玉のような光の粒を帯びてきらきらしていた。心臓が煩かった。このひとが、好きだと思っていた。とてもひどく。

色よい返事などもとより期待していなかった。私のことなど誰が好くものか、まして仲在家が、好くものか。告げたのは殆ど反射的で、すぐに後悔したけれど、でも、あの硬い表情を、崩そうとしない頬が、少しでも染まったら、それはどれだけの喜びを私に齎しただろうか。現実は私にその程度のはからいすらしなかったけれど。好きだと、そうだと告げたあとの緩んだ私の頬が、徐々に固まっていく時間。中在家はそれまで点検していた古書から顔を上げて私を見た。焦げた茶色の瞳。あのときの中在家長次の胡乱な目、それがどうしたのかと言わんばかりだった。そうしてひとこと、そうか、と呟いて、また胡坐を掻いた足の上の、古書に目を落した。頭が熱くなった。汗が吹き出て背中が冷たくなる。視界が歪む。私は両目を覆って図書室から逃げ出した。哀しかったし、恥ずかしかった。身の程知らずな想いを抱いた己が。心臓がずっと、どくんどくんと、死にかけた小動物のように重く鳴っていた。部屋に戻ってぼろぼろに溢れる涙を手の甲で拭いながら、明日なんか永遠に来なければいいと思った。

好いた人の反応ひとつ思い通りにならないのにそんな願いがかなうはずもなく、日は残酷に、平等にまた昇る。一晩中泣いたあとで見た朝日はなんだか白々しかった。胸を突き破らんばかりだった心臓は静かで、私はその上に手を当てて、こんな想いは忘れてしまおう、もう中在家に近づくのはやめにしようと思った。

そのようにして私は心臓を失ったのであった。あれきり、二年間ずっと、私の心臓はまともに機能していない。驚いても怯えても悲しくても、激しい鼓動をしない。一年生にいたずらで水をかけられても、実習で先生を相手にしても、バイト先で偶然戦に巻き込まれて殺されかけても、心臓は静かなままだった。中在家の目が私を殺してしまったのだろうと思う。「どうでもいいじゃない」、と私は胸に手を当てながら呟く。こうなってみると、これはこれで楽でいい。表情のないからくりのようにわたしは動く。

中在家はあれ以来、私に少し優しくなった気がする。前からだけれど。やさしくというか、丁寧になった、のほうがより正しいかもしれない。気を使ってくれているんだろう。しかしどうしたって惨めだと、思う。暫くは目を合わせるのも怖かった。最近は、会話ぐらいなら、できるし、昼食を何人かで一緒にとることもある。でもそれだけだ。それでいい。











は結構無理をするねえ」
「そうかな。そうかも」

私が頷くと善法寺は薄くため息を吐いた。女の子なんだから気をつけなきゃだめだよ、と彼は言いながら、私の左腕に包帯をくるくると手際よく巻いていく。彼の頭にも包帯が巻かれている。どう見ても私より重症なのは黙っておいた。男女混合の実習のあとだった。偵察先の村人の子を庇って、火矢の炎で火傷をしたのだ。跡が残ると思うよと保険委員長。それがどうしたと思う。どうせ嫁に出る身体でもない。今度は私がため息を吐いた。善法寺は眉を寄せて、もう少し自分に興味持ったほうがいいよとなんだか母親のようなことを呟く。私は居心地が悪くなって肩を竦める。善法寺に礼をいい、羽織を着なおして保健室を出た。「安静」と声が後ろを追いかけてきた。古くなった板張りの床が軋む。

誰一人興味がないものに、興味を抱ける人間などいるだろうか。侘しいものだけれど、私の人生はそういうものだ。価値を見出せぬ。あの中在家の瞳に囚われる前からずっとそうだった。あの失恋もただの切欠にすぎない。ずきずきと痛む肩を抑えて今までの自分の生を思う。碌なことがひとつもない。幸せはどこか遠いところで、私が居ないところにしか、こないのだ。顔を上げると薬草園の垣根の向こうに下級生の姿が見える。楽しそうに、踊るように走って通り過ぎていく。かつてくのいち教室で共にいたクラスメイトたちはどうしただろう。皆親の勧める相手と結ばれて学園を出て行った。幸せになっただろうか。どうにかこんな現状を変えたがった二年前の自分が、ひどく馬鹿げて見えた。私はもうとっくに。

諦めている。

「・・・おい、

後ろから低く呼ばれて、左肩を引っ張られた。咄嗟に呻き声が出る。声の主は驚いたように手を離した。それからすまないと呟く。中在家がそこにいる。顔を上げても目線がなかなか合わない。また背が伸びたのだろう。漸く視線を合わせると頬の傷が増えているのに気がついた。

「また、怪我したの」
「お互い様だろう」
確かに、と頷くと、中在家は私の右腕の袖をつかんで引っ張る。時間はあるか、と蚊の鳴くような声がする。返事をする前に促すように歩き出す。嫌だなと私は思う。中在家は私の左肩を庇うように左に立って歩く。昔からずれているが、優しすぎるひとだ。あの反応とて悪気などひとかけらもなかっただろう。好きな女のひとりも、いないのだろうか。私には永劫関係のない話だけれど。

「どこへいくの、」
「図書室だ」
「今日は整理で閉室じゃない」
中在家は応えなかった。徹底的に意味のない言葉を発しない人だ、昔から。私はいつも、無駄な話ばかりしているというのに。そういえば図書室に行くのは随分久しぶりだな、と思う。二年前から暫くは、思い出すのが嫌で避けていた。最近はバイトと実習であまりゆっくり読書する時間もない。しかも中在家と一緒になんて、私の傷も癒えたものだ。痛みに鈍くなっただけかもしれない。

中在家が図書室の扉を引く。雨戸の閉められた室内は薄暗い。袖を引っ張られて入ると、こもった空気に微かに黴の匂いがする。心臓は鳴らない。静かなものだ。中在家が手を伸ばして扉を閉めると、胸に居着くような静寂が部屋に満ちる。遠くで誰かがはしゃぐ声がしたけれど、異次元のできごとみたいで、かえって室内の静謐が際立ったような気がした。

「中在家、なんなの、」

袖をひっぱらないで。静止の暇もなく体が傾く。肩が痛い。肩以外の細かい傷も痛い。硬いのか柔らかいのかわからない感触に包まれる。背中に腕が回って、苦しいほどだった。胸が潰される。右肩に存外細い髪がかかる。吐息が耳朶にあたる。

「・・・・は?」
「・・・もう少し気をつけろ。心配した」

低音が耳の奥に溜まって熱を持って、脳が膿んだようだった。意味が解らない、これは一体どういう状況だ。頭の中でぱきんと、なんだか回路が焼き切れるような音がした。私の口からはあ、とか、うえ、とか意味のない音しか零れない。唖のようだ。頭が熱い。目頭も熱い。厚い肩越しに見た本棚の列は曲線を描いて歪んでいる。冷や汗が吹き出た。首筋に柔らかい感触がする。心臓が、

心臓が。

「やめて!」

中在家は簡単に腕を離した。離れても、暗がりで表情がよく見えない。ぐるぐると目が回る。まともな思考ができない。疑問符ばかりが浮かんで消える。心臓が、煩い、やめてくれ、戻ってくるな。消えろ。顔を覆う。何か望むのは疲れる。痛いのも苦しいのももう嫌だ。これ以上苦しめないで。これ以上心を持っていかないで。どうせ興味ないくせに。

「どうしてこんなことするの」

絞り出した声は掠れて震え、酷い有様だった。怯えを悟られてはならないと授業でやったのに。顔を覆った手をつかまれる。乱暴な仕草だったけれど、それでも右側だった。それから遠慮がちに左手首を取る。中在家はなんだか怒っているようだった。私はまたおびえて小さくなる。咄嗟に目を閉じたら、足払いをかけられて簡単に床に引き倒された。背中を庇われて痛みもない。

「・・・こっちの台詞だ」



「お前、私を好きだといっただろう」

目の前がカッと赤くなる。右手が殆ど自動的に持ち上がって中在家の頬を殴りつける。両目からぼろぼろ涙が零れた。体を起こして自分の体を抱く。

「わ、私は便器じゃないっ!」

中在家は暫く殴られた体制のまま床を向いて固まっていたが、やがて顔をあげて私を見た。まっすぐな目をしていた。あの時の目と違う。こんな目をしらない。怒っている。一目でわかった。半ば反射的にあとずさりしたけれど、すぐに壁に背中がつく。中在家は今度はまったく容赦なしに私の肩を掴んで床に押し付ける。懐から出した縄標を私の顔の真横に突き刺した。酷い音がした。数秒後に部屋の奥から本がなだれおちたのが聞こえた。火傷の痛みに呻く私の耳元で、中在家の地獄の底から湧き上がるような声は言った。

「・・・・何の話をしている」

私の台詞ではないか。もう、なにがなんだかわからない。かなしい。なんなんだろうこのひとは?やさしくもない。自分が振った女を抱き寄せて、怒鳴られて当然なんじゃないのか?なんで私が悪いみたいになっているのだろう?幸せは諦めたじゃないか。正論ぐらい譲ってくれ。逃げ場がない。遂に嗚咽が漏れた。溜息が聞こえた。太い指が私の頬の涙の筋を掬うように辿る。中在家は自分が引き倒した体を丁寧に起こす。私を抱きしめる。頭が中在家の肩に押し付けられる。なんなんだ。中在家が。何の夢なんだ。夢なら覚めろ。覚めたら死んでやる。こんな夢見る程度の諦観しか保てないならこの先の人生、私は生きていけない。もう絶望したくない。痛いのは嫌なんだ。涙も嗚咽もとまらない。なんて情けない生き物なんだろうか、私は。

「・・・嘘だったのか」

中在家は私を抱いたまま、途方に暮れたように言った。首を横に振る。喉が焼けたみたいで、反論の声もまともにでない。中在家の手が私の髪を解く。自害する前に死んでしまいそうだ。心臓はこんなにも容易く戻ってきてしまった。煩い、煩い。滲んだ視界の隅で、中在家の指が私の髪の毛先を梳いていた。

「こんなの、・・・好きな女の子にしかしてはだめでしょう」
「・・・・、本当に、お前は、一体、何の話をしている」
「だって、中在家は、・・・私のこと、好いてはいないでしょう」

収まりかけた涙がまた湧いた。なんでこんなこと自分で言わなければならないのだろうか。というか私ぜんぜん、何もあきらめられていないじゃないか。絶望的だ。私は中在家からからだを離して、自分の袖に目を押し付ける。中在家は、暫く黙ってから、誰がそんなことを言った、と呟いた。

視線をあげると、中在家は疲れきった顔をしている。角度によっては泣きたそうにも見えた。

「私が、どれ程」

知らない。聞いてない。二年もずっとほったらかしていたくせに。自分こそ、私がどのぐらい傷ついたのか、わかっているんだろうか。あの私の人生の哲学は全部無駄だったのか。勘違いだったとでも言うのか。なんて下らない、なんて恥ずかしい。これじゃあ私はただの、悲劇の姫君ぶった、バカおんなじゃない。

「すきだ、

熱の篭った目だった。無関心とは程遠い。私がほしくて、ほしくて、たまらなかった、焦がれ続けた瞳。遅すぎる。最早脱力さえ覚える。たかだか二年、されど二年。わたしたちは次の春には、もう、卒業ではないか。どんだけ奥手なんだよ。バカかよ!体中痛い。うつむくとぼろぼろ涙がこぼれる。はたはたと音を立てて床に落ちる。言い忘れって時差がありすぎるだろう、中在家、どうしろというのだ、今更。おそすぎるよ、という糾弾も、それごとのみこまれる。唇に荒れた感触がする。私の腕を掴む手は、もうどうしても離してはくれなそうだった。






心 の 蔵 を 奪 わ れ る


二年間付き合ってるつもりだった中在家くん・・・2011/02/23