はぼんやりとした微笑を浮かべてどこか遠くの空を眺めていた。濃紺の帳の下りた夜空は重苦しい雨雲に覆われていて変に明るく、時々これが世界の終わりなのだと言わんばかりの雷が、けたたましく響いて、一瞬真昼になったような閃光が走る。光が先なのか音が先なのか、ぼくにはよくわからなかった。ただ雷鳴がすると腹の底が揺れたような感じがして、酷く気分が悪い。そういえば昼から何も食べてない、胃が空になっているのだろうと思う。胃袋を抑えかけたとき暗い部屋に閃光が走り、只でさえ生白い肌が余計に誇張されて、はなんだか紙とインクでできているみたいだった。それがきちんと赤くなったり温度を持ったりすることをぼくは知っていたのに。は床に散らかったままだったスリップを拾い上げて、しわくちゃのそれを奇麗に伸ばして頭から、するりと被る。そしてぼくを焦点の合わないような目で見つめる。

「わたしね、ほんとうは結婚しているの」

もちろん、ぼくはそのことを知っていたから、事実自体には驚かない。不倫して、相手に家庭があることを知らなかったというひとはよくいるけれど、そんなことに気づかないなんてあまりにも迂闊だと思う。気づいてたよ、とぼくは言う。彼女はほほえんだままで頷く。は身体のラインが酷く美しい。薄い腹部、細い腰。夫も子供もいる、というふうにはとても見えない。あの、機能性の欠片もない、か細い指先が、掃除をしたり洗濯をしたり料理をしたりしているなんて、とても信じられないぐらいだ。でもそれは事実で、ぼくのそばにいるときのほうが、彼女に言わせればずっと非現実的な時間なのだろう、と思う。彼女はきっといい母親でいい妻なのだ。

は、スリップの上にカーディガンを着る。ソファーの下のストッキングを拾い上げて、慎重に足を入れる。その光景はなぜだかぼくに、ドガの描いたバレリーナを彷彿とさせた。形のいい、薄い紅色の唇が、歌うようにゆるやかに動く。子供はね、今5歳の男の子がひとりと、三歳の女の子がひとり。二人とも近くの幼稚園に通っているの。うえのこは来年から小学校に入るから、おとといは家族でランドセルを見に行ったのよ。それに、来年には弟か妹ができるからって、とっても喜んで。奇麗な細い声だ。ぼくはテーブルに肘を突いて、うんうんと頷いて、彼女がするすると服を纏っていく姿を眺める。知っていたことを、知っていると知られていたことを、死刑宣告として聞きながら。は、長い髪を手ぐしで調えて、ぼくをじいと見つめた。空が光る、雷が鳴る。空気が揺れる。ごめんなさいね。

ぼくは首を振る。わびることなんかないというふうに。だって僕は気づいていたのだから。はゆっくりとぼくに近づく。ぼくは椅子に座った身体をずらして、の細い腰を抱いた。薄い腹部に耳をつける。ぼくの子供だったり、しないものだろうか?柔い夢だ。に似た女の子ならきっと可愛いだろう。それはなかなか素敵な幻想だ。でもきっとそれはないだろうな、と、気づいている。は現実の世界をきちんと生きている、自律したおんなのひとだから。はぼくの頭を指先でふわふわと撫でた。なんだかまるでぼくが子供みたいだ。実際はその通りで、未だ親の出資で学生をしているぼくと彼女では、何もかもが違うのだろう。ぼくはをこのままここに縛り付けてしまいたいと思うけれど、はその鎖からするりと、殆ど苦労もせずに逃れてしまう術を、いくらだって知っているのだ。「さよならだね」

はぼくの頬を、冷たい指先で包んで、ぼくに視線を合わせて、にこりと笑った。「いい子ね、タカ丸くん」そして言うのだ。ごめんなさいね。そうしてぼくから離れていく。雷はいつのまにかもう鳴りやんで、月がそのうち出つつある。彼女は7時になる前に帰らなければならないのだ。そこで現実生活を営んでいくために。送るよ、と、ぼくが言ったら、彼女は静かに首を振った。黒いハイヒールを履いて、くるりとぼくを振り返る。そうしてカーディガンのポケットからあめ玉をとりだして、ぼくの掌においた。タカ丸くん、いい子。

「さよなら」

は部屋を出ていく。ぼくは手をふったけれど、彼女は二度と振り返りはしなかった。どうしてか、あんなに焦がれた、細い肩が、まるで別人の物のようだと思った。安い金属のドアが閉まる。廊下を歩く、飴を刻むような靴音が響いて消える。いい子だから、お菓子をあげる。ぼくはあめ玉を口につっこんで、そのまま奥歯で噛み砕いた。唸るような悲鳴が勝手に漏れだしていく。月が出始めたのだろうか?


10月31日