甘ったるい匂いで目が覚めた。伏していた頭を上げると引かれたままのブルーのカーテンの隙間から、薄い黄色の朝日が差し込んで虹彩を擽る。鈍い頭の痛みを振り払うように頭を振って周りを見渡すと、碌に使っていない台所からひょこ、と見慣れた女の顔が出てきた。起きたんだ、と独り言のように言う。ずるり、と肩から何か布が落ちた感覚がして見ると、タオルケットが掛かっていた。俺はどうやら勉強の途中でオチたらしい。しかしこの女が入ってきたのにも気付かないとは。つーかいつどっから入ったんだ。ふと時計を見ると11時を回っていたので、時間を尋ねるのはやめておいた。薮蛇になることが目に見えている。

「てめえ、どっから入りやがった」
「窓から」

不法侵入を犯しておきながらそれがどうしたと言わんばかりに平然とは言い、また台所に引っ込んだ。咎めたかったが、どうせ窓を閉め忘れたことを論われるのだろうと思うと気が引ける。は飯の準備をしているらしい。甘ったるい匂いがずっと部屋中に漂っている。なんの匂いだ。痛む関節を鳴らして立ち上がり、取り合えずそのへんのTシャツに着替えようとしたら、女の声が「着替えないで」と言った。顔も出さずにだ。仙蔵もそうだが、たまにこの女、超能力者なんじゃないだろうかと思う瞬間がある。なんとなく恐ろしくて聞けないのだが。
「何でだよ」
と聞いてもは聞こえないふりだ。顔もださねえ。都合の悪いことは聞こえない耳なのだ。反論するのも面倒なので着替えを諦めて、とりあえず洗面所へ行き、顔を洗って歯を磨いた。寝起きの口の中は雑菌が繁殖しているから朝食の前に磨くのよ、というのはがしつこく俺に言いつけたことで、なるほどと思ったのでそれは守っている。
居間に戻るとテーブルにはホットケーキが並んでいた。
俺は非常に腹が立った。朝は飯だろ。俺が飯派であることをは知っている筈で、つまりはわかっていてホットケーキを用意したのだ。俺はパンとかホットケーキとか、ぽそぽそしたもんが嫌いなんだよ。怒らいでか。シロップをぶっかけたホットケーキを切り分けて口に運んでいるを睨みつけ、寝起きで機嫌が悪かったのもあって、「俺は食わねえ」と呟いた。
すぐに後悔することになった。次の瞬間には何故か俺は床に引き倒されていた。は俺の胸にまたがり、シロップを滴るほどぶっかけたホットケーキを口の中に突っ込んで、腹立たしいほど綺麗に微笑んだ。

「おいしい。」

何故この女はこうも猟奇的なのか。疑問系ですらない台詞は俺の背筋を泡立たせた。「おいしい?」ですらなく「おいしいんだよこれは」だ。脅迫である。ここまで開き直られるといっそ清々しさすら感じるから妙なものだ。いつだったか、食満の野郎が居直り強盗のような女だとを揶揄していたのを思い出した。確かに。奴に同意するのは癪だが、中々的を得た評価ではある。

「シロップかけるとぽそぽそしないよ」

は言い、俺の上からどいた。見覚えの無い、恐らく持参したのだろう珈琲ポットからこぽこぽと音を立てて珈琲を2つのカップに注ぐ。確かにぽそぽそはしない。だが女の食い物だと俺は思う。口にモノが入ると、空腹がいっそう際立って、突っ込まれたホットケーキを咀嚼しながら、仕方なくテーブルについた。たまになら、悪くねえ。そう自分を無理矢理納得させて。

朝食が終わると、は流れるような動作で食器を全て片付けて、酷い音を立てながら洗物を始めた。俺はなんとなく手持ち無沙汰で、がいるので勉強を再開する気も起きず、ソファーに座ってぼんやりとテレビを見る。名前を挙げる必要もないぐらいくだらねえ番組。結局ニュースにチャンネルに合わせてリモコンを放る。俺は本格的に疲れているらしい。がいなければ勉強をしていたんだろうが。

ニュースが昨日の巨人対ヤクルト戦をスローで流している頃、はスカートで手を拭きながらのそのそと居間に現れた。「手は手拭で拭け」と俺が言うとは目を瞬いて、俺の膝の上に下品に跨り、俺の髪の毛で手を拭いた。この野郎。

「ふざけんじゃねえ」
「ごめんね」

は腰を浮かして俺をまたも引き倒した。一日で二度も女に引き倒される己に情けなさを感じつつ、お前それは謝りながらやることかとも思う。の言動と行動が噛み合わないことはわりといつものことなのだが。本能のまま生きすぎだろう。は俺に目線を合わせるように寝転がり、首にすがり付いてくる。ソファーは当然一人用なので狭い。床にずり落ちそうなの腰を仕方なく引き寄せてやるとふとテレビの横に掛かったカレンダーに目が留まった。5月19日。赤の、可愛らしいとは言い難いのけばけばしい癖字で、12:00〜上野動物園と書いてある。脳は視界の必要な情報を選別して伝えると言うが。今日は5月19日だった。

そういえばは一ヶ月ぐらい前から動物園にいくのだと言っていた。すっかり忘れていた。それなりの罪悪感が胸に広がる前に、妙なことに気付いた。待ち合わせは12時だったのだ。テレビの中でアナウンサーがじゅうにじになりました、と明確な口調でいい、画面が切り替わる。

「・・・動物園はいいのか」
「絶対忘れてると思って来た。覚えていたの?」
「・・・悪かった」
「いいよもう、別に動物園がよかったわけじゃないし」
「なんなんだよ」

は俺の肩から頭を放し、憮然とした顔をした。

「実はわたし5月19日が誕生日なんだ。知らなかった?五年めだけど」
「・・・・・・・・・・・ああ・・・・・・・・悪い」
「どうせまたやる癖に。文次郎となら動物園でデートより家でセックスのほうが構ってもらえていいね」

つーかお前ほんと下品だな、と言い返す前に口が塞がれてTシャツが捲りあげられた。着替えるなってこういうことか。





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