蔵の中には何年も空気を入れ替えていないような饐えた匂いが立ち込めていて、それにとても暗かった。あんまりにも暗くて、闇というよりはまるで瞼に紙でもはられたみたいだと綾部は思う。そんなところにきっともうずっと放り込まれていたのだろう、蔵の主は忍の者の音の無い気配も敏感に察知したらしく、びくりと身体を震わせて振り向いた。綾部は空気が揺れるのを感じながら、いい加減鬱陶しくなって、手元の提灯に火を灯した。しゅ、と短い音がした。それから提灯を床に置いて、女の前に腰を下ろす。女は眩しそうに目を細めて、白い手を眼前に翳した。強張っていた口元が、綾部の姿を確認するなり微かに安心したように緩む。

「何よあなた、また来たの?」
「来たよ」
「ふうん。別にいいけど。どうせ暇だから。でも貴方が叔父上様の家来に捕まって殺されても、わたしの所為じゃないわよ」


それを聞くと、綾部は普段あまり表情の変わらない顔を珍しく綻ばせた。微笑んだというよりは、苦笑が漏れたというほうが近い。覆面の結び目を緩めて引き降ろしながら、自分を捕らえて殺せるほどの奴なら、六度も敵方の忍びの侵入をまんまと許すような失態を侵したりはしないだろう、と思う。綾部が笑みを零したのを、女は怪訝そうに見つめて首をかしげた。

綾部が女に会うのは六度目だった。つまり綾部は五回も敵の城に然したる忍務もなく忍び込んだわけである。ただ彼女に会うために。雇い主にばれたら激怒されることであろうが、そんなことは綾部の頭には無かった。何が自分にこんなことをさせるのか、綾部はずっとそればかりを考えていたので。ただ単に暇つぶしと片付けるには手間を掛けすぎているとを綾部は自覚していた。奇妙な間柄だ。共通の話題等なかったが、それでも二人は会うたびに色々な話をする。ロクデナシの叔父の話。綾部の学生時代の話。とんでもなく狭い暗闇だけの世界の話。

女の名前はといった。本来なら蔵の中に押し込められて暮らしているような身分の人間ではない。もっとも、そんな身分を持っていたからこそ蔵の中に押し込められる羽目になったともいえるけれど。は綾部の雇い主と敵対している大名の一人娘だったが、父親が死んでから分家の叔父に疎まれて、もう1年近く禄に日も当たらない蔵に押し込められているらしい、と、綾部は人づてに聞いた。いつだったか、此処に入ってどれくらいになるの、という綾部の問いに、は鼻を鳴らして「永遠」と答えた。延々だったかもしれない。確かに、と綾部は思う。こんなところに閉じ込められて、気が狂わないだけでも上等なものだ。

もう長いこと締め切った蔵で生活している所為か、蝋燭の黄色い光の下で見るその肌は異様なまでに白い。射干玉色の髪は長く伸びて目に掛かっていたが、花貌であることに間違いは無かった。どこの武将も欲しがると思うんだけどね、と綾部は口の中でひとりごちる。 は無遠慮な綾部の視線を気にした風も無く、闇の中から布袋を取り出して綾部に差し出した。

「金平糖よ。食べる?」
「豪華だね」
「侍女がくすねてきてくれたの。私がよほど気の毒なんでしょう」

綾部は袋の中から一粒金平糖を拾い上げて口に含んだ。甘い砂糖の味が広がる。舌の上で緩やかに解けていく塊を転がしながら、胡坐をかいた膝を指で突く。は落ちつかなそうに身を捩った。
綾部は違和感を覚えて首をかしげた。

「何かあったの」

は暫く黙って蝋燭の炎を寄る辺なさげに見つめていたが、やがて何か決意したかのように顔をあげて言った。闇が揺れる。

「結婚するらしいの」
「誰が」
「わたしがよ」


綾部の思考回路は停止した。は幽閉の身である。このまま永劫蔵に閉じ込められているのだと思っていた、そんなわけもないのに。どこの武将も欲しがるに違いないのだ。彼がそう考えたとおり。綾部の口は殆ど自動的によかったね、といいそうになった。よかったに決まってる、どんな場所だって、ここよりはましだろう。しかしは何故だか眉を下げていたので、彼はすんでのところで口をつぐんだ。英断であった。

「嫌なの?」
「・・・・侍女が教えてくれたの。私より40歳も年上の好色な暴君ですって」


あのひとって本当に本気で私を幸せにしたくないんでしょうね。は溜息をついてそう呟いて、それからちらりと綾部を見上げた。

「それに」

続けようとしたの唇を綾部の人差し指が伸びて遮った。緩めていた頭巾を片手でくるりと締めなおして、の細い手首を掴む。

「なに、」
、わたしと一緒に来る?」

はびくりと肩を震わせて固まった。みるみるうちに顔が赤らんでいく。人差し指で唇から薄紅色の頬を撫でて、綾部は彼にしては珍しく、早口で捲くし立てるように急いで言った。「料理なんかは出てこないけれど」どうしてそんな台詞が出てくるのか、自分でも不思議だと彼は思った。

「私が、つくる」

は微かな声で呟いてから、小さく頷いた。外で誰かの足音がした。おやまあいい加減気付かれたか。綾部は頭巾の下の唇を歪めて微笑んで、を抱えて地面を蹴った。二人で世界を探しに行こう、



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