思い出さなくていいと、食満は言った。



食満と私は高校の入学式の日に出会った。それなりに背が高く、それなりに眉目秀麗な男は、集団の中で否応なく目を引く。彼のことを格好いいと言っている、女の子たちの密かな声を聞いていた。私はというと、その日丁度好きな作家の七年ぶりの新作の発売日で、入学式や新しい学友のこと等そっちのけで、そのことばかり考えていたように思う。式が終わり、振り分けられた教室で簡単な顔合わせを行い、赤外線のアドレス交換もそこそこ、教室を駆け出した私の手首を、彼が掴んだ。私は驚いて、それからすこし腹を立てて、――何しろ急いでいたから――振り返った瞬間、時を忘れた。それは行き成り手首を掴んでくるような無粋な初対面の男が泣き出しそうな、あまりにも必死な顔をしていたからでもあり、何より、得体の知れない記憶の断片の氾濫に、動揺していたからでもあった。


その日から私と食満は友人になった。食満は気のいい男だった。少し強面だけれど、感情は細やかで、人の思いに聡い。誰にでも公平だったから、誰とでも仲良くなった。しかし、どんなに人に囲まれていても、誰といても、時々、酷く寂しげな、遠くを見るような目をする。私は食満に何故そんなにも孤独なのかと尋ねたことがある。食満は苦笑した。そして思い出さなくていいが、と言ってから、語りだした。


室町の終わりだから、五百年ぐらい前の話らしい。彼はそのときも食満留三郎という、今と同じ名前を持って生きていた。武家の生まれだったけれど、三男だったから、一人ぐらい忍びの者がいるのもわるくないと、忍術学園という、忍者を育成する学校にいれられ、そこで十歳から十五歳までの時間を過ごしたという。私はそのとき同じ学園の、くの一教室という女子部に籍を置いていたが、破天荒な女で、同世代の男を平気で蹴っ飛ばすようなお転婆だったと彼は言い、笑った。


初めてその話を聞いたとき、私はさすがに半信半疑だった。リインカーネーション、ってやつ?と冗談交じりに言うと、食満はちょっと眉をあげて、ああ、多分、と軽く頷いた。
「じゃあ、私たち運命の出会いってわけ?」
「そうかもな」
食満の目は優しげだった。











私はそれからも食満に前世の色んな話を聞いた。同じクラスで仲が良かったという、不運な保健委員長の話、隣のクラスの無口な図書委員長と一日百キロ近く奔っていたんじゃないかという体育委員長の話、喧嘩友達の会計委員長と、頭が良いのにどこか抜けた作法委員長のことなんか。聞いているうちに、私は段々と自分の中の、私ではない私の記憶を、自覚しないわけにはいかなくなった。しかしそれでも、私は何も知りはしなかった。嘗ての私の記憶を見ても、懐かしいとは感じない。そこにあるのは他人のアルバムを繰り返し見ているような奇妙な感覚だった。食満が寂しそうに夕焼けを仰ぐとき、胸が締め付けられたのは、単に同情にすぎない、今の私の感情。


私は段々と明瞭なアルバムを手に入れつつあった。食満留三郎のこと、善法寺伊作のこと、中在家長次のこと、七松小平太のこと、立花仙蔵のこと、潮江文次郎のこと。しかし私が記憶を手繰れば手繰るほど、食満はそれについて口を閉ざすようになった。私は、焦れていた。何に焦れているのかもわからない。ただ脳裏に浮んでくる幻灯機の虚像のような記憶をもっと見たくて、もっと知りたくて、いつのまにか。











、やめろ」

「やめてくれ」

食満は言った。迷いと自責の入り混じった、砂を噛むような声。耳が食満の胸に押し付けられているので、脳に直接響く。食満の指先が私の背中と頭に食い込んで、じりじりと痛んだ。押し付けられた胸板は焼けるような熱を想っていたのに、予想に反して熱くも冷たくもなく、ただ生きていることだけがわかる温度だった。心臓の鼓動がすこし早い。

「何も思い出さなくていい。多分全部夢だったんだ。いつまでも覚えてる俺がおかしい。お前が、わざわざ痛い思いなんかすんな」


ひとことひとこと噛締めるように食満は言った。それから、小さく、蚊の鳴くような声で、すまない、と。私は食満が、私には自分がいないほうがいいんじゃないかと思っていることを、もうずっと前から気付いていたから、ゆるゆると首を振った。頭を抑える腕が緩む。そっと顔をあげると食満の目の中に私がいるのが見えた。何かがはじけるような音がした。





わたし?





食満はきつく目を閉じた。緩んだ拘束はまた強くなる。さっきよりも。窒息しそうなほどだ。私は食満の目の中にいる自分が見たかった。あれは私だ。間違いなく、食満と一緒に、善法寺や中在家や七松や潮江や立花と一緒にいた私だ。触れたかった。私はこの記憶に色をつけたかったのだ。それがどんなにつらいものでも構わない。誰かを殺していても見捨てていてもいい。ただ私は食満をどう想っていたんだろう。食満はわたしを、


どう想っていたのだろう。





涙が零れた。溢れ出すもどかしさが胸を詰らせる。食満の目を見たい。声が聞きたい。それでも彼は、いつまでも私を抱き締めるだけで、顔をあげることも、話をすることもないのだった。





(報われない)