T.
己が完璧主義者であることを自覚はしていたが、それでも彼女ほどではないだろう、と白石は思っていた。四天宝寺中男子テニス部が誇る敏腕マネージャー、に対する彼の正直な感情である。とは言っても、彼女の容姿が人並みはずれて優れているとか、成績が学年一の秀才であるとか、そういう話ではない。は可愛らしい顔立ちをしてはいたが、過酷なマネージャー業に追われ手入れに気を使う暇もない肌と髪は日焼けして痛んでいて、美形というよりは十人並みといったほうがより正確な形容だったし、成績は良かったけれど小春に敵うほどではなく、定期テストの順位はいつも大体白石と同じか少し下ぐらいのものだった。彼が問題にしているのは人格的な話だ。彼女は常に公明正大で、誰にでも平等に優しく、自身の怒りや悲しみを露にするということがなかった。聖人君子だと揶揄されることも度々だ。少なくとも四天宝寺中の生徒の知る限りでは、彼女はけして嘘を吐かず、責任感が強く、公平で、意思が強く、間違わなかった。どんなときでも正しかった。彼はそういう彼女の誠実さを、この上ない尊敬を以って愛した。無論のこと、友人として。姉と妹に挟まれて育った白石は、女性特有の論理性の欠如を嫌と言うほど思い知っていたが、にそういう面を見出したことは一度もなかった。そのくせ同性の友人にはけしてできないだろう、細やかな気遣いを当たり前のようにする。またの誠実さはけして押し付けがましいものではなかった。真面目ではあったがノリがよく、友人も多い。

白石にとって、は常にパーフェクトな、文句のつけようの無い友だった。それはけして恋愛に転じようの無い、純粋な友情であるように、彼には思えた。一、二年と同じクラスで二人はよく行動を共にていて、邪推されることも屡だったが、白石にはを異性として意識したことは一度もなく、揶揄うように追及する同級生たちの言葉は酷く荒唐無稽に聞こえた。思わず失笑を漏らしてしまったことも一度や二度ではない。という人間は彼にとって最高の友人足りえたが、恋愛対象としては、寧ろ彼の好みの対極にある女だったのである。白石は、異性としてなら、気の弱い、「女の子っぽい女の子」を好ましく思う。男子と話すと顔を赤らめるような、清純で初心で、どこか抜けていて、ちょっとやきもち焼きの女の子。彼の理想とを比べて見ても、類似点を見つけるほうが難しい。はけして物怖じしなかった。頼まれれば男子生徒同士の喧嘩の仲裁すらしてのける。まして嫉妬など、彼女のひととなりから最も遠い場所に位置する感情のように白石には思えた。彼女が何かに嫉妬する光景など到底思い浮かべることができなかった。血の滲むような努力の末に望むものが手に入らなかったとしても、は絶対に怒ったり、嘆いたりしないのだ。あの静かな笑顔で、眉を寄せて肩をすくめて、しょうがないなあと笑うに違いない。自分に対しては一切の甘さを認めないのに、他人にはいつも優しかった。見返りを求めなかった。理想の友人、だった。







U.
二年の秋のことである。白石は思いの外長引いた委員会のあと、鞄を取りに教室へと戻った。折り悪く教室では、クラスでも目立つ、派手なタイプの女子数名が、に白石との関係を問い詰めているところだった。問い詰めている、というと語弊があるかもしれない、少なくとも彼 女らはに対して言葉を選んでいたから。しかし、笑いながらも緩やかに首を絞めるような、逃亡を許さない空気を、ドア越しにも白石は敏感に見て取った。人気のない廊下で教室から漏れてくる甲高い女の声が自分の名前を紡ぐのを聞きな がら、胃が締め付けられるような感触がした。に申し訳なく思うが、ここで出て行くのも更に話がこじれそうな気もする。かといって立ち去るわけにもいかず、ドアの前に立ち尽くしたまま、彼は逡巡した。

「マネージャーとか大変やろー?」
「まあね。でも、テニス好きだから」
「せやったら何で女テニ入らんかったん?」
「小六で肩壊したの。高校入ったらまたやるかも」
「へぇー。でもウチのテニス部イケメンばっかりやし、ええなー」
「誰かと付き合うたりせえへんの?さん」
「白石とめっちゃ仲ええよなあ」
「なあ、ほんまは好きなんとちゃうん?」
「うちの友達がなあ、白石のこと好きやねん。ほんまのこと教えてくれへん?」


聞きながら、無性に腹が立った。彼女らの中の誰が、使いもしない男子トイレの掃除をして、汗臭いユニフォームの山を洗濯して、炎天下の中コート整備して審判やってスコアつけてコート周りの草毟って、そんなくそつまらん雑用を毎日毎日できるというのだろう。白石は殆ど爆発寸前に苛ついて、後先考えずに引き戸に手をかけた。次の瞬間の台詞が聞こえてこなければそのまま開けて中に入っていただろう。

「そうね。好きよ」

はにこにこと笑ったまま、特にトーンを変えることもなく、非常に素直に爆弾を投下した。好きなおかずを聞かれて、そうね。肉じゃが好きよ、と返すような自然さで。教室の空気が凍った。白石も凍った。締め付けられるようだった胃のあたりが、さぁっと冷えていくのを彼は感じた。何を思うよりも前に、勝手に口から裏切るんか、という縋るような声が漏れて、誰にも拾われずに消えた。俺ら友達やったやろ。それからの言葉が、友達として、と続くのではないだろうかと期待した。しかしそれは報われることはなく、かわりに耳の痛くなるような沈黙が耳を刺した。白石は打ちひしがれた。どうしろというのだろうか。彼が異例の二年生部長に抜擢されてごたついた部内は、夏の大会も終り、落ち着きつつあった。立海に完敗した痛みもゆるやかにだが、薄くなっていった。こんなときに、と彼は思った。いつも傍で支えてくれた、「大事な友達」であるを白石はどうしても失いたくなかった。
「はは」
白石の苦悩など微塵も知らず、ドアの向こうのは軽やかに笑った。何がおかしいねん、と低くなった女の声が、白石の気持ちを代弁するように、非難がましく彼女を追及する 。傍に居た女の肩を気安げに叩きながら、そんなに気にしないでよ、とは至って明るく言った。
「こんなの気の迷いみたいなものだ から。あんな人傍にいたら誰でも好きになるでしょう」
「それは・・・そやけど」
「私彼とは友達でいたいのよね。だから大丈夫、すぐ忘れるわ」

はそう続けて、ふと顔を上げた。その瞬間、ドアの前に立つ白石と、目がかち合った。白石は狼狽した。まずいと思って思わず身を引いたが、そんな白石を見ても、はただ少し驚いたように、微かに目を見開いただけだった。あ、虫がいる、というときと同じ顔だった。そして彼に向かって薄く微笑んでから、自分を取り囲んでいる女子に向かう。
「もう行っていいかしら」
納得いかなそうにしながらも、言われた女子は道をあけた。白石は咄嗟に身体をずらして壁に隠れた。話だけが聞こえた。
「・・・白石がさんのこと好きになるかもしれんやろ」
それを聞いたは殆ど失笑のような短い笑い声を零して、その疑念を一刀両断した。
「それは絶対無いわよ。だって白石っておとなしくて可愛い子くて男の子苦手で告白なんてできない、みたいな清純な子が好きなんだから」
俺のことよくわかっとるわぁ、と白石は状況も忘れて感嘆した。ドアを 引き開ける音がして、が教室から出てくる。手には白石の鞄を持っている。にやりとした笑いを浮かべて鞄を差し出しながら、彼女は揶揄うように言う。
「立ち聞きとは趣味が悪いわね白石くん」
自分を見上げる目が楽しそうなのを見て、白石は内心ほっとしながら溜息を吐いた。
「・・・しゃあないやろ。どないせえっちゅうねん。俺かてめっちゃ気まずいわ」
「まあまあ、お気の毒さま」
はからから笑うとくるりと踵を返して、彼から三歩前を軽やかに歩きだす。白石は彼女に続きながら、どうしようかと考えて、結局黙殺を選んだ。友達でいたい、と言ってくれた彼女の言葉を信じた。は嘘を吐いたことなどなかったから、忘れるという言葉もきっと本当だろうと彼は思った。深い気持ちではないに違いない。湧き上がる 疑念や不安を全て押さえ込んで白石は自分の信じたいものを信じることに決めたのだった。尤も、無理をする間でもなく、疑念も不安も長続きはしなかった。それまでとそれからで、の態度はまったく変わらなかったのである。







V.
彼女は相変わらず白石にとって最高の仲間で、友人であり続けた。白石はとそれからも幾度となく二人きりの時間を過ごしたけれど、自分たちが異性であると思い知らされるようなことは一度もなかった。傍目に見たってあまりにもいつも通りで、 暫くの間流れた、「は白石が好き」、という噂は、七十五日も続かずに掻き消えてしまった。一度はもう無理かもしれないと思った彼と彼女の友情は、あっさり持ち直してしまった。見事と言う他なかった。彼女は完璧に自分の言葉を守った。あの教室でのことなんか、まるでなかったみたいに、は白石を友人のひとりとして扱った。マネージャーとして何よりもテニス部を優先したが、白石個人を特別に優先するということはけしてしなかった。いつのまにか白石は、彼女が自分を好きだなんてことは記憶の片隅に追いやって、特に気にもならなくなった。彼はとならば一生友人でいられるだろう、と一層強く信じた。二年の冬、他クラスの保健委員の女子とに付き合いだしたとき、白石は躊躇いもなくと謙也に相談した。 は謙也と同じように、否、それ以上に親身になって彼の相談に乗った。彼女は白石の恋を、誰より盛大に祝福した。白石の彼女はにとても懐いて、彼はそれを内心とても喜んだ。頼られる友を、誇らしく思った。三年にあがって暫くして、白石が件の恋人との破局を迎えると、盛大なショックを受け、酷く落ち込んだ。白石本人よりもへこんでいるように見えたが、白石を慰めることも忘れなかったし、相手の彼女への気配りもうまいものだった。それは、絶対無二の完璧な友情だった。がそうありたいと言ったとおりに。白石がそう望んだとおりに、ふたりは友達だった。


本当にそう思っていたのだ。








W.
三年の夏、四天宝寺中男子テニス部は全国大会準決勝で敗退し、白石たちは程なくして部活を引退した。白石もも推薦ですぐ隣の四天宝寺高校への進学が決まって暇はあったが、部には新たに一年のマネージャーが入り、二年生の財前が部長に就任し、早く新たな環境に慣れるようにと、部活に出ることは遠慮していた。彼らを取り巻く空気は変わった。部活に集中したいから、と言って断っていた交際の申し込みが、怒涛のように白石を襲った。「呼び出しお断りの札、首から下げとくんはどうですか、」という財前の提案を呑みそうになるぐらいだった。白石は教室と保健室以外の場所に出ることが少なくなり、同時にクラスの違うと顔をあわせる回数も減った。

隣にいることが無くなって、彼は変化に気づかなかった。

「なんやちゃん、キレーになったなあ」

初めにそう言ったのは遠山金太郎だった。受験勉強の息抜きにと部活の後輩たちが企画してくれた、たこ焼パーティーの席での台詞である。白石が後輩の思わぬ言葉にぽかんとしていると、隣でと同じクラスの千歳がにこにこしながらそれに同意した。
「たいぎゃあむぞらしかち、クラスのヤツも言うとったばい」
「やばいわねそれ。モテ期かしら」
「調子にのらんほうがええと思いますよ先輩」
なによー、と、笑って財前のわき腹に肘鉄を入れたを見ながら、白石は奇妙に身体が冷えるのを感じた。改めてそう言われれば、が急速に垢抜けていることに彼は気付かされた。肌は白くなり、いつも御座なりに一本に結ばれていた髪は綺麗におろされて、荒れ放題だった手には今や染みのひとつも無い。彼女の話題はそれっきりで喧騒に流れて立ち消えになり、は相変わらず可愛がられもしないが、一目置かれてはいるマネージャーとして振舞い、周りの誰もがそう扱った。それは見慣れた仲間の姿だった。ちょっと綺麗になるぐらいええやないか、と白石は小さく呟いた。当たり前のことだ。自分がそう見なかっただけで、彼女だって女の子なのだから。もいつか恋人を見つけて、女として幸せになるに違いないのだ。白石は、自分がいつかに、結婚式には呼んでやるとふざけて言ったのを思い出した。彼女もきっと自分を結婚式に呼ぶのだろう。友人代表のスピーチをしてやろうと彼は思った。いくら考えても文面は一行も思い浮かばなかった。







X.
モテ期到来かしら、とふざけて言ったの言葉は現実になった。それまで全く見向きもされていなかったのに、彼女に告白する男子生徒はどんどん増えた。は粗方断っていたが、押し切られて日に何度かメールをするような関係の男も一人か二人はいるようだった。白石はと顔をあわせる度、正体不明の苛立ちを感じるようになった。気付かない振りにも限界がある。彼の望みを置き去りにして、決定打は打たれる。否、本当はとっくの昔に打たれていたのかもしれなかった。

その日彼はが校庭の端で、男子生徒に誘われているのを見た。以前、彼女に振られた男だった。白石も何度か話をしたことがある。懲りんやっちゃな、と彼は口の中で呟いた。は、は微笑んだまま軽く手を上げて、男の誘いをにべも無く断った。白石は窓からその様子を眺めて、肩を落として去っていく男の背中を見ながら、歪んだ笑みが沸きあがるのを止められなかった。しかしそれは、自ら諌めるまでもなく、長くは続かなかった。男の去った校庭にぽつんとひとり立ち尽くしたの表情を彼は生涯忘れないだろう。それは雷のような激しい衝撃をもって白石を打った。彼女の、部活をしていたころよりもずっと白くなった肌は、首から耳まで赤かった。恥ずかしそうに両手で顔を覆い、小さく息を整える。小動物のようだった。彼は叫び出しそうになった。彼女のそんな顔は知らなかった、この三年間ずっとずっと隣りにいたのに。奥歯を噛み締める。あの時教室で、白石に自分の想いを聞かれたときだって、赤面一つしなかった。涙も流さなかったし、白石を責めたりもしなかった。が動揺するなんて、知らなかった!

動揺と同時に彼はあの教室で聞いた、彼女の台詞を思い出した。

好きよ。

もう彼女は自分への想い等忘れただろうか。が誰かの誘いを断ったと聞く度、その疑問は大きく膨らんで彼の胸のうちを占めた。








Y.
鬱々とした日々が続いた。あれから数日後、奇しくも彼はまた、が女子数名と教室で話をしている場に居合わせた。そのときの話題は白石のことではなかったし、相手も大人しそうな普通の女の子達だったのに、彼は足に根が生えたようにその場から動けなくなった。ドアに手をかけたまま、白石は漏れ聞こえる彼女たちの声に息を殺して耳を傾けた。
「二人で会うて?うわー。デートやん!」
「そんな大層なものではないけれどね」
「隅におけへんわあ・・・まったく・・で、何処行くん?いつ?」
「買い物付き合うだけよ。来週の日曜。25日。」

彼はひとり踵を返した。上履きの護謨が廊下の床を擦るぎゅ、という音がやけに大きく響いた。







Z.
日曜日、天気は雨だった。白石は部室の大掃除をしていた。財前や他の後輩たちは手伝いを申し出たが、最後だから、を理由にして三年だけでと断ったのだ。当の三年は受験の準備で忙しく、任意参加としたら誰一人来なかった。わかっていたことだ。仕方が無いし、構わない。彼はところどころへこんだロッカーを拭き終わると、古いアルバムの整理を始めた。三年間のことが思い出されて、百年プリントと言いながら着実に色褪せている写真たちをなぞりながら、薄く笑った。時間は 三時を過ぎかけていた。そろそろやなあ、と彼は息だけで呟く。それから三秒ほどして、部室のドアが開いた。

「ちっす・・・って・・・あら・・・?白石だけなの?」
「どいつもこいつも進路が決まらんて」
「小春は?」
「ユウジが泣いて頼んで一緒に勉強会やて」
「何よそれ、デートじゃない・・・。」
そう言って、はあきれたように髪を掻きあげた。急いで家に帰ってから来たのだろう、薄く化粧をしている。白石は立ち上がっての傍により、制服のスカーフがよれているのを、ひっぱって直した。は礼を言い、それからはっとなって、思い出したように白石を睨んだ。
「連絡が遅い。当日連絡はないでしょ!もっと早く言ってくれれば早く来れたのに」
「それはすまんかったわ。けど任意って言うたやろ?」
「私はマネージャーなの。部室の大掃除ほっぽらかせるわけないでしょ」
は荷物を机の上に置いた。差し入れらしい菓子とジュースが入っているのが見えた。マネージャー の鑑やなあと白石は思わず呟く。は無視して、白石が引っ張り出したアルバムを手に取り、懐かしそうに目を細めた。引退って寂しいわね、と心細げに言う彼女に、せやなあ、と白石は相槌を打った。
「毎日暇よ」
「今日は忙しかったやん」
「特別よ。デートだったの・・・。もう完璧失敗だったけど。十一時集合で二時で帰るとか有り得ないし・・・」
うらむわよ、と言いながら、顔を蒼くして溜息を吐くを見て、白石は湧き上がってくる歓喜を抑え切れなかった。思わず口元を押さえる。何もかもパーフェクトに、狙い通りに行き過ぎて、笑えてしまった。は誠実な人間なのだ。どんな用事があろうとも、部活だといえばそれを最優先する。それだけは、自分の知る彼女だった。成功の喜びが先立って、罪悪感を感じる間も無い。恋も愛も、もうよくわからなかった。ただこの女に別の男の手が触るのかと思うと、気が狂いそうなほど腹が立つ。煩い心臓を押さえながら、見た目だけ穏やかな笑みを白石は浮かべた。

ほんのちょっとでも傷ついた顔をしてくれたらいいと、彼は願った。

「そらすまんことしたわ。ゆっくりしてきてもよかったんやけど」
「どうもね。次は絶対そうさせてもらうわ。」

は相変わらず完全無欠の友人の態度で、形だけ腹立たしげに結んだ唇を、引き上げて皮肉っぽく笑った 。白い頬には赤みの影すらない。ごみついとるで、言いながら、の髪に手を伸ばして、自分の中に暗い感情が渦巻くのを彼は感じた。



なあ、俺のこと、もう好きとちゃうんか。




2011/06/15
アニメイトに金ちゃんのグッズが殆どなく白石ばっかりだったことに寄せて