徒労の対価





 図書室の戸があいて、長身が音もなく隙間に身を滑らせてくる。ふいに視線のかち合った切長の瞳が見開かれると、柳くんは、存外幼い顔をしているのだとわかった。普段はとり澄まして物静かなふりをしているから、きっと誰もが彼を周りの同級生より大人びた、冷静で優雅な人間であると思うのだろう。けれども今の柳くんときたら、呆然とした面持ちで、切れ長の目を皿のようにしながら、髪を切ったのか、と小さく、当たり前のことを問うのだった。見たままを受け止められずに問いかけるなんて、いかにも柳くんらしくもない。嘲笑して、「開口一番それ」と私は肩を竦めた。

「もっと他に言うことあるでしょう」

 たしかに私は髪を切った。
 脱色して作った美しくもない金髪を、塗りつぶすように黒く染め直し、痛んだ長い毛をすべて絶ち落とした。金色のゆるく縮れた髪が、美容室の瀟洒な床に散乱していた。まるで野生の動物の死骸のように見えた。
 真新しい、黒々とした髪は、頭の形にあわせて丸く切り揃えた。
 卒業を目前にして、この一年一度も袖を通さないでいた、レースだのボタンだのの装飾のない、「まともな」立海大附属中の女子生徒の制服を着て、紺色の、ポイント刺繍すら無い靴下を履いた。缶バッチもストラップもひとつもついていない鞄を持って、磨き上げた茶色のローファーをおろした。
 白いだけの肌、薄いだけの唇に、化粧を施さなかった。
 ひとつひとつ、風紀委員会のチェック項目を思い出しながら、つぶさに自分を点検した。玄関の鏡には、どこにでもいる、鉛筆で書いた白い円のような女の子が、所在無げに写っていた。
 これが本当の、真田弦一郎が云う、風紀的に正しい私の姿だった。
 だから、きっと柳くんの前にも、どこにでもいる、鉛筆で書いた白い丸のような女が今、座っているのだろう。
 私に鼻で笑われた柳くんは、居住まいを正すみたいに、視線をすっと鋭くして、私の真向かいの椅子を引くと、静かな動作で腰を下ろした。

「そうだな。似合っている」

 それは、礼儀としてもっと他に言うべきことを探し当てたというだけで、全く人を褒めるような口調ではないような気がした。つっけんどんな賞賛だ。乾いた笑いが漏れる。

「柳くんに値踏みされてもなあ」
「捻くれたところはいつも通りのようだ」
「そりゃあ、中身は変わらないでしょう」

 柳くんもずっとそう言ってきたでしょう、と私は言った。
 どんなに着飾って、どんなに目立って、どんなに奇抜に振る舞っても、すべては無駄なのだと、この人が私に諭してくれたのだった。
 どれだけ近づこうと足掻いたところで、木目のように私の奥深くに刻まれた凡庸さは動かない。中身を変えることなどできはしない。だから、真田弦一郎が私を見ることなどないのだ、と。

「柳くんの言うことは正しかったよ」

そう。毎日身なりを正すようにと私を「指導」した真田弦一郎は、髪を切り、制服を正し、そのへんの白い丸になったもとの私を、私と気づきはしなかったのだった。
 朝、服装点検で、真田はいつもどおりに、校門の前で厳しい顔をして腕を組んで立っていた。私の履いた学校指定のローファー、紺の靴下、染みの一つもない制服、切り揃えられた黒髪、白い素肌を、つぶさに点検し、項目を潰した。そして最後に、名前とクラスは、と低い声が問うた。私は賭けに負けたわけだ。
 失恋だなあ、と思った。
 ずっと、バインダーを持つ、長くて硬そうな指に触れてみたかった。髪を染めるときも、唇を塗るときも、制服にレースを縫い付けていたときも、ずっとそれだけを考えていたような気がする。きわめて効率の悪い、ばかな話だった。でも私にはそれしか術がなかった。泣きたいんだか、笑いたいんだかわからなくて、ただ真田を見上げて、大きく息を吸った。目の前の精悍な瞳が見開かれて、私が映っていた。綺麗だった。
 恋をしていた、と思った。

「校門前で弦一郎に大告白をした女子生徒がいたと聞いたが、お前か?」

 さすが参謀と呼ばれるだけのことはあって、校内の情報が早い。隠し立てする意味もないので等閑に頷いて、まあね、と笑っておいた。柳くんは少し黙って、それからひそやかな声で、「何と言った」と尋ねた。野次馬根性だろうか。この男と恋愛話をするなんて、つくづくのらしくなさに、なんだかおかしくなってしまう。

「当ててみて。得意でしょう?そういうの」
「こればかりは見当もつかない」

 白旗をあげるかのような、あっさりとした物言いだった。机の上に手を組んで、長い指をどこか落ち着かなそうに組み替えている。お得意のデータはないの、と意地悪く尋ねれば、少し困ったように、そもそも今日のお前の行動がデータにない、と言った。私はなんだか、それが少し嬉しかった。

「『ずっと好きでした、付き合ってください』」

 月並みでしょう、と茶化しても、柳くんは笑ったりはしなかった。凪いだ声が「そうか」とただ相槌を打って、私の方が耐え難い気がして、机に頭を突っ伏して誤魔化す。
「他に言うことないの?」
 そうだな、と柳くんは言い、間を置いてから、小さく吐息した。
「散々、絡め手を使っておいて最後がそれとは」
 予想のつかない行動をする。そう言って、柳くんは机の上に投げ出したままの私の頭、真っ黒く、短い髪の毛先を掬った。常なら叩き落とすところなのに、労われているような気がして、動く気にならない。自棄になっただけだけ、と言ったのは、本心だったのに、小さく掠れていて強がる子供の声みたいに響いた。

「真田、さっきの柳くんみたいに、皿みたいに目を大きくして」
「うん」
「じわじわ赤くなってさあ」
「うん」
「それで、「話をしたこともないのにけしからん」、ってさ」
「そうか」

 柳くんは頷いた後、私の髪を掬っていた指をいちど引っ込めて、遠慮がちに「触れてもいいか」と今更尋ねた。もう触ってたじゃん、と呆れて返すと、ありえないほど素直に、「すまない」なんて言う。髪の毛は死んだ細胞だから、とでも言いそうなのに、調子が狂って「いいよ」と笑ってしまう。
 大きな手のひらが、私の頭を撫でた。あたたかかった。野良猫にでもなったような気分だった。ちっとも優しくない人だったのに、その手つきは丁寧で、労られているとわかった。

「呆れるほど弦一郎らしいな」

 そうだね、と私は応えた。それしか言えなかった。何から何まで予想通りだ、真田弦一郎。馬鹿みたいに真面目で真っ直ぐで、前しか見てなくて、路傍の私になど、気づいてはくれない。けれども、そういうところが好きだったから、はなから勝てる見込みのない恋だった。
 柳くんの手は、まるで機械みたいに精密に、私の髪を整えるように撫でている。「綺麗な髪だ」なんて言うから、驚いて息を呑む。この人は、他人に優しくするときは、こんな風になるのか。居心地の悪ささえ感じて、金が似合ってなかったらからでしょう、と捻くれたことを返したら、柳くんはいつかみたいに、疲れたような苦笑を漏らした。

「似合っていないとは言ってない。効果がないとは言ったが」
「変なフォロー。また金に戻したら困るでしょ」

すると、柳くんは私の頭を撫でる手を止めた。私が顔を上げると、目を瞬いて、それからじっと私を真っ直ぐに見た。

「どちらかといえば、そのままのほうが困ると俺は思っている」 
「どうして?」
「この先、お前に小言を言う口実が無いからだ」

 その言葉は、なんでもなさそうな声色で放たれたのに、ひどく深い響きを持って、石のように重く私の胸に落ちた。なんて言ったらいいのかわからずに、唇が震える。何回も繰り返された、私を諭すときの声が、ぐるぐる頭の中を巡った。

 ずっと優しくない人だった。なんでも先回りして、私の恋を挫いていた。それで、ずっとそばにいたのだ。

「なんか、ばかみたいだね、柳くんて。私みたい」
「そうだ」

 今まで知らなかったのか、と静かに言い、柳くんは笑った。私はつられて、笑おうとして、頬が震えた瞬間に、肌が濡れたことに気づいた。誤魔化そうとしたのに一度溢れたものは止まらなくて、顔を手のひらで覆った。大粒の涙が、指の間を零れ落ちていく。柳くんの手が所在なさげに伸びて、また私の髪を撫でた。