キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン





なんかこいつ手がでかくなったな、と思ってから、自分の思考に少し引いた。
向かいで骨ばった指先が青いシャープペンシルを握ったまま、ノートの上を淀みなく動いている。自分の手ではない、仁王の手指のことを私は考えていた。徹底して異物である、仁王雅治と言う存在に慣れすぎているのを感じる。クラスに友人が碌にいないこの私の、儚く過行く学園生活の多くを、この男の姿が占めていた。人生にいらないわりに占有比率が大きすぎるのが悪い。男子は女子より成長が遅いと聞くけれど、小学校を卒業して以来数十センチも成長しなかった私に比べて、仁王の身丈はにょきにょきと筍のように伸びて、見降ろされる、と感じることが増えた。元々多弁な男ではないが、最近はあまり無駄なことを話さずに、じいと黙って近くにいてこちらを見降ろしていることが多いから、いっそうそのように感じられるのかもしれなかった。

「アンタって」
口に出してしまってから、悪手だった、と悟る。沈黙は金という。話すべきことのないときに開く口が福を招くことはない。大体、私はただ「手がでかいな」と感想を抱いただけで、何も考えていなかったのだ。そもそも私から仁王に話すべきことなど、出逢ってから今に至るまで、存在していたことはない。ただ静かにこちらに流れてくるばかりの視線が、肌をじりじりと焦がしていくように感じられて、ときどき落ち着かない気分になる。夕暮れで人もまばらな教室というのも心安らぐ時間帯ではなかった。橙色の日差しが仁王の頬に差している。長い睫に降りた陰が針のように伸びて、人ではない魔性のように見えた。 きれいな男だった。口を開けば碌なことを言わないが、黙っていれば一層、作り物めいた造作である。母やクラスの女子たちが騒ぐのも無理はないな、ということが今更思い知らされるような気がして、口の中に苦虫の味が広がっていく。

「なんじゃ」

と手をとめて、魔物は問うた。私のこぼした、何の意味もない問いかけの続きを督促したのだった。私は何かいうべきことを考えて、取り留めもなく、言葉にならない思考に嫌気がさして、結局惰性で喋り出した。碌なことにならないだろうと分かっているのに口は素直に動いて意味もない言葉が流れでる。
「なんか少し変わったね」
 プリ、とお決まりの仁王の口癖が、静かな教室に落ちる。何も変わっていないようなふざけた、子供じみたその音に似つかわしくなく、色の薄い瞳を宿す双眸が意味ありげにすっと細められた。それは静かな所作で、私はただ日が眩しいのか、それとも言い知れない気まずさのせいなのか、なんとなく落ち着かないまま自分のノートに視線を下げた。
「どう変わった?」
 と仁王が尚も尋ねた。考えてみれば普通の質問だった。前髪の隙間から覗いた仁王の瞳は静かで、けれども爛々と輝いている。
「深い意味はない。ただ手がでかくなった。あと、ちょっと無口になった」
 すると、仁王は口元を少し綻ばせた。
「喋ってほしいんか、お前さん。よう黙れっていう癖に」と、どこか揶揄うような調子でいる。揶揄されるいわれもないのに、何故か肩身が狭い。
「いや、別にいいけど。イリュージョン?とかも最近しないせいかも」

 ピヨ、と短い鳴き声ののち、仁王はくるりとシャーペンを回して見せ「このぐらいはできるがのう」と言った。一回転するペン先の軌跡に目を奪われているうちに、仁王の左手には赤い花が揺れていた。
 薔薇の花だった。用意周到だな、と呆れ半分に呟く。
「あげる」
「はあどうも」
 押し付けられるまま受け取って、質感に驚いて匂いを嗅ぐと、ふんわりと独特の芳香が香る。呆れたことに、それは生花であった。ひんやりとした花びらの温度が、生ぬるい体温の指先をそっと冷やす。
 花びらをつついていると、不意に仁王が口を開いた。
「まあ、そうじゃの」
「あん?」
「イリュージョンはもうやめじゃ」

 私は目を瞬いた。思えば「イリュージョン」という単語自体がよくわからないのだが、この奇抜で頭が少しおかしな男はよく他人を観察し、他人に成り代わって遊んでいたのである。ただ日常の戯れならまだしも、心血を注いでいるはずのテニスでもそれを使っているというのだから、まあ呆れた話だった。

 なんで、と私は尋ねた。
「ん?」
「だって、こだわりあったんでしょ。飽きたの?それとも真田君とかになんか言われた?」
 前から思っとったが、と仁王は低く笑っている。
「お前さんはホントに負けん気があるのう。我が強いというか」
「あんたに言われたくないんだけど」
 まあな、と仁王は頷き、一つため息をつくと、視線を薔薇の花に寄せて、静かに呟いた。 色んな奴に成ってきた、と。
「まあそれはそれで面白いんじゃが。……思うところもあったし、直球勝負も必要じゃき」
「……なんだそれ」
抽象的な物言いに、途端に馬鹿馬鹿しさを感じて、私は匙を投げる。どうせ普通の範囲には入らない、規格外な男なのである。まともにとりあって話を聞くことのほうが無理がある。
 けれども仁王はなぜか、不思議なほど静かで真剣な瞳をしているのだった。
「自分だけを見てほしいこともあるからのう」
「……アンタいつもそうじゃん」
「ん?」
「自分を見てほしいから、他人になってたんでしょ」
 目立ちたがり、と揶揄すると、仁王はぺろりと舌を出した。子供のような所作だった。それからうん、と頷いて、噛み締めるように、そう、と呟く。
「なあ」
「何よ」
聞いてから、仁王の瞳を見た。薄い色の瞳孔の、奥が灼けている。瞬時に逃げたい、と思ったのに、椅子を蹴って立ち上がる力はなかった。薔薇の花を握りしめたままの手を、仁王の大きな手が固く、痛くない程度に、しかし振り解くことはできない強さで掴んでいた。目を逸らすことができない。腹立たしいほど、仁王ばかりが視界を占めている。

「好きじゃ」

お前のことが、と仁王は言った。聞き間違いようのない、断固とした口調だった。
張り詰めていたものが破裂したあとのような静寂があって、私は言うべきことを思いつけないまま、静かに肩を落として脱力した。
「……それはちょっとズルくない?」
「ズルいのはお前さんのほうじゃ」

わかっとったくせに、と仁王は恨めしげに吐き捨てた。不実をなじるような、その口調に納得がいかないのに、どこか後ろめたさを感じているのも事実だった。丸井の呆れた声が耳の奥でいつかのまま再生される。なあ、わかってねえのかよ。お前が女子に嫌われる理由を。
しかし今となっては、もはや私は知らずにいる権利さえも取り戻すことは出来ないのだった。そして、さほど驚いてもいない自分がいることも、また事実だ。
「……まあそうかもね。わかってたのかも」
投げやりに言えば、仁王の瞳に剣呑な色が奔った。謝ろうとしたのを察したのだろう。机の下にしまって、余っている膝が、鉄板の裏を蹴り上げて威嚇する。
「振っても無駄じゃ。俺は諦めん」
「勘違いだと思うんだけど。あと刷り込み」
私が言うのをひと睨みで黙らせて、仁王は硬い声を絞り出した。
「俺のもんにならんなら、一生誰のものにもさせん」

硬質なわりに湿った響きを持つ音に絶句した。怖、としか言えないまま、肩をすくめて黙る。仁王が意味不明なわりに、意外なほど感情がわかりやすく直情的であることは、思い知らされても居る。過ごした時間が積み重なりすぎていた。その言葉が多分、本当になるだろうことを、私はなんとなく諦めているのである。

下げていた視線を持ち上げて、向かいの男を一瞥すると、薄い瞳がどこか怖じたように、気怠げな影を落としてこちらを見ていた。意味がわからない、正体不明、掴みどころのない男だ、とは、なんだかもう、思えずにいる。
 仁王、と呼べば、何じゃ、と拗ねたような声がまた、返ってくる。

 私はなんとなく、見たままの感想を口に出した。

「あんたって、テニス部のわりに色白だよね」
「……見せモンじゃないぜよ」
「見てほしいくせに」