泥沼で踊れ


バネは中2で童貞を捨てた。なんでそんなことを知ってるかって。そりゃ、相手が私だからだ。私も、そのときはまだ処女だった。 はじめはテスト期間の終わりで、私たちはまだ付き合ってすらおらず、ふたりで日直の担当だった。バネは黒羽春風という素敵な名前の通りのいい男だったし、私はまだ若くて美しい肌をして、染めたこともない黒髪の女生徒であった。それだけだった。どうしてそうなったのかはよく覚えてない。教室でキスして家に帰ってからバネの家でやった。いくら二人の時間に盛り上がったからと言って、一回冷却タイムがあったのに、親に友達の家に行くと嘘をついて出たのである。子供なんていうのは分別のつかないぶん狡猾なものだ。放送委員の女子がバネを好きだというのだってちゃんと知っていたのにね。おかげでクラスの派手な女子一派からは二か月無視された。干されたわけだ。二か月で済んだのは、私たちが二か月で別れたからである。

中2年の夏、そしてその終わり。人生で一番熱い夏だった。あまりに熱くて、その熱は身を焼くと知って別れたのに、別れたあとも三回ぐらいエッチした。だって中学生なんて猿みたいなものだ。男も女も変わらない。バネの身体はごく控えめに言って、まじで最高だった。きれいに割れた腹筋、さらりとした肌、でも指先で少し撫でるだけで燃えるようにすぐ熱くなる身体。思い出しただけで身体が熱くなる。もう十数年も前のことなのに。原体験というのは強烈な実感を持って人間に記憶を焼き続ける。

つまるところ、はじめに体験したのがバネだった私はそのあまりの素晴らしさと表裏一体の堕落を耽溺を恐れて彼から逃げたが、最初が最高だった人間があとでどうなるかはお察しと言うものだ。あのうるわしい筋肉の間を撫でた指が弛んだ脂肪を覆う生白い皮膚などを愛でる気になるか、という話である。反語。そうだ。ならない。だからこそわたしは今日もひとり寂しく一人寝……という話をしたいのだけれども、それはこの状況ではいまいち説得力を持たないことも、想像に難くはない。

「じゃあ俺でよくないか」

などと不遜なことを真面目に言ってくる男が今そばにいて、しかもその容姿は黒羽春風に勝るとも劣らない麗しさと逞しさを兼ね備えているので。

私は溜息をついて、「アンタそれじゃ穴兄弟よ」と百回ぐらいは言った下世話な台詞を繰り返しヒカルに投げた。ヒカルはそれがどうしたと言わんばかりに綺麗に無視をして、ソファから立ち上がるとわたしに向き合った。そしてシャツを脱いで床に落とし、ボディービルダーのようなポーズをとった。バネよりは色白であろう血管が青く透けた肌を惜しげもなく私の目前に晒される。

わたしはそれを眺めながらコーヒーを一口飲んだ。ストリップを見ている人間は多分こんな感じなんだろう、と思う。値踏みだ。たぶん、ヒカルはバネよりは体温が高くないだろう。茶色い髪は黒のツンツンした太い髪よりもずっとやわらかそうだ。ピンクの大きな桜貝みたいな爪がついた指先も悪くはない。申し分ない。そう思う。たぶんすごく「いい」んだろうな。そう思う。これが欲情なのかどうかはよくわからない。わからないので、努めて涼しい顔をして、コーヒーを最後の一滴まで飲み干してからカップをサイドテーブルに置いた。

すると、なにを勘違いしたのか、ヒカルが脱いだシャツをそのままにソファに戻ってくる。隣に負担がかかって尻の下でクッション材が揺れる。ダビデ、とギリシャの彫刻に喩えられるほどはっきりとした、彫りの深い顔だちが私をじいと見据えた。

ヒカルは私やバネより一つ歳下で、見かけの大人びた雰囲気に反して甘ったれたところのある子どもだった。

昔から何か叶えたいことがあるときはこういう目をしてわたしを、じっと黙って縋るように見つめるのだ。そう。かわいらしい脅迫である。すっかり大人になったくせにこういう所作を平気でやるところに、この男のそれなりの計算高さを感じないわけではない。だが呆れと同じぐらいには、なけなしの母性を刺激されることもまた、事実だ。

やめとけよ、と冷静な自分が言う。この男は歳上の兄貴分の真似がしたいだけだ。昔からそうだった。後ろをくっついて、バネの真似ばかり。そもそもこの男は私がバネと寝てなかったら私に声をかけたりはしない。わかってるんでしょ?

わかってるよ、そんなこと。

ヒカルの視線が真っ直ぐに突き刺さっている。そのまま、指が伸びてくる。ダメだってば、と言ったけど、多分世界で一番ぐらいに意味がないセリフだった。そういえば、別れたあとでバネと寝た時も、私は同じセリフを言ったような気がする。ヒカルの指はもう、私の肩を掴んでいた。バネよりは熱くないだろう、と予想した皮膚は予想外にひどく熱を帯びて、いつかの男の指先の温度なんて、もう思い出すことができない。そのまま引き寄せられて、息が止まるほどきつく抱かれた。耳にかかる吐息まで熱い、何を言うのかと思えば、掠れた声が「オレのこと『春風』って呼んでもいいよ」なんて見当違いのことばを紡いだので、私は何もかも馬鹿らしくなって、返事がわりに目の前の首筋に噛み付いてやった。しょっぱい味がした。