「今日、仁王の誕生日だろい」

と丸井が言うのだが、そんなかなり今更な情報を12月4日の朝のホームルーム直前に問いかけて一体なんのつもりなのだろうか。私は一ヶ月も前から柳生くんに「12月4日は仁王くんの誕生日ですよ」と聞かされていて、ここまでくると気持ちが悪いので口に出したくもないのだが、どう見ても手製の日めくりカレンダーまで手渡されていたのである。中学生男子が同級生の誕生日に向けて日めくりカレンダーを作るのはどう考えても尋常のことではないと思い、ドン引きしている私に柳生くんはニコニコしながら「ワタシの妹の手製です。よく出来ているでしょう」などと言ったのだった。人は理解の及ばないものに恐怖を覚えるというが、同級生の誕生日のために妹が作った日めくりカレンダーを無関係のクラスメイトに横流ししてくる謎の行動が私を更にドン引きさせたことはわざわざ言うまでもないことである。

さらに言えば一週間前には図書室で本を探していたところを柳くんに「来週は仁王の誕生日だな」などと突然声をかけられ、昨日は帰り際に下駄箱でジャッカルくんから「明日仁王の誕生日だな」と笑いかけられ、今日の朝には校門前で幸村くんから「おはようさん。きょうは仁王の誕生日だね」と挨拶された。至る、現在。丸井。わざわざ私の席の側にしゃがみ込んで聞いてくる始末。こそこそとしているような動作ではあるが、赤い頭が非常に目立ち、半端なジャニーズ顔のために女に人気のある彼の常ならぬ動向にクラスメイトの視線が集約されているのがひしひしと感じられて私にとって状況は「最悪」の二文字である。何度も思っていることだが立海大付属中のテニス部は頭がおかしいのではないのだろうか、何故同じことを違う部員が繰り返し繰り返し私に伝えにくるのだろう。まさかお誕生日会でもやるつもりなのだろうか、15才にもなって、女でもあまりやらないと思うのだが。うわ普通に引く。というかやりたいなら勝手にやればいいが巻き込まれたくない。

「知ってるけど」
「知ってるよな、そりゃ。で、プレゼントは?なんにした?」
「・・・なんで?仁王の誕生日会でもやるの?」

すると丸井は非常に嫌そうな顔をして、「やるわけねーだろい。仁王の誕生日会とかキショい」と、大体私と同じ感性の台詞を吐き捨てた。そもそもなぜ私が、誕生日だからと言って仁王にプレゼントを用意してやらなきゃいけないのだろう。柳生くんの再三の要請で一応用意しておいたが、テニス部から経費を貰えたわけでもないし、婉曲なカツアゲじゃないか?私が仁王に誕生日に身銭を切ることがテニス部にとって何の得になるのだろう。不満を数え上げればきりがなく頭痛がしてきたが、これ以上会話を続けるのも嫌なので「シャーペン買ったけど」と返しておく。これで満足なんだろ。さあ去れ、丸井!ところが私の答えを聞いた丸井は動くどころか、一瞬、一切の動きを停止した。しゃがんだまま、名前の通りたんまるの目を見開いて。

「はあ?」

私がたじろいでいると、次の瞬間、徐ろに立ち上がった丸井は私の肩を両手で掴みほとんど詰め寄るような姿勢で、そのデカくて丸い両目いっぱいに私を映した。あまりの勢いに私の座っていた椅子がズレて、耳障りな音がたった。意外に太い指が肩の肉に食い込んで痛い。今やクラス中が私と丸井を見ていた。注目に慣れている丸井は衆人環視など全く考慮していないようで、マジかよ、と吐息で呟いてから呆れ切ったように私を詰った。解せぬ。なんだこの状況は。

「バカか!?おめー!」
「何がじゃ」


何がだよ、と流石にキレかけた私をよそに、いつのまにか登校してきた仁王がそう言った。本当に来たばかりのようで、まだ左肩に指定鞄を下げている。右手が丸井の肩を掴んでいるが、どう見ても爪が丸井の肩に食い込んでいて、私は言葉を発するタイミングを失った。横顔は凍り付いたような無表情で、つり気味の三白眼が冷たく光っている。怖い。怒っている。あののらくらとした仁王が。

「なあ、丸井、何がバカなんじゃ」


地獄の底から這いだすような声で耳元に囁きかけられて、丸井はぞっとしたように首をすくめた。なぜこんな物騒な場面をこの超近距離で観覧しなければならないのだろう。普段から暴君気味のある丸井が、本気で引いた様子で青ざめているのが珍しい。つまり仁王が怒るのはテニス部の面々にとっても慣れるようなことではないらしい。普通に恐怖体験である。

「お、オレです・・・」
「ほお。物分かりがええの。・・・手ェ放しんしゃい」


ぱっ、と肩から丸井の手が離される。椅子から少し浮いていた腰が安定を得てほっとした。肩を摩っていると仁王がチッと舌打ちをする。丸井が反射でびくっと肩を竦ませて、だがその表情にはデカデカと「なんでオレがキレられなきゃなんねーんだよおかしいのはこの女だろうが」と書いてあるのだった。なんなんだコイツ。

「で、何をモメてたんじゃ」
「仁王の誕プレがシャーペンだって言ったらいきなりキレられた」
「は?」
「お前・・・それ言うのかよ!この流れで!」
「いや、だから本気でキレられる要素がない」


ありえねーまじなんだこいつ!と叫びながらメンチ切ってくる丸井を負けじと睨み返しつつ、ブレザーのポケットからシャーペンの入った紙袋を取り出しす。文房具屋の薄い紙の封筒に赤いリボンをとめられた包みを見て、丸井はよほど不満なのか大げさにため息を吐いたが買っただけ褒めてほしいものだ。大体、これだって自分では買わない程度には高いシャーペンなのである。そこまで大仰に軽んじられる意味がわからない。とにかく、これを仁王に渡してさっさとこのつまらない茶番を終わらせてやることにして、丸井から目線を外して仁王に向きなおった。仁王はぽかんとした顔をして私を見ていた。

「誕プレ・・・あるんか」
「あるよ。柳生くんが超しつこく・・・まあいいや。誕生日おめでと。シャーペンだよ。使ってよ」
「開けてもええか」
「どうぞ」

仁王は静かに素早く袋を開封すると中から鉄製のシャーペンを出した。細身だが重厚感のある作りで、家の近所の文具屋のシャーペンコーナーでは一番値が張る品だった。色は五色あったが、仁王っぽいという理由で薄いブルーが選ばれて今仁王の手の中にある。我ながら最初からこの男の持ち物だったみたいにしっくりきているように見えた。仁王はじっとシャーペンを見つめて、ぽつりとこういった。

「青」
「そうそう。なんか仁王って青っぽいし」
「おい・・・マジ何の変哲もねえシャーペンじゃねえかよ」
「こういうのって実用性第一じゃん。寿とか書かれた壺もらって嬉しい?」>
「おいお前・・・この女マジでやべえぜ仁王・・・」
「青じゃ」>
「・・・なあ仁王お前本当にそれでいいワケ?」

丸井があきれ果てたように呟いた。意味が分からないが私には侮辱的であることはわかるので不愉快である。仁王は仁王でわけがわからないほどシャーペンが気に入ったらしく、丸井を無視してじっとシャーペンを見つめていて様子がおかしい。やったものを気に入られるのは悪い気はしないが、シャーペンはいくら見てもシャーペンでしかないと思うのだが。首をかしげていると、ホームルーム前のチャイムが鳴る。仁王ははっとした様子でシャーペンを胸ポケットに差し、何も言葉を発さずに教室を足早に出て行った。鞄を持ったままである。丸井がものすごく大きな溜息を吐いて、息が途切れるころに重ねて舌打ちをした。

「マジクソ疲れた。最悪だぜ。もう二度と関わらねえ」

望むところだった。丸井の人柄からは考えられないほど素晴らしい提案である。拍手してやろうかと思ったが、丸井はさっさと背を向けて自分の席に戻っていった。

結局、仁王は教室を出たきり、授業が終わっても昼を過ぎても戻ってこなかった。暗くなりかけた空を見上げて、あの男は一体何をしに学校に来たのだろうかと思うが、仁王の不在の間にも教室には次々にファンだかなんだからしき女たちがやってきて空っぽの机に色とりどりの包みを重ねていくのを見ていたら、なんだか気の毒な気もするのだった。あの男は自分に人気があることを充分すぎるほど理解しながらも、なんだかんだ言ってそのことに困惑し続けているようなフシがある。いや実際のところは知らんけど、だから素直に席に座っていてやろうという気にならないのではないだろうか。

まあ、もしそうならその点は同情するが入れ替わり立ち替わりやってくる女たちが全員帰り際に私を思い切り睨みつけていくのは勘弁していただきたい。何万回も思っていることだが「なんで私なんだよ」である。昨年起きた不幸な事件から随分時間が経って、私の平凡極まりなかった日常に降って沸いた天災、仁王雅治の存在にも、不本意ながら大分慣れた。上から張り付けたように風景から浮いていた仁王もなんだかんだ視界に馴染んで、学校では席が隣、帰り際に待ち伏せられる、家に帰れば母とお茶をしている、私の部屋でくつろいでいる、などなどの異常な事象にも、いや、慣れるなよ馬鹿野郎、列挙していくと完全にストーカーだと思うのだが、大変癪だが正直に申し上げて嫌悪感というものがまるでないのは、まあ本人の長所なんだろう。ただ、ファンだけは本当に考えてほしい。私があまりにあからさまに睨まれているので、さっきまで険悪だった丸井までもが同情したような目で私を眺めている始末である。リボンと包装紙に埋め尽くされた机を横目で睨んでも、溜息しか出てこない。

「なんで私なんだよ・・・」
「そりゃあお前だからだろい」

背後で声がした。二度と関わらねえんじゃなかったのかよ。声も口調も特徴的なので、わざわざ顔を見なくても丸井だとわかる。丸井は席が近いわけでもなく、普段大して会話をすることもないのだが、なぜ今日に限って話しかけてくるのだろう。わざわざ席までやってきて言うほどのことなのだろうか。聞えよがしな溜息が耳について、上体を捻って振り返った。ポッキー極細を持った丸井が、憮然とした表情でそこに立っていた。

「そういう意味わかんない謎かけみたいなの他所でやってくれる?」
「なあお前マジでわかってねえの?」
「だから、なんの、話だよ」

丸井は絶句して、青ざめた顔を引き攣らせている。「まじでなんでコイツだよ・・・」などと、また私が考えているのと同じようなことを言うのだが、今までの事象を参照するにおそらく私とは正反対のことを思っているのだろう。丸井はドラマなどでイライラした刑事がタバコを吸うように、ポッキー極細の袋を破って中身を全部出し、一気に口に突っ込んでかみ砕き始めた。最近太ったなと思ったが、こんなことをしていればそりゃあ太るだろう。というか、自分の席でやれよ。ポッキーを全部食べてしまうと、丸井は髪をかき上げてから、私をなんだかひどく気の毒なものを見るような目で見据えた。体のなかに屈辱を感じる器官があるのだとすれば、それを直接撫でられるような、とにかく、これまでに味わったことのないほど最低な気持ちが味わえる視線だった。

「・・・お前が女子に嫌われてる理由、お前以外は皆わかってると思うぜ」

丸井をぶん殴って教室を出た。いってー!!!!などと叫ばれたが知るか。お前殴られる覚悟もなくよくそんな失礼なことが言えたなという感想しかない。念のため断っておくが私にも友達ぐらいいる。ただ仁王ファンの余波が恐ろしいのであまり学校でかかわらないように気を付けているだけのことだ。下駄箱前で鞄からローファーを出して履き、上靴を鞄に仕舞う。哀しい哉、いじめ対策も板についたものである。くさくさしながら校門を出た。立海は放課後も学校に残りたがる生徒が多いので、ホームルームが終わったばかりの校門付近は人気があまりない。立海大付属中学校の看板の下で、どうせいるだろうと思っていた男がマフラーに鼻を埋めて、そこに立っている。信じ難いことにこいつはいつもコートを着ない。ブレザーの胸ポケットから今朝渡したばかりのシャーペンがのぞいている。銀の髪が風に揺れると、普通の黒髪より寒々しく見えた。

「・・・あんた何しに学校来たの?机にプレゼントめちゃめちゃおいてあるよ」
「プリ」

仁王は仁王語をつぶやくと、私の左手を掬い取って、お構いなしに引っ張っていく。いつもながら冷たい手だ。手を引っ張らなくても歩けるという言葉は随分前から無視され続けているのでもう繰り返しはしない。握られた指を見ながら、なんだか変なことになったなあとこの期に及んで感慨深く思ってしまうのは、冬休みを間近に控えたこの時期の所為だろうか。季節が過ぎていく。目まぐるしく。去年の仁王の誕生日は柳生君に誘われて焼肉に行ったことを思い出す。仁王がやたらと私を構うようになってからそれほど時間が経ってなかったころで、あのときの仁王はまさに、私の世界から明らかに浮いた存在だった。当然、柳生くんに誘われた焼肉も超、行きたくなかった。あの時は株主優待券を持っていた柳生君が全額おごってくれるという神のような会だったのに全然食べなくてもったいなかったと後悔している。愛しのシャトーブリアンよ。誕生日だからと言って仁王の胃に収まったあの輝く肉。何故、今年は焼肉がないのだろう。豚肉限定とかでもいいのでやってほしかった。今なら腹がはちきれるほどでも食べたのにな。今年はプレゼントを用意しろと言われ、用意したプレゼントにケチをつけられる始末でさんざんとしか言いようがない。大体、仁王は喜んでいたのに何が悪いというのか。

前を歩く仁王が突然立ち止まったので、ぼんやりしていた私は仁王の肩に思い切り顔をぶつけた。うぐ。くぐもった声が出て、ぶつけた鼻が痛みを孕む。こんな往来で止まるな。抗議しようと睨みあげると、仁王の色素の薄い双眸が私をまっすぐに映しているのが見えて、今更ながら綺麗だなあと思ってしまった。イケメンは嫌いだと言い続けてきたけれど、いい加減認めざるを得ないだろう、この男の顔に私はかなり弱い。あの事件のときもそうだ。こんなに綺麗な顔で、時々泣きそうな顔をしてみたり、困ったような顔をしてみたりするから、つい手を差し伸べてしまうのである。なんとなく気まずく思って視線を下にずらすと、仁王がいつも履いていた運動靴が今日はローファーに変わっていて、少し驚いた。

「シャーペン。ありがとうな」
「いーって。大したもんじゃないし」

顔を上げて覗くと、仁王は少し笑って、すこし遠くを見るように視線をずらした。お前さんは変わらんのう、と呟く。一体いつの私と比較しているのか。仁王の右手が私の左手をなぞる。皮の固い手だった。

「オレもお前さんに渡したいもんがあるナリ」
「私誕生日じゃないけど」
「知っとうよ」
「なんで?」
「いいから目え閉じんしゃい」

ほれほれと促されて瞼の前に掌が下りてくる。反射的に目を閉じると、ずっと握られていた左手が広げられたのがわかる。しばらく目を閉じていう通りにしていると、薬指にひやりと冷たい鉄の感触がする。変な汗が出る。まってくれ。様子がおかしい。この感触は知らないわけではないがこの男から今日渡される云われは全くない。合図も何もないまま目を開けるとそこには果たして、機嫌よさげに胡散臭く微笑む仁王雅治がいて、私の大して美しくもない左手に指輪が光っていた。桃色の石が填め込まれた銀の指輪だった。指輪なんてすぐなくすから買わない、アクセサリーに特段執着のない私ですら、「可愛い」と思ってしまうようなデザインで、どう見ても私たちのような年齢の人間が気軽に買えそうなものではなかった。思わず目の前に掲げて見てしまう。

「・・・なにこれ」
「指輪。可愛いじゃろ」
「可愛い。・・・何?どうすんの?」
「あげる」
「・・・。いや、なんでだよ!!!!!!!!!」


絶叫してしまった。往来である。しかも家が近い。気が付けば、あと次の角を曲がると自宅というところだった。母なら気づくかもしれなかい。しかし突っ込まずにはいられなかった、この男ちょっとおかしいのではないだろうか?なぜ自分の誕生日にプレゼントを人に贈るのか?しかもどう見ても安くないものをなんの関係もない人間に気軽そうに渡してくるのか?自分は高いものを渡しておいてなぜシャーペンであんなに喜んだのか?まったく、わけが、わからない!いくら資本主義のこの時代、タダより安いものがないとはいえ、こんな高そうなものを無償でをもらっていいわけがあるか。私が指輪を外そうとすると、仁王は両手で私の左右の手をそれぞれ握ってそれを制止した。心情の読めない飄々とした表情で私を見据えて、わざとらしく小首を傾げる。

「嫌なんか」
「嫌っていうか・・・貰えないでしょ。あんたの誕生日・・・っていうか関係ないし・・・何してんのほんと?私、あんたにシャーペンしかあげてないんだよ」
「嬉しかったよ」
「なんでだよ!あれ1500円とかだよ。てか・・・丸井に馬鹿にされた理由わかった・・・。ほんとバカじゃん?こんなもの渡されて自分は文房具屋のシャーペンとか頭おかしいでしょ?等価交換なら内臓持っていかれてるでしょ!?でもあんたも変でしょ?いきなりどした?」
「いきなりでもないきに。結構前に買ったんじゃ」
「・・・ねえ、去年のこととか気遣ってんの?もういいんだってば。ほんとに。佐々木のことだって私が勝手にやっただけだし、女の子からハブられてんのだってもうどうでもいいってか・・・どうにでもしてくれっていうか。とにかく仁王は悪くないって・・・」


それまで黙って聞いていた仁王が私の手を握る力を強めて、私は一度言葉を切った。混乱でうまく話がまとまらないが、常識レベルで丸井に負けたらしいということが身につまされた。仁王は疲れ果てた、というような思い溜息を、鼻にかかった呻きとともに吐き出して項垂れている。

「んー・・・」
「・・・何?」
「ここまで取り付く島もないとな。情けのうなるぜよ」

顔を上げた仁王は、私の手をつかんで軽く振りながら、幼児に言い聞かせるように言葉を区切った。

ちゃん。なあ。ピンクの指輪なんぞオレに返してどうしろっちゅーんじゃ。お前が持ってて頂戴よ。可愛かろ。ほれ」
「か、かわいいけど・・・ていうかかわいいからでしょ・・・」
に似合うと思って選んだんじゃ」
「・・・なんか、どうしたの?まじで。仁王」

すると仁王は冗談を言うときのようにくっくと笑って、私の腕を手を解放した。ひょいと私の左側に回ると、肩を抱いて引き寄せてくる。なんでこいつはこうスキンシップが多いのだ。内緒の相談をするように仁王は私の耳元に小さな、それでいて愉快そうな軽い声を吹き込んでくる。耳がくすぐったくて眉を寄せたが、一瞬見た笑っているはずの仁王の目には、文句を言わせない力があった。

「なあ、。これはほんの袖の下じゃ。賄賂よ、賄賂」
「賄賂?」
「そう。これもペテンじゃ。こうやって付け届けして、油断させて・・・」

言いながら、仁王の左手が私の左手を取った。親指の大きな爪が指輪を撫で、指の形をなぞる。指先をそのまま掬われて、暖かく乾いた感触がしたのは一瞬だった。斜めに覗いた、綺麗な灰色の瞳が強烈な熱を湛ていて、腕を振り払ってしまいたいと、切実に思ったのに、何故だか体が動かなかった。肩に回わされた手に力が込められて、さらに強く引き寄せられる。強い瞳が雄弁に私を射抜いて、自分の意図とは無関係に体温が上がった。沸騰するみたいに、一瞬で。鼓膜に直接熱を流すように、やわらかい、甘い声が耳元に囁く。

「最後は、お前さんの一番大事なもんを貰うぜよ」

なあ。
マジでわかってねえのかよ。



最後のダンス