真っ青な空。雲はもうもうと積み上げた綿のように重たげで遠くにある夏のもので日差しを遮りはせず、私が両足をつけている地面から垂直に線を引いたその先に凶悪な太陽が燃えている。ストーブの三センチ手前の温度を切り取ってこの一帯に敷き詰めたような息のし辛い纏わりつくような気温と湿度。空気を吸っても吐いても体温は下がらず体の内に爆発寸前の熱を飼っているようだった。セーラー服の襟が重なって布が二重になっている部分などは布と肌の間から発火しそうなほどに熱かったし、丁度真上から弾丸のように真直ぐに注がれている黄色の日差しは頭のてっぺんを焼き、黒い髪が光を吸収して熱を孕み脳味噌をぐらぐら煮詰めている。視界は熱の膜で揺らいでいて影が矢鱈とくっきり鮮やかだ。蝉の声と心臓の音ばかりが身体の奥で響いて体感温度をさらにあげて行く。止め処無く。犬のそれのように浅い息がひっきりなしに零れ、顎の先から身体から流れたのが信じられないほど熱い汗の雫が落ちる。わたしはそれを拭うこともせずにただ緑の金網を握りしめて一点に視線を集中させていた。こんなに暑くって何もかも嫌になって家に帰ってクーラーの利いた部屋で一日中眠りこけてしまったっておかしくはないのに、この炎天下信じられないような集中力とひたむきさでわたしはその小さな背中を見つめてた。こんなに夢中になることのできるものを他にはひとつも知らなかった。端から何にも誰にも本気になどなれないだろうと思ってかかっていた15の季節だったのに、この夏のわたしは自分でも驚くほどあっさり彼に落ちている。日焼けも暑さも人の声も気にならぬほどなのだから相当なものだ。金網の向こうではまた、ぱん、と音がする、断続的に。ラケットが黄色のボールを打って弾かれた黄緑色のボールがネットの向こうに飛んでいく。クーラーもきいていない静かでもないテニスコートの傍でわたしは勉強も音楽も物語も忘れてひたすら彼に集中し眩い白と冷静さの象徴のようなブルーに彩られた背中が俊敏に動くのを見てる。じっと。ずっと。何時迄も。飽きることなんてなく。彼のゲームの続く限り。











「穴が空きそうなんだけど」

手洗い場で手を洗っていると少し離れたところからいかにも少年らしい声がしたので視線をそちらに向けた。日光に水道管を温められてぬるくなった水道の水を流しに流して漸く冷たくなってきたところだった。視線の先にはひどく生意気そうなつり目がちの後輩が赤いラケットの先を肩に載せてわたしを見ていた。先ほどまでわたしの視線を惹き付けて離さなかった背中の持ち主である。コートの外に出た彼はゲーム中よりも少しばかり小さく見えるけれども先輩に向って敬語もまともに使おうとしない態度のデカさは常時変らずだ。名を越前リョーマといって、わたしとは委員会が同じで面識もある。このクソを二乗しても暑さを上手に言い表せない灼熱の気候だと言うのに越前は長袖の青と白のジャージを着ていて腕も捲くっていない。手首まできっちり隠れているのに、ジャージの色味の爽やかさ故か、彼のすっとつりあがった涼しげな目元の所為か、両方かもしれないけれど、兎に角そんな馬鹿みたいな格好をしているくせにあまり暑そうではなかった。わたしは今熱を測って40℃あったって別に驚かないほどに暑いので、上に向けた蛇口から流れる水を流しっぱなしにしたまま小首を傾ける。顎の先すれすれを通って流水はわたしの胸元に飛沫を飛ばしながら排水溝へ向かっていく。水が通る部分の空気だけが冷えていて気持がいい。長い前屈の姿勢で腰に鈍い重さを感じるが彼はわたしからすこしだけ視線をずらして空を見ていて、わたしはすこしそれをかわいいと思ってしまう。弟的だ。笑ったら彼はムッとしたようで帽子のつばを引っ張って目元を隠した。わたしは暑さできっと真っ赤になっている顔を上げて聊か作為的に口端を上げ右手で掠め取るように流水をすくって自分の胸元に当てる。濡れて冷えたリボンが心地よい。乾ききらない手で髪を掻き揚げてから蛇口を閉めて水を止める。そうして姿勢を正して彼に向き直り、「何が?」とわたしはすっとぼけた。彼はまたムッとしたらしく少し目を細めてわたしを見る。

「視線。熱すぎ。」
「そう?」
「アンタ自分がどんな顔して俺のこと見てるかわかってないわけ?」
「鏡が無いから」

わからないわ。肩を竦めてそう言うと彼はつまらなそうにふっと息を吐く。溜息というには溜めの少ないただの吐息だ。困っているのかもしれなかった。その想像の通りだとしたら、と思ってわたしはひどく愉快で歌い出したいような気持になる。退屈で平凡でどうしようもなかったわたしの世界の色を塗り替えたのは紛れもなく彼だった。わたしが彼の人生を塗り替えることはないだろうけれども、せめて彼がわたしによって困ったり喜んだり感情を動かすことがあるのなら、それは喜ばしいことであるに違いない。

わたしは去年の今頃、自分が何にも興味が無いと思っていてそのことが酷く恐ろしかった。誰のことも何のこともそんなに好きにも嫌いにもなれないような気がしていた。今年の春に至って彼を知るまではそうだったのだ。彼のテニスを知るまでは。情熱的で限界など知らないように上がっていく熱、その癖どこまでも冷静で、必ず相手を打ち負かす、けして諦めないその姿にわたしは恋をしていた。これからも、何度だって、見るたびに恋をするだろう。ボールを追いかける小さな背中を思い返すとそれは煌いて、わたしの心をこんなに熱くして、それ以外の全てを意味のないものに変えてしまうのだ。これ以上からかってはぐらかすのも芸が無いように思われて、何もかも話してもいいかもしれないと思う。あたり一面のあらゆる物体が日差しを反射してきらきら光ってる。魔性の夏だ。わたしは真直ぐに彼を見て挑発するように笑う。丸いまだ子供のような少年の目が少し見開かれる。

「好きなのよ」
「俺が?」

切り返しの速さに動揺と余裕のなさが垣間見える。わかってないわね、と言うように私は頭を振って否定の意を表す。わたしもそう思ってた時期がほんのわずかだけどあったことは認める。だけど、幻想だ。

「君は、図書委員の仕事も三回に一度は忘れてこないし、クソナマイキでまともに敬語も喋れないし、気絶した対戦相手の頭を勝手に剃るスポーツマンシップの欠片も無い悪魔」
「・・・わざわざ見にきたんだ」

暫しの沈黙から、ワントーン落ちた声がそれでも会話の中から自分に有利な話題を拾おうとするので、わたしはそのまま頷いてやった。準々決勝、対氷帝。素晴らしい試合だったと思いを込めて、深く。

「当然よ。ちなみに準決勝も行くから。決勝も」
「へえ」
「で、だから、君は最低のクソガキだと思うし、全く付き合いたいとかないけど」
「・・・・」
「あなたのテニス、最高なのよ。越前リョーマ」

それほど美しくて、楽しくて夢中になれるものを、他に知らない。ぬるい風が吹いてわたしの髪を浚っていく。わたしは自分が彼のなんなのかぴんとくる言葉を漸く思いつくのだが、その前に視線の先の眼光に目を奪われて言葉をなくしてしまった。勝利への欲望と誰にも負けない誇り高さと、勝負の楽しさをそこに閉じ込めて、日の光よりぎらぎら光った。吊気味の大きな双眸。フーン、と不敵に伸びた返事をして、自分が最高なことぐらい知ってる、なんて言いそうな強気の笑みを浮かべてる。赤いラケットの先が肩を離れて、その先がまっすぐわたしの胸を貫くように向けられる。心臓がどきんと鼓動する。世界の全てが光って見える。息が上がってく。ああ、そう。そうだ。君は、君のテニスは最高だ。越前リョーマ。

「アンタ中々見る目あるじゃん」

その眼光に危うく貫かれかけたのに、でもそれ俺のこと好きって言ってるように聞えるけど、等と言うので苦笑してしまった。無粋なガキめ。そういうところ、可愛くって悪くないと思うけどね。







テニスの王子様