手塚くん次の休み遊園地行きたい。そんな誘いをするのは初めてのことのくせに、彼女の言葉はまるで歌でも歌うかのように予め決められたリズムをなぞって冷たい空気を振るわせた。手塚は軽く首を傾げて暫く黙り虚空を見つめていたが、やがて彼もまたそう決められていたとおりとでも言うように静かに頷いて了承の意を示す。面白いほど心臓が跳ねていたので、他になにも反応を返すことができなかったのだ。その首の動きに呼応するようににっこりして、彼女は嬉しそうに彼の手を取った。握られた手は彼女のリズムに合わせてゆるゆると前後に振られる。彼は自分のものでは無いみたいに動く右の手をじいと見て、それを好ましいと思う。同時に彼女がけして自分の左手を取ろうとはしないことをとても残念なことだと思ったが、不服を言葉にすることができないまま、彼はポケットの左手を緩く握った。


手塚は生まれてこのかた遊園地に行きたいと思ったことが殆ど無かったので、この世にどんな遊園地があるのか、そしてそれらがどこにあるのか、よく知らなかった。どの遊園地に行きたいのかと彼は尋ねたかった。彼女はそんなことはお見通しだったようでくるりと上を見上げて手塚と目を合わせると、場所は私が決めるわね、と言って待ち合わせの駅名を告げるのだった。遠い駅だなと彼が思う前に彼女はじゃあここで、とひかえめな別れを切り出した。気がつくと二人はもう彼女の家の前にいたのだ。名残惜しさに力を込めようとするよりも早く彼女の指は手塚から離れていく。昔より小さくなったように感じられる手が。小さな会釈と共に彼女は家の明かりの向こうへ消える。彼の華奢な指の間を風が通っていく。只でさえ厳しい寒さがいっそう見につまされる思いがした。彼は歩きながら携帯を取り出してインターネットを起動し、彼女の言った駅名にひとつスペースを開け、遊園地と打って検索を押した。数千件のウェブサイトがヒットしたけれども、そのどれもが彼の求める情報ではなかった。その駅の近くには遊園地などないようだった。彼は上から五件目までに軽く目を通し、諦めて携帯を閉じポケットにしまいなおす。そうしているうちに自宅の前にいた。溜息を禁じえない。彼は自分がコントロールできないことに困惑していた。彼女に関する彼の時間はいつでも飛ぶようにすぎていくのだった。


日曜日に指定の駅前へやってきた彼女は中々素敵な装いだった。丈の短い赤いダッフルコートを着てクリーム色のひだの少ないプリーツスカートを履き、深い緑の街灯の下に立って自分のつま先を見つめていた。キャラメルのような色味のエナメルの、かかとの高いパンプス。曇りのひとつもなくぴかぴかで、冬の静かな太陽の光を反射してきらきら光っている。手塚は肩にかける鞄の位置をなおしてほんとうにかすかな小走りで彼女に駆け寄った。彼女はすぐに顔を上げて彼に気付いた。そしてとても嬉しそうに笑って彼のほうに向って進む。彼女が街灯から3歩進んだところで二人は手を握り合った。


日曜日だのに昼下がりの駅は静かで、バスロータリーでくたびれた背広の中年の男性が鳩の群れをずっと眺めているほかには人も見当たらない。誰も二人に気をとめなかった。彼女は気の置けない様子で手塚の手を引いて一歩先を歩いていった。何処へ行くのかと彼は尋ねた。徒歩圏内に遊園地は無い。彼は家に帰ってから態々駅のある町の地図を調べてしっかりとそこに遊園地が無いことを確認をしたのである。すると彼女は小さく口を開いて、手塚くんは、と言い、一度言葉を区切った。安易に正解を与えない性質であることは知っていたので、苛立ちもせずに彼は彼女の言葉の続きを待った。遊園地って言ったら何が重要だと思う?振り返りもせずに、彼女は尋ねる。彼は眉間にくっきりとした皺を刻んだ。何を言っているのだろうかと彼は思った。純粋に、わからなかったのである。彼には遊園地に興味を持っていた記憶がなかった。五分も悩んで、彼は降参した。彼女はからからと笑って、取り合わなかった。手塚の視界を、いたずらにさびれた町の景色が流れていく。三流画家の描いた絵の中の建物みたいに古ぼけた百貨店の前で彼女は立ちどまり、彼に何も断らずに自動ドアを潜った。不吉な咳のようにカタカタと妙な音がしてドアが開閉した。彼女はそんな音には一切の注意を払わずにドアの目の前の道を真直ぐ直進する。突き当たりにエレベーターがある。手塚の指が先に伸びて、殆ど自動的に上りボタンを押した。彼女は少し、困ったように微笑む。最上階を押す。インジケーターの光と共にガラス張りのエレベーターが登っていく。時々思い出したように揺れる。手塚は地上に目を向け、閑散とした町だと思った。彼女は何も言わなかった。握った手が冷たかった。


チンと軽い音とともに扉が開く。辿りついた先は小汚いデパートの屋上だった。ホットドックとメロンソーダを売る売店があり、100円を入れて動くパンダやくまの乗り物があり、手塚が乗ったら倒れてしまいそうなメリーゴーランドがあり、五つしかゴンドラの無い観覧車があった。頭上にはレールがめぐらされ、ペダルで動く犬の乗り物のようなものもあった。遊園地と言えなくはない、と手塚は思った。少なくとも観覧車はあった。彼はそれで、観覧車、と口に出して言ってみる。彼女は振り返って正解、と人差し指を立てた。遊園地ときたら、観覧車がなくっちゃあね。彼女は彼から手を離して財布を取り出し、券売機で観覧車用の券を買った。管理の男は券を受け取りながら、化石を見るような目で二人を見ていた。そこには二人のほかには誰もいなかった。静かでとても静かで寂しくて、ふたりのための場所だった。手塚は一度目を閉じて、開いて、彼女の促すまま、ゴンドラに足を乗せる。係員がドアを閉める。ゴンドラがあがっていく。さっきエレベーターの中で見た景色と、殆ど変らない灰色の町が眼前に広がる。ぎしぎしと常に音がして、強く揺らせば落ちてしまいそうな不安定さだ。手塚は目を閉じた。落ちたらいいと思った。落ちろ。落ちれば永遠に終わりは来ない。


「先生、」
「私も好きよ」
「なら、違う所へ行きましょう。俺はよくわからないが、友人には詳しそうな奴がいます」
「駄目よ」


好きな人と行く遊園地は特別なんだからね。彼の迎いに座る彼女は目を合わせようともしないまま、外を見ながらそう呟いた。はじめての女の子を連れて行ってあげなさい。彼女がそれを、自分がまだ彼女の肩ほども身長がなかった頃の、この問題を解きなさい、と同じ口調で言うことを、彼は心底苦々しく思った。彼はまだ子供で、彼女はもうとっくに大人だった。それでも諦めきれずに、あなたがはじめてになればいい、と押し殺したような声で迫る。冷静で鋭いが普段は柔和なはずの瞳は明らかな熱を持って彼女を睨んでいる。しかし彼女はただ、軽く、こだわりなく、さびしそうに笑うだけだった。向き直ると、薄茶の双眸に彼の顔がうつる。普通より狭いゴンドラだ。彼女の伸ばした両の手は彼の左手を容易く包んだ。ごめんね。私とじゃ駄目なのよ。知っていた。何もかもが駄目だった。自分の家族も喜びはしないに違いないし、きっと彼女の両親は許さないだろう。法律すら彼らを許さない。責任の二文字が彼の脳裏を踊る。


「俺はどうしたらいい」
「どうにもしなくていいよ。私のことなんて恨んで忘れなさい。」


子供の憧れなんてそんなものだわ。手塚は言葉を返せずに黙って首を振った。彼女も何も言わなかった。観覧車は二周して止まった。彼らは黙ったまま手を取り合ってゴンドラを降り、売店でホットドックとメロンソーダを買って食べた。予想に反して悪くない味だったが、食べた気がしなかった。食事が終ると彼女は来た時と同じように彼の手を引いてエレベーターに乗り、一回を押した。町は相変わらず閑散としていたが夕日がオレンジに色づいて、さきほどよりは生き生きとして見える。百貨店の前で彼らはお別れをした。彼女が買いたいものがあると言うのだった。この町で買わなければならないものとは一体なんなのか手塚にはわからなかったが、彼女のことでわかることなんてきっと自分にはひとつもないのだと彼は思った。頷く。これで最後なら餞別に何かと彼は思い、鞄の中を探る。奥底に古い黄色の魚を模したルアーが出てきた。それしかなかった。彼は何度か鞄を引っ掻き回してしかたなさそうに彼女の目の前にそれを差し出した。彼女はおかしそうに笑って御礼を言った。「ありがとう。」


手塚は彼女が何かを渡したそうにしている事に気付いていたので、暫く黙ってそれを待っていた。しかし彼女は結局、鞄を背負いなおすと、仕方なさそうに微笑んで、軽い敬礼をした。初めてであった日、彼の自室の前でそのようにした彼女の挨拶だった。声色まではっきりと思い出せる。ヨロシクね、国光くん!今日からきみの先生になります。あの日はそう言って笑ったのに、今度は違った。さよなら手塚くん。彼女が自分に何か残すことを全て諦めたのだと彼は悟った。あっさりとして、取り付く島の無い終わりだった。かつてと同じように、はい、と彼は堅い声で言った。自分だけがあの頃に取残されているような気がした。彼女はそのまま踵を返して、雑踏の中に紛れていく。人波に赤がちらつくたびに心臓を刺されるような想いがした。やがて完全に姿が消える。手塚は身を翻し、駅へと足を進めた。ルアー一つ分軽くなった鞄を持って、彼女のことを思い返してみる。好きだと初めて告げようとした日のこと。彼女は結局一度だって手塚に好きだと、そうだと、言わせなかった。いつも先に彼女が言った。あの日も今日も。想いの伝わった日に彼女が家庭教師をやめて、それから会えるのは彼女の大学帰りの駅から家までの間、暗くなってからだけ、それだって、思い出にもならないような、誰とでも通った道だけを選んでいたように思う。きっとずっと何かの痕跡を残さないように努めていたのだ。彼女は、手塚の初めての女の子の為に、全部を残しておいたのだ。


だが、と手塚は思う。そんなことは全然、大したことではない。誰が哂っても、彼女が哂っても、自分にとっては特別だったのだ。居間で勉強を教えてくれた長い指も、誰とでも通る道を一緒に歩いた帰り道も、彼女に関る全てが好きだった。大切だった。たとえ後に何も残されなくても、忘れるはずがない。


貴方が好きだ。誰よりも。貴方が、初めての人だった。初恋だ。






初めての人