「丸井」


と、丸井のことを正直に丸井と呼ぶと丸井は決まってちょっと不機嫌そうに大きくて丸っこい目をしかめるのだが、それは私たちが同じ小学校で六年連続同じクラスに居たという快挙を成し遂げた上、顔も良く成績も良く運動も出来たブンちゃんはクラスでもそれはもうモテモテ、クラスの女子に好きな男の子ランキングを付けさせれば全体の三分の二はまず間違いなくその名を一番上に書くだろうというアイドル、その頃は成績も良くかわいらしくツインテールなどしてちょっと男子ー!掃除しなさいよー!という委員長気取り甚だしい女子の中心にいた嘗ての私とはお互い意識し合って回りも意識させあっていた、というような恥ずかしい関係だったからである。ヤバイ。全体の三分の二、生徒総会で法案も通るというブンちゃんのモテ度がヤバイことは勿論だが、私がちょっと男子ー!系女子だったことが何よりヤバイ。なんとまあ思い返すたび顔の熱くなる日々であることよ。思い出の重さに耐えられないので懐旧はこれまでにしておくとして、本題はその昔私は丸井のことブン太と読んでいて丸井は私のことをと呼んでいたという話である。中学も三年目に突入した今でも尚、小学生だった頃と変らず社交的で人当たりがよく女にモテる丸井ブン太は、他人に態々溝を空けるような発言をされると腹を立てるのである。丸井は薄い緑色のガムをぱちんと弾けさせて微かに寄せた眉間の皺を伸ばし、一瞬とても冷めた顔をしてから、何だよ、と言った。彼の苛立ちの原因まで完璧に知っていてそれでもそのようにしている私が今更その冷淡な響きに傷つく筈もない。逆に何だか面白いような気がする。風に浚われていく髪を押さえて少し笑った。


「誕生日オメデトー」


屋上の柵に寄りかかって座る丸井の上に、薄い桃色の柔らかい布袋を落とした。中身がマドレーヌだと既に知っている私などいかにも女の子らしくかわいらしい体裁のその小包を見ているだけで胸焼けを起しそうな心持がするけれども、胃袋にコスモを持つ丸井は違うようで、先ほどまでの不機嫌や不愉快は何処に飛ばしてしまったのか、大きな目を輝かせて小包を両手に掲げた。


「マジかよ。お前、」
「私からじゃない。カードも付いてるヨ。」


胸ポケットからこれまた愛らしい、ハートのシールで封をされた、ピンクの小さな封筒を引っ張り出し、丸井の眼前に突きつける。なんとも因果な話だけれども、私と丸井が昔仲が良かったという話に妙な尾鰭が付いてそれなりの頻度で宅急便を頼まれるのだ。少なくとも私が嘗てブンちゃんの彼女に最も近い女と言われていたことを知っていたら、こういうものを渡させたがりはしないだろうと思うので、多分本当に妙な尾鰭なのだろうと推測する。中学入学以来クラスも離れ、様々な女を侍らせ始めた丸井と出ない杭は打たれないことを知った私では親密だったようにはとても見えないのだろう。まあどうでもいいけど。丸井は一瞬笑みを凍結させて、思いっきり顔を顰めたあと、溜息をついてマドレーヌの袋のリボンを解いた。宛名の確認もしないまま、貝の形の焼き菓子をむんずとつかんで口に突っ込む。そういう食べられ方されたかったわけじゃないだろうなあと思うが、仕方ない。自分に焦がれて欲しいなら自分で渡せばいいのだ。丸井を狙っている女の子にアドバイスするなら、それは「貢物は自分で渡せ」ということだ。気の多い男なので、その場はそれなりに気をかけてくれるのである。本当にそれなりに、であるけれども。


「お前からは?ねーの?」
「オメデト言ったじゃん」
「ありがとな。言葉じゃ腹膨れねーけど、嬉しいぜ」
「どういたしまして。喜んでくれて嬉しいわ」


丸井が皮肉たっぷりに言葉を吐き捨てるのには皮肉で応戦して、用もすんだ私はさっさと教室に戻ることにする。四月半ばとはいえ、屋上は未だ寒いのだ。制服の上から腕を摩った。踵を返してドアに向い、肌があわ立つほど冷たいノブを捻る。背後で唸り声がした。何事かと思ったが此処には今私と丸井しかいないようなので、丸井以外の原因はない。呆れ顔を作って振り返ると二個目のマドレーヌを口に半分咥えた男が寝転んで、じとりとこちらを恨めしげに睨んでいる。いかにも間抜けな光景だが、青春っぽい絵にはなっていた。昔からそういう、絵になるジャンルの男なのである。呻き終えた丸井はコンクリートの地面に綺麗な頬をくつけて、「お前・・・ホント何だよ・・・」と言った。


「何がよ」
「俺の可愛いは何処いっちまったんだって聞いてんだろぃ。出せよ。今すぐ」


寝惚けたこと言ってんじゃねえよ。まずがお前のものだったことないからな。と私は思うのだがしかし彼が勘違いしてしまうのも無理からぬことだったような気もする。昔の私はブンちゃんにあげるためのお菓子を毎日こっそりポケットに忍ばせていたわけで、口にするのどころか記憶を呼び覚ますのもいやになるような恥ずかしいことも結構していたし言っていたのである。脳髄から噴出しそうになる思い出に無理矢理蓋をして肩を竦めた。冷たいドアに背中をつけて寄りかかる。


「そんなに可愛かったっけ」


可愛かったに決まってんだろ、と丸井は呟いて、身体を起すと立ち上がって制服の砂埃を払い、柵に寄りかかった。地面に向けていた視線を私に流す。色の綺麗な双眸は、まっすぐで力強い。


「俺がマジで好きだったのはお前だけだぜ」


そこで、笑わなかったら100点だったのに残念な男だ。凄艶と言っても過言では無い丸井ブン太極上の微笑は私を現実に引き戻すには充分な威力を持っていた。この美貌で無邪気などありえない。ありえないのだ。この男は女がどうすれば言う事を聞くのか知っている。そのようにして丸井には彼女がいることを思い出すとともにどうせ似たようなことを違う女100人に言っているのだろうと悟った私は即座にときめく心臓を握り潰して笑顔を貼りつけた。


「ウッソー!もブンちゃん好きだったー!滑り台の次にー」


誕生日なのでサービスで序に投げキッスもつけてやる。丸井は一瞬すごい顔、それから例の冷めた目をして、ガムを膨らませたまま器用に「あーマジうぜー」と吐き捨てた。私の尺度で考えると、彼女いるのに女口説く男のほうがどう考えてもうざいが、喧嘩するのも面倒なので、ひらひらと手を振ってドアを引く。重い音を立てて閉まるのを背中で聞いて階段を早足で下りた。教室に向おうかどうしようか考えて、行ったらきっと丸井にマドレーヌを届けさせた彼女が報告を求めるに違いないことを思い出してやめる。あてどもなく階段を下りて中庭に出た。無駄な行動である。もうすぐ休み時間も終るだろう。もしかすると今から急いでも教室に着く前にチャイムが鳴るかもしれない。しかしそれはさほど深刻な問題ではなく、というか今の私にはどうでもよかった。


校舎に四角く区切られた、抜けるような青空を仰いで、深く嘆息した。黴が生えた恋心をときめかせたことをどうして否定できようか。何せ私が昔丸井のことをブン太と呼んでいてブン太が私をと呼んでいたのは純然たる事実で、いくら『昔』とセピア色をつけて語ってみても、私たちが小学生だったのはほんの二三年前の話なのだ。もうどうしようもない。本当に、どうしようも、ない!お前だけだと丸井が言ったことを、「似たような事を違う女にも言っている」と思ってしまったことなど、本当に馬鹿げた子供の戯言である。「同じ事」を言っててもおかしくないだろうに、そんなことわかっているのに、「お前だけ」は私だけなんだと、愚かにも信じているのだ、私は。なんと幸せな頭の女だろう。でも多分あっちもそうで、丸井だって私の中で自分が特別だと信じているだろう。馬鹿二人が雁首揃えて滑稽である。頬を焼いた熱はすぐに冷めたが、誰かが私と丸井のこの阿呆らしい攻防を笑ってるような気がして、その日一日恥かしかった。



ハッピーゾーン