芥川のこと可愛いとか言って甘やかしている馬鹿女全員死ねと教育実習最終日に家についてきたいかにも愛らしい面の少年を振り払えずに中に上げてまんまと食われた私なぞは思うが矢張りというかやっぱりというか少数派らしく彼の女性人気はとどまる事をしらない模様である。かく言う私も大学生の時分は嫌だったらやめるけどセンセー俺のことキライ・・・?と真上で困ったように笑ったあの甘いマスクに騙されてなし崩しに足を開いたことは事実なので誰に愚痴を言うでもなく胸の中に燻るように呪いを抱くのみだ。頗る簡単に流され七つも下のガキの玩具にされた22歳の自分をぶっ飛ばして簀巻きにして海に返してやりたいと常々思うがあれから5年の月日が流れ去ったにもかかわらず未だ人類は時を遡る術を持たず、また少女でない私には時をかけることもできず、目の前でラーメン啜りながらにやにや笑ってる20歳の芥川は「成人って未成年に手ぇ出すとインコーって犯罪なんだって。センセー知ってた?」とかなんとか言うので爆発寸前にイラついた私はポケットからハイライトを引っ張り出して火をつけた。俺煙草嫌い、というのはこのくそガキが本当にガキだった5年前は勿論のこと、2年前に大学の入学式の日に私の研究室に突如現れて悪魔のようにかわいらしい笑顔でひさしぶりセンセ、と手を振って見せて今に至るまで、さんざっぱら言われ続けているので今更気を使って火を消すような必要は全く無い。芥川があの日のことを揶揄するような話題を引っ張り出すときはいつも彼が食べてるものの代金を私に払わせるつもりのときで、どうせこのラーメンの勘定も私持ちなのだから煙草ぐらい許せと思う。小銭入れから五百円玉を二枚引っ張り出してテーブルの上に置いた。「センセーマジマジ優C〜大好き〜」と語尾を延ばして言う芥川を無視して煙を吐く。貧乏人の癖にわりと頻繁に飯を奢らされているのだが金銭面など瑣末なことである。本当に問題なのは煙草をやめろと言われるたびにそれを耳元で囁かれた日のことを自動的に思い出しそうになるのをいつも紫煙の漂う先を見つめてやり過ごしていることだろう。時を遡るのが無理ならばせめて記憶を消したい。


芥川慈郎(20)はクソ野郎である。芥川慈郎(15)から既にその片鱗は見えていたが今や押しも押されもせぬ立派なヤリチンに育ったので嘗てのように彼への悪評を憚る必要はあまり無い。顧問の榊教諭とはなんらかかわりもないにもかかわらず何の因果か男子テニス部の活動を手伝わされる羽目になった気の毒な教育実習生であった私は当時中学生だった氷帝男子テニス部の面子とはなんだかんだ馬が合って、彼らが成人し同じ大学に通っている今では時々ご飯を食べることもある仲だが、最近はいかに口汚く芥川を罵ろうと誰も反論しないのだから芥川の素行の悪さも推して知るべしというものである。芥川にはことに甘かった忍足、陰口の類をいっとう嫌う宍戸すら睨まない。誰もが呆れたように溜息を吐くのみである。そんな縁なら切ってしまえばいいと自分でも思うのであるが先述の通り、自らの犯した淫行という罪の重さに耐えかねて教師を断念し、ずるずると大学に残っている私を、芥川が全力で構ってくるのでもうどうしようもない。エスカレーターであがってくれば自動的に同じ大学の学生になるのだと、彼が入学式の直後私の研究室に突撃してくるまで失念していた私は大概頭が弱い。それにしたって学部が違えばあわなそうなものだというのに向こうから容赦なく絡んでくる。研究室に平気で顔を出して私より馴染んでいるというのだから最早開いた口が塞がらぬ。転学部進める教授までいるらしい。本当に死ね。


私が死を願っているのは芥川ではなく彼を甘やかす人間である。呪おうにも私には彼に対する負い目がありすぎるのだ。私が彼と一夜の過ち(昼間だったが)を犯したのは私の不徳の致すところであって芥川に責任は無い。彼は当時中学生だったのだ。映画は千円、病院は小児科の子供である。誘惑に負けた私が100%悪い。そう。淫行は犯罪である。出家するような思いで教師を諦め二度と恋はしない、結婚もしないと決めたが結局何も償って無いし逃げただけだ。私は断るべきだったし断れなかったなら警察に自首するべきだった。だからあのことで芥川をどうこう言う気はない。ない、けど・・・成人してまで七歳も年上のババアにまとわりついてからかい続けるって、あんまりにも性質悪いんじゃないだろうか。確かに私が悪かったけど、誘ってきたのは芥川なのだから、黙って無視するぐらいの寛容さは持っていてもいいんじゃないのと言いたい。一度痺れを切らして出頭すれば満足するのか尋ねたことがあったのだが、そのときの芥川ときたら氷のように冷たい目をして私を睨んで地味な嫌がらせをしかけてくるようになったので益々出方に困った。彼は一体私にどうしろというのか。一生ちまちまやわらかな脅しを受けて食事をおごり続ければいいのか。それとも責任とって付き合えとでも。馬鹿じゃないのか。子供の遊びだ。大体芥川にだってその気があるようには見えない。淫行の件でからかってくるということ自体、あれがもう彼にとっては過去の話なのだろうし、それに。


「あれ?ジローじゃん!」


ほらこれだ女である。学食のメニューになぞらえて週替わりラーメンと呼ばれている芥川の女たちだ。お盛んなことである。心底うんざりしている私は反射的に煙草を灰皿に押し付け席を立とうと腰を浮かせたがテーブルに置いた手を芥川がきつく掴んだので、ずらしたヒールの踵が椅子の足に引っかかって耳障りな音がしただけの大損であった。睨みつけたが何処吹く風で、芥川は私の手を離さずに顔をいかにもきつそうな女子に向けてにっこり笑顔を作った。元がいいのでかわいいけれどいやな笑顔だった。


「何してんの?」
「んー。みりゃわかるっしょ。デート」
「へえ。今度は年上?ほんっと遊ぶの好きね」



二人とも笑顔だが空気は最悪だ。華やかなパーティーの絵に灰色の絵の具で色を塗ったみたいに見えた。笑顔なのにあきらかに面倒くさそうな芥川と、芥川に向って微笑みながら私を睨み続ける女子、両方とも器用なことだ。悪夢である。凄まじく帰りたい。帰してくれ。女は繋がったままの私と芥川の手を意図的にだろう、視界からはずしながら冷ややかに私を見据えて数秒後、にっと笑った。怖気付くほど邪悪で、それでいて、いや、だからこそ色っぽい笑みだった。芥川と一緒にいるとこういう顔をする女とよく顔をあわせることになる。私は痛む胃をあいているほうの手で抑えた。女は私の煙草を指差して甲高い声で笑った。


「またハイライトだ。ジローに買ってもらったんですかあ?」


得意げな彼女の言葉の意味を図りかねて私は首を傾げる。


「また?」


確かに私は成人してからかれこれ七年ずっとハイライトを吸い続けているが、彼女とは初対面であって私の煙草の嗜好を知っているとは考えがたい。そして誓ってもいいが芥川に煙草を買わせたことは無い。先ほどのとおり芥川は私に禁煙を勧める側である。呆けたままこれと言った反応をしない私に痺れを切らしたのか彼女はわざと高く嘲笑しながら解説を始める。


「ジローって何にも買ってくんないけど煙草だけはくれるんですよお。吸わないって言っても。フェチなの」


だからジローの彼女やってたコ皆ハイライト吸ってんの!あんたもそうでしょと彼女が言外に告げるのだが私には心当たりがさっぱりない。というか芥川お前煙草嫌いなんじゃないのかと首をずらして目の前に座って、女を見上げている横顔を眺める。立ち上がる気力などなくなった私の手をいまだ握り締めたままの芥川は、眠そうな目、いや半眼なだけの、ただ冷たい目で彼女を見て一言こう言った。「違う」


「はあ?何が」
「順番が。センセーがハイライト吸ってっからおめらーにあげるの」


おんなじ匂いするデショ。と芥川がへらっと笑って女が世界の終わり、或いは憎悪の権化のような顔をして私の頭に氷水がぶっかかったのが同時だった。気が付いたら彼女は店を出ていて、店内が一瞬静まり返って慌てた店員がタオルを持って走ってくるのが見えた。芥川はあーあ。と溜息のような声を出して私に向っておしぼりを投げる。手を出さずにいると綺麗な弧を描いてスカートの上に落ちた。彼は黄色っぽい金の髪を揺らして小首を傾げる。気だるげに笑って。


「芥川」
「何?」
「あんた、ひどいよ」



芥川は笑ったまま首を振った。


「ひどいのはセンセーでしょ」


俺のこと好きになってよ。 それはたしかかつて一度言われたことのある台詞で、未だ捨てずに持っていたとは知らなかった。呆然としたまま寄ってきた店員に詫びつつタオルで髪を、ブレザーの肩を、拭いた。水で冷えたせいか頭は冷静で心臓もとくにうるさくはない。ただただ、芥川が、そしてそれ以上に私自身が、どうしようもない人間であるように思われた。本当に、どうしようもない。芥川の言い分どおり、私は彼を恋愛対象として見ない理由をいくつもいくつも打ち立てながら、彼をきちんと拒絶したことが一度もなかった。今もそうだし、あの時だって。応えられる筈がないのに。私は半分以上残ったシガレットケースを指で弾いて芥川のほうへ滑らせた。水で濡れて巧くは動かない。タオルをたたんで立ち上がり、コートを着た。いつのまにか離されて、自由になっていた手は、決別のあいずのように思われた。立ち上がって座ったまま半眼の芥川を見下ろす。


「もう会わない。今日で終り」
「大学で会うじゃん」
「これ以上絡むなら大学やめるわ」


何それ、という芥川を捨て置いて私は踵を返し、自動ドアを出る。ともかくもう会うまい。お互いの為にならない。外はとっくに夜の帳が下りていて、ネオンと車のライトで照らされている歩道を、肩をすぼめて歩く。風は刺すように冷たく、濡れた頭はひどく痛んだ。溜息を吐くと白い。鼻がむずむずしてくる。コートの襟を掻き合わせたが、中のシャツが濡れているので冷たいだけだ。体温が奪われていく。けれど、多分好都合だった。冷たさに集中して聞える音全てを無視したかった。夜に馬鹿みたいな音をさせて走り去るバイクも、ばたばたと走ってくる運動靴の足音も。追いかけてくる男を知らないふりで捨ててしまいたかったのか、それとも追いついてもらうために走らないでいることへの口実なのか、自分でもわからなかった。多分、後者なんだと思う。私はずるい。酷いのだ。芥川の言う通り。会わないのが、それが、芥川にとっては一番いいのだとわかっている。でも会いたくないとは言えないのだ。私は私の望みを知ってる。二年前、背丈の伸びた芥川が私の前に再び現れたとき、私は嬉しかったのだ。私だけが本気になることが怖かった。目が熱い。泣きそうだと思う。例えば、と考えた。初めて考えることではない。それは今まで何度も何度も考えて、私を打ちのめし続けてきた空想だった。例えば、あのとき、私が、中学生とは言わない、せめて、高校生だったら。


曲がり角に差し掛かると、車が目の前を横切って、私は一度足を止めた。足音はもうさっきよりずっと近づいて、息遣いすら耳に届いた。タクシーが通ったらとめていただろうが行きかう車は乗用車ばかりで、そもそも来たとして本当にとめたのだろうか、耳元に息がかかって、腹に長い腕がまわる。水気のぬけ切らないシャツが押さえつけられて肌を冷やす。あの頃素足の私より小さかった芥川はもう、ヒールを履いても私をすっぽり包めて仕舞うぐらいに育って、大人になっていた。知っていた。首筋をそれだけは相変わらずやわらかい髪がくすぐる。


「せんせい」
「何?」
「煙草忘れてったよ」
「置いてったんだっつの。やめるから」


捨てていいと言おうとした口を芥川が引き寄せて塞いだ。触るだけの中学生みたいなキスだ。誘惑に弱い、馬鹿な私を浸らせるには充分に甘い。唇がはなれて、一瞬、なんと言ってこの子を振り払おうか考えた私は、自分の身の程を思い知らされることになる。私がいかに無力で惰弱で傲慢で、彼の強かさの足元にも及ばない存在であることか。街灯に照らされた芥川は、さきほどの私の拒絶などなにもなかったことみたいに能天気に、中学生みたいに嫌味なく笑った。無邪気さに、それでいて不敵な色を乗せて。私の如き凡人が、かなうわけがないのだ、こんな男に。


「マジマジ超嬉C!俺煙草嫌いだC!」


もう、どうにでもしてくれよ。





ハイライト心中劇