泥濘に足を取られている。否、足だけではない。自転車の後輪もだ。見渡す限りに広がる砂糖黍畑のど真ん中。暦の上では夏も過ぎたというのに何がそんなに楽しいのか太陽は8月頃と変わらない強さで地上に降り注いでいる。日焼けするのが嫌で着ていた長袖のジャージを脱いで、前籠の荷物の上にかけた。大きな布の袋にはひとつひとつラップでくるまれたおにぎりが山のように入っているのだ。この日差しを受け続ければ悪くなってしまうだろう。後ろの籠には麦茶がたっぷり入ったドリンクサーバーが鎮座している。だから後輪はぬかるんだ地面にめりこんで前に進まない。暑い。暑い。熱い。わたしは自転車を押す足の力を緩めた。全部捨てて逃げ出したいと思った。海に誰がいようがどう苦しんでようが何を待ってようがわたしには何も関係がないように感じられる。下を向く。音が聞えない。只管暑いだけだ。わたしは一体何をしているのかと思う。これは時間の浪費である。どうしてこんなことになってしまったのだろう。何一つ必要な事をこなさないまま中学三年の季節が終わりにむけて進んで行く。わたしには無限にやっておくべきだったことがあったように思われる。たとえばお洒落をするとか友達と遊びに行くとか好きな人とデートするとか、そういう月並みな青春をなぞることだ。実際のわたしがしていることはなんだ。思い出といえば雑用、雑用、雑用。目の前の現実すら、雑用。確かにテニス部には好きな男がいたが、そしてそれは彼氏だが、だからどうしたというのだろう。寧ろそんなものいないほうがよかった。彼を好きになったことでわたしが受けた恩恵などなにもない。恋などすべきではない。惚れた人間が負けるだけなのだ。力なく足を踏み出して虫の這うような速度で歩きながらわたしは考える。


中一の夏、愚かなわたしは自分の運命を自分で絶望モードに設定した。そのころ、わたしの手はまだこんなに皮が厚くなかった。色だって白かった。今より少し背が低く、今よりずっと夢見がちだった。夢見る夢子さんだった。同じクラスのテニス部の男の子のことを好きだった。そうしてそれを告白した。あの力の無い身体の何処にそんな行動力があったのか自分でもよくわからない。とにかくわたしは彼をそこで告白すれば叶うという大量生産的歪さのある伝説の木の下に呼び出して想いを告げた。そういえばあれは何の木なんだろうか。知らない。実もならないし、いつもありふれたはっぱの形をした葉を繁らせている。どうでもいいけれどきっと少女の夢をかなえる力はないだろう。まだ髪型を一時間十五分かけてセットしていなかった彼は風に浚われた髪を押さえて「そう」と言った。「じゃあ付き合う?」行儀の良い犬のようにわたしは返事をした。「はい」


翌日から地獄が待ってた。あの男は恋人とは奴隷であると勘違いしているらしかった。かくしてわたしは彼とテニス部の両方に奉仕することになったのである。ふざけてる。何が恋人だ。デートなど一度もしたことがない。詐欺だと思う。私がしていることは専ら彼とテニス部に纏わる雑用である。しかも、通常ならもう部活も引退しているはずなのにあの男ときたら未だ部長面して練習にも出ているし、自分が出るのは勝手だが部員全員強制参加、しかもわたしも含むとかもう本当にありえない。もう大会も終っているのに。いや、彼や彼らがテニスに真剣であるのは、いいのだ。わたしが問題視しているのはわたしのことである。わたしがここにいてこんなに苦しんで一体何が生まれるのだろうかと思う。何も生まれない。森に新芽は芽吹かないし、新しい惑星も誕生しないし彼らのテニスの技が上達することもない。わたしがいなくなったらきっと彼らは少し困るだろう。でもきっと平古場や甲斐がかわりに手伝いの女を手配するに違いないのだ。コートに立たないわたしは代わりのきかない存在ではない。誰にでもできることでこんなに苦しんでいる。何の益もないし誰も楽しくない。擦り切れたスニーカーの底はぬかるんだ泥で重い。顎の先から汗が落ちた。引き摺るように歩みながら、あの無駄に端整な顔を思い浮かべてみたけれど、何処が好きだったのかもう、思い出せなかった。想いなんかとっくにさめていたのだと気付く。この自転車を置いたら帰って化粧して遊びにでかけようと思った。なんて無駄な三年間。どうにか自転車を押し続けて砂糖黍畑を抜けると白い砂浜。自転車のスタンドを立てて、ジャージを着なおし、おにぎりの入った袋を背負った。麦茶の入ったタンクを両手で持ち上げる。なんて言って終わりにしようか考えていた。足取りは不思議と軽い気がした。いつもなら叫んでいるはずの部員たちの声も蝉の声もなにも聞えない。耳に届くのは自分の浅い息ばかり。浜でビール瓶持ってる晴美が見える。部員はみんな海。一番初めに振り返った男は形のくずれた髪を掻きあげながら言った。


。随分遅かったじゃないですか。」


何処で遊んでたんですと言うだろうと思った。それが終わりの合図だ。わたしはドリンクを置いて待っていた。けれど永四郎は予想した続きを言わなかった。部員を置き去りに一人海から出て、鞄置き場からタオルとジャージを持ってくると、わたしの頭の上にかけた。


「具合わるそうだね。休みなさいよ。水飲んで」


部員のはしゃぐ声が聞えた。蝉。波の音。泥だらけのスニーカーに砂がついていることが急に恥ずかしくなった。愕然とする。終ったと思った。わたしの青春は。終ったのだ。ああ。さっきまでさっぱり忘れていたのに。さめたと、思ってたのに。頭にかぶさったジャージから永四郎の匂いがして、立ち尽くすわたしはこんなにも自分を幸福にするものを他に一つも思い付けずにいる。





→特急苦界行き→