『ホテル・アイリス』小川洋子1996年




「ホテル・アイリス」


私がそう言うと、柳くんは一瞬、布団で寝返りを打ったときに何か硬いものが背中に当たった、みたいな顔をした。小川洋子のか、と確かめるように呟いて、ふむ、と顎に指をあてる。彼の言いたい事が私には自分のことのようにわかったと思う。言葉を捜す沈黙の後、柳くんが変っているなと言ったので、多分私の予想はそれほど間違ってはいない。倒錯的だなとか、破滅願望があるのかとか、言いたいのを我慢したのだと思う。そしてそれは、目下の話題だった、私の好きな本に対する感想ではない。私がそんな本を好きだと、柳くんに言ってしまったことに、彼は困惑したのだ。『ホテル・アイリス』には、女の人を痛めつける性癖の男性と、その男を愛する少女が出てくるのだった。少なくとも、よくしらない異性に、一番好きだと紹介する本ではないのだ。私達はそれほど親しくはない。少なくとも、性癖の話をするほどには、親しくない。私にとっての柳くんは、部活がテニス部で、私の幼馴染と同じ部活であるという、ただそれだけの人で、柳くんにとっての私も同じだ。交わした言葉は大して多くない。何故この人に『ホテル・アイリス』が好きだなんて告げたのか、私にもよくわかりはしなかった。頭は深海の魚みたいに冷たく冴えていたけれど、胸には色々な思いが渦巻いていた。軽い吐き気を感じて、私はハンカチで口元を押さえる。一番強い理由は、告発なんじゃないかと思う。ホテル・アイリス。小川洋子の長編小説だ。私はこの本に小学六年生のときに初めて読んだ。そして自分の運命を知った。


主人公の女の子は吝嗇な母親が経営するホテル・アイリスの一人娘だ。名前はマリという。八歳で父親を亡くす。続いて高校生のときに祖父が死に、彼女は母の言いつけを守って高校をやめ、ホテルでの仕事を手伝うようになる。母親は高圧的な人で、彼女は母親に縛り付けられるような人生を送っている。自由な時間はほとんどない。マリの母は、マリの髪に酷く執着している。毎日毎日、椿油をつかって、しっかりとしたシニヨンを結い、そのシニヨンが少しでも崩れれば、母はまたマリの髪を結いなおす。それはマリの母親への絶対服従の印のようにうつる。息苦しい毎日をただただ生きている彼女の前に、ある男性が現れる。初老の男性だ。酷い出会い方をした。彼は、ホテル・アイリスの客だった。女を買って部屋に入った。そして女と諍いをした。乳房を露出したままの女は男性を口汚く罵りながら転がるように部屋を出た。男は女に枕や部屋にある雑貨を投げて、言った。「黙れ」「この売女」と。マリは、その「命令」の響きの美しさに魅せられる。


私は曖昧に笑って、変かなと言った。柳くんは少しだけ困ったように、いや、と言って言葉を濁した。それは世界で一番ぐらいに意味の無い否定だった。ただただ彼の人の良さだけを私に伝えた。気を使われたことは嬉しかった。でも精市ならきっとそうは返さないだろう。人の良い人間ではない。優しいけれど、同じぐらい厳しい人だった。少なくともそう見えたし、彼自身がそうあろうとしていた。多分柳くんも精市のことを優しくて厳しくて正しくて、おおむね善良な人間だと思っているだろう。過失のない人間を無意味に痛めつけたりはしないと信じているだろう。私は精市を深く、あらゆる意味で愛してた。同時に恐ろしいほどに憎んでもいた。私は多分精市が私に救いがたい傷をつけたことを柳くんに間接的にでも伝えたかったのではないかと思う。私と精市は今でも仲がいい。でも私は精市を永遠に失った。もう二度と戻らないところに今私は一人で置き去りにされている。おそらくずっとそのまま。


マリは、町でその男に再会する。命令の響きの美しさを求め、彼の後をつける。彼はすぐに気付いて、二人はたどたどしい話をした。男はホテル・アイリスのある島から遊覧船に乗っていかなければならない孤島に住んでいる。別れ際、マリは遠ざかる遊覧船に向って手を振った。男はマリにお礼の手紙を書く。自分はずっとひとりだった。手を振ってくれたことが本当に嬉しかった。また会いたい、どうかまた会いたいと、男の手紙はマリに語りかける。マリは母親の目を盗んで、男と逢瀬を重ねる。男はロシア語の翻訳家だと言った。島では有名な変わり者だという男は、暴力的な素養を匂わせ続ける。マリは、母親と手伝いの女性が翻訳家の噂話をするのを鬱々としながら聞く。彼女は翻訳家を愛してる。


精市と私が出会ったのは多分生まれる前のことだと思う。母親どうしが友人で、家も近所だったので、幼い頃から良い遊び相手だった。精市は昔からはっきりした子供だった。強くて優しかった。そう見えた。私は精市を見ているのが好きだった。特別だった。幼い彼はきれいな、見ているだけで申し分ないこどもだった。そして、私以外にとっても、精市は特別だった。でも精市が手を握って走るのは私だけだった。私はかつて精市にとって特別な人間だったのだ。それが、自慢だった。私の、何ひとつもってない私の、唯一無二の自慢だった。


何度目かの逢瀬で、翻訳家に招かれて、マリは彼の家を訪れる。彼女はとても特殊な方法で処女を奪われる。翻訳家は紐を使って彼女を縛り上げ、彼女がはじめて翻訳家の声を聞いたときと同じ、圧倒的な命令をする。彼女は痛めつけられる。しかし、それを深く愛してる、おそらくは。彼の住む孤島の中で彼の命令は常に絶対だ。マリは言う事を聞く。黙って足を開き、口で靴下をはかせる。時々母親を思う。母に言えない秘密を、母の知らない背徳を彼女は愛す。


そのとき私は小学五年生だった。その朝、家族みんなで寝坊して、小走りになって、人気の無い住宅街で、見えもしない登校班の背中を追いかけていた。もう少しでコンビニのある角だというところで、黒いワゴンに引きずり込まれた。黄色のナンバープレートが鮮明だった。それからのことは良く覚えてない。大したことはされなかったと思う。もっと酷い目にあった人はいくらでもいるだろう。結果として、私の受けた損害は、綿の下着を奪われて、赤いスカートがちょっと破れたぐらいのことだった。私は坊主頭で、緑のタンクトップをきたその男に飴玉を貰った。内緒だよといわれた。私は頷いた。頷かないと帰れない気がしたから。お昼過ぎに、私は車を降りて、家に戻った。パンツをはいてなかったしスカートも破れていたからしょうがない。母が泣いた。父が怒鳴った。証拠を消さないためといつまでもパンツもはかせてもらえず、破れたスカートのままでいたのが辛かった。


翻訳家にはただひとり、甥がいた。死んだ妻の妹の子だった。ほんとうに偶に、甥は翻訳家を訪れるようだった。甥には舌がなかった。マリは翻訳家の家で甥と三人の奇妙な食事会をする。自分だけのものでない翻訳家に彼女は苛立つ。甥は、翻訳家のしらないところでマリに翻訳家の妻の話をする。話すと言っても、メモに書くのだ。甥とマリは、流れるようにキスをする。ただそこにある決められた予定をこなすように。


警察よりも先に、帰ってきた精市が私を見つけた。私が幼くて、こどもで、性別も無いもののように、母は思っていた。精市がいたほうが私が安心すると彼女は考えた。私はパンツもスカートもはいてなくて、女の子すわりをして、毛布を肩がこるほどたくさんかけられていた。惨めだった。精市に帰ってほしかった。でも同じぐらい精市に大丈夫だと言ってほしかった。でも彼は大丈夫だとは言わなかった。私の名前を呼んだ。切羽詰った、切実な声で、何度も。そして私を見て息を呑んだ。せめるように私に詰め寄った。あまりの剣幕で恐ろしいほどだった。 「どんな犯人だった」
「坊主。緑のノースリーブ。眉毛が太い。黒いワゴン。黄色のナンバープレート」
「ナンバーは」
「ゼロからはじまってた」
そして精市は部屋を出て行った。私の手をついぞ掴まなかった。


甥が島を去ったあと、翻訳家はマリのポケットに甥のメモを見つける。マリは正直に告げる。彼を裏切ったことを。翻訳家はマリを風呂場に入れ、長く美しい彼女の髪を切り刻む。全裸の彼女を様々な形に縛り上げて写真を撮る。外は嵐で、ホテル・アイリスに戻るふねはない。彼らは愛し合っている。夜明けまで。勿論夜は明けた。短い髪を、翻訳家の妻の遺品のスカーフで覆ったマリと翻訳家は遊覧船に乗って島へ戻る。島へつくと、男たちが翻訳家に飛び掛り、マリを抱き上げる。翻訳家は海に逃げる。マリの母親は何度も彼女を呼ぶ。マリ、マリ、お前が誘拐されるなんて。帰宅しなかった彼女は、翻訳家の誘拐によってそうできなかったのだと解釈される。マリの裸を写した大量の写真が見つかる。翻訳家は飛び込んだ海で溺死する。


犯人はすぐに捕まった。精市が捕まえた。真田君と一緒に。彼らは正義のヒーローだった。地元の新聞に載った。精市はやっぱりだれにとっても特別な子だった。でももう私には特別じゃなくて、私も精市にとって特別じゃなかった。彼は二度と私の手を握ろうとはしなかった。私はずっと不思議だった。どうして私の手をとって彼が大丈夫だと言ってくれないのか。ホテル・アイリスを読むまでは。


マリ、お前が誘拐されるなんて。母親はマリの無事を喜んだ。マリの短く切り刻まれた髪は十ヶ月程度で元に戻った。でも二度と母親はマリの髪を結わない。嫌なにおいのする椿油は揮発していつのまにかなくなっている。マリの髪は二度と母親に結われない。


汚れたからだ。汚れたと、母親が思っているからだ。マリは、汚れてない。愛した男としたことだ。それはきっとどんな形をとっても、歪んでいても、間違っていても、汚点じゃない。でも母親は、そう思わない。綺麗なマリは汚されたと彼女は思ってる。汚いマリの髪には触らない。それはもう彼女にとって、神聖さを失ってしまったものだ。信仰されなくなった神の残骸だ。だから精市も二度と私の手を握らない。私はもう綺麗じゃないから。そして、マリよりもっと酷いことに、私は好きな男に触られたわけじゃない。マリの恋がどんなものだったとしても、どんなに歪であっても、私よりマシだ。私は望んで触れられたわけじゃない。望まず、不可抗力に、汚れた。汚されたと自分で思っていることが、致命的だった。


聊か乱暴に、誰かが図書室のドアを引き開ける。顔を上げると精市だった。ぶすっとした表情を浮かべている。柳くんは驚いた様子もなく、どうした精市、と尋ねた。
「別に。、お前呼ばれてるよ。また男変えたのか?節操無いな」
「だって私のこと綺麗って言うんだもん。みんな」
「ああ俺の幼馴染は綺麗だよ。でももう少しちゃんとしたほうがいいと思うね。忠告だよこれは」
でも精市は私をまだ綺麗だという。どうしてそんな嘘つくの。私はときどき自分が汚くて臭い負の物質の塊になったみたいな気がして何時間もお風呂に入って身体を洗い続ける。汚れは消えない。そういうときは電話だ。私を綺麗だと本気で信じてるばかな人に電話して抱きしめてもらうのだ。

「もう私の髪は結わないくせに」

柳くんが息をのんだけど、精市はなんだそれはって表情。彼は自分が私の手を握らなくなった理由に気付いてないのだ。無意識なのだ。それほど雄弁に事実を語るものはない、だから私は救われない。私は今日も私を綺麗だと言う男のところに行くだろう。私がこうなったのなんか全部精市のせいだ。あのときから精市が握れるところなんて私には一個も残ってない。精市を愛してる。あなたは悪くない。だけど一生許さない。



(聖女失墜)