赤也に殴られた。まあ別に大したことではない。いつものことなのだ。真っ赤になった私の右頬を見て正気に返った赤也は涙目になってベッドの足元に蹲り懇願する奴隷のように謝罪した。恒例行事である。算盤がすきで数字に強い私は彼の謝罪の回数を覚えてる、これで通算45回目だ。私はベッドに座って足をぶらぶらさせながら熱い頬を抑え鉄の味がする口の中を舌で撫でて小さくなっている赤也の、あっちこっちに好き勝手はねた髪を見ていた。すいません、ごめんなさい、先輩、許して、と沈黙を怒りと取り違えたのか、赤也は途切れ途切れに言う。私はふと我に返ってベッドから降りて赤也の背中に覆いかぶさり、いいよあたしも悪かったよと形のいい耳に吹き込む。柔らかい耳朶が震える。男物の手が私の手をぎゅうぎゅう握る。例の如く私は全然悪くないがそう言って泣く男を慰める。喧嘩の理由とか、なんだったっけ?たしか赤也が私が二人でいるときに携帯を弄ったのが気に入らないとかで怒って、私は赤也にメールが母親に夕飯を食べるか否かについての返信をしただけなのだということを説明して許しを乞うたが彼が許さなかったのだ。見も蓋もないことを言えば只の八つ当たりだ。全てが気分に左右される奴だもの。機嫌がいいときなら隣で柳と話し込んで赤也を放置して一時間たったとしてもむくれるだけで済ませるだろう。機嫌が悪いときに彼の癪に障る行動を少しでもしたらそれで終わりでまた殴られる。そして我に返った赤也は泣く。私は彼をまた許すだろう。だってほらいつものことなのだし。夕食はおでんで口が痛い私はおなかすいてないと嘘吐いてさっさと部屋に引っ込んで母親にドア越しの愚痴を言われた。「ご飯いらないならいらないっていいなさいよ。」言うつもりだったんだよ本当は。でも私は反論しないで黙ってる。翌日は早起きして親と顔をあわせないようにパンを食べて登校し朝練に向かう途中の柳に会って嫌そうな顔をされる。


「またか」
「開口一番それかよ。おはよう」
「いい加減きちんと怒れ。どうせまた簡単に許したんだろう」
「怒ったよ」
「嘘を吐くな。その甘えは互いの為にならない」
「参謀が言うと説得力あるなあ」
「茶化すな」


金木犀の枝が塀の向こうから垂れて甘い匂いの立ち込めている住宅街を並んで歩きながら柳は始終不愉快そうな顔でいる。道路の向こうから幸村と真田が並んで歩いて来て私の頬を見るなり真田は大きな声で叫ぶ。

!また虫歯か!たるんどる!」

私が最初に吐いた嘘をまだ信じているのだ。真田よりもっと明確に不快そうな表情を浮かべた幸村は真田に肘鉄を入れて真田は馬鹿だね本当にと吐き捨てるように言った。私はもうその射抜くような軽蔑の視線にも慣れっこで肩を竦めるだけである。四人並んで人通りの少ない朝の道を進んで、私はそういえば立海の三強と並んで歩くなんて人に寄ったらものすごい僥倖だろうなと思う。学校に着くと朝練に向かう三人と別れて私はひとりで教室に向かって、授業開始まで本を読んでる。くそつまらない、文字を追うためだけの本である。活字を浪費しながら教室に増えていくクラスメイトを横目になんとなしに見て本の内容とは全然別のことばかり考えている。そのうち友人が来るだろう。そして私の頬の腫れを見て顔を顰めて付き合いを考え直せとかそういうことを言うだろう。これは私の為にならないのだと。私は曖昧に笑って適当なことを言って午前の授業をやり過ごして、そしてお昼は学食に行く。赤也はきっと私に何の含みもなく笑顔で話しかけてくるけれど周りは私の頬を見てああまたやったのか切原は。と思うのだ。こういう態度はなんの益も生まないのだと知っている。柳の言うことはまさしくその通りで一々尤もだ。私は本当はちゃんと怒ってやらなければならなかったしならないのだろう。私が許すと思う限り赤也は私を殴るのをやめない。


だけど考えてみて。殴られて痛いのなんて一瞬で、腫れだってすぐに引く。痕にもならない。しかし切原赤也が彼女を殴った事実は永遠に消えないで私の頬を見た人間全員の心に深く深く根付くだろう。切原赤也。テニス部のエースで顔もよくてノリもよくて歌もうまくてひとなつっこくてでも女を殴る男だと皆思うだろう。私しかお前を赦さないのだと赤也が思えばいい。 本当に暴力を振るっているのは私なのだと思う。私は人を損なっている。跪いて謝るべきは私であって赤也ではないかもしれない。顰め面で私の肩を掴んだ友人に本を閉じて微笑みかけると腫れた頬が突っ張った。痛みさえ愛している。とても深く。愛してるのだ。