すらりと伸びた足の先に、小さな光るストーンのついた黒いパンプスを履いて、黒のロングスカートに七部袖のシャツを合わせている。ゆるくウェーブの掛かった髪は隙間なく茶色で、丹念な手入れが見取れた。小奇麗な子だった。忍足侑士は目を瞬いて入念に彼女の足先から頭のてっぺんまでを見返して、驚いたわ、と殆ど無意識に呟いた。彼女はサーモンピンクのリップグロスに彩られた唇を綺麗にカーブさせて、とても嬉しそうににっこりした。それから驚いてくれて光栄です、と言ってスカートの裾を軽く持ち上げて西洋風のお辞儀をした。顔を上げて、少し不安そうに、似合わないかなあと小首を傾げる。彼は首を横に振って、よう似合っとるよ、と素直な感想を言った。実際、とてもよく似合っていた。


「ええ靴や」
「靴」


ふふと笑いながら彼女は歌うように繰り返す。でしょう、と頷いて自分のつま先を見る。わたし靴って大好き、と彼女は言う。


は彼の中学の同級生だった。三年間同じクラスだったけれど会話をしたのはたった一度きりで、それほどクラスでの活動に精力的だったとは言えない彼にとって、常ならば記憶の端に引っかかっているのがやっとであったろう人間である。しかし彼は彼女のことを、それこそ頭のてっぺんからつま先まで、はっきりと鮮明に覚えていた。痛んで茶色くなった二つ結びの髪の毛先や、洗っても白くならない上履きの古びた色も。忍足は染み一つない白いクロスの引かれたテーブルからカクテルグラスをひとつとって彼女に渡した。は壊れ物を触るようにそっとそれを受け取って大事そうに両手で包み、それから少し口をつけて、傍の壁に肩を寄りかける。


学校で、彼女は目立つ生徒だった。あまり良い目立ち方ではない。氷帝学園は私立の中でも裕福な子供の多い学校で、生徒の大半は上履きも制服も、いくつも余分に持たされていた。彼女はそうではなかった。中学生という枠にそぐわないほど洒落た生徒が殆どだった。彼女は、そうではなかった。丈の短くなった制服を着ていた。化粧品も雑誌も買っていなかったし、痛んだ黒髪は肩に当たってはねていた。だからクラスの女子生徒とは殆ど話が合わないようだった。中学生活の大半を彼女は一人で過ごした。


彼が見る彼女はいつも一人で、本ばかり読んでいた。それもどう見ても面白くなさそうな本ばかりを。彼は彼女に関心がなかった。傍目に、芋臭い女だと思っていた。垢抜けない。軽い苛めを受けているらしいことも知っていたけれど、それすらも興味の対象外だった。早い話、住む世界が違うと思っていたのだ。実際それは間違ってなかった。忍足侑士は制服も上履きもそうでないものも随分余分に与えられていたのだし、関心らしい関心と言えば二度のクラス替えの度にまたこいつ同じクラスか、とふと思ったぐらいのものだ。三年間同じクラスだったのは自分と彼女ともう一人、碌に名前も思い出せない文芸部の男子一人きりだったから。しかし数字的な希少性以外に彼女に目を留める必要性が彼には何一つなかった。


たった一度だけ、まともな会話を交わしたのは、三年の冬、忍足の合宿が終った後のことだった。放課後の教室で彼女はひとりで、当時当たり前のように彼女の顔を覆っていた大きな眼鏡を机の上に置いて顔を両手で覆っていた。水の染み出した古い上履きを床に置いて彼女は静かに泣いていた。忍足は教室のドアを開けてから彼女の存在に気付いて、失敗した、と思った。中学三年生の彼女は自分の席に行儀よく、ただし靴下だけで座って、両手の隙間からちろりと忍足を見た。びくりともしなかった。何もなかったかのように、視線を下にずらして、目を閉じて、やはり静かに泣いた。小さく震える背中は忍足の存在なんて知らない、と明確に語った。気を遣われたのだと彼は理解した。苛められて、泣いている女の子に。


彼は衝動的にポケットからハンカチを出して彼女の前の席の椅子を引き、そこに腰を下ろして、彼にしては聊か乱暴に泣く女の手首を掴んでハンカチを握らせた。母親の買ってきたバーバリーのハンカチだった。彼女は腫れた目でそれを見てふるふると首を振って、自分の袖口で目元を拭こうとした。「ええから、」と強めに言うと彼女は観念したようにハンカチを目にあてた。西日が教室を鮮やかに照らしていて視界一面真っ赤だったが、彼女の耳の赤さが光のためでないことは彼にもわかった。


「しかたないのよ」
と彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「たしかに場違いだもの」


忍足はなんと返したらいいのかわからなかった。面倒くさいと思いながら、困って手持ち無沙汰に髪を弄った。早熟ではあったが所詮中学生の男の子だった彼に、興味のない女の子が苛められて泣いて自嘲しているときの返答例の用意はなかった。そうされる理由を理解していながら自分を変えようとしない彼女自体、彼には不可解なものだった。迷った末彼には珍しく歯切れ悪い調子で、口に出したのは母親の受け売りだった。結局言った瞬間に後悔した。


「ええ靴履くとええとこつれてってくれるんやて」
「せやから上履き、換えたほうがええよ」


もう古いんやろ。彼女は手を顔から離して彼をじっと見た。表情の読み取れない表情をしていた。やらかしたと彼は思った。これでは彼女が汚いみたいではないか?彼は彼女を垢抜けないとは思っていたが汚いとは思っていなかった。古い上履きはどう見ても丹念に洗われているものだったのだ。ちゃうねん、と慌てて続けようとしたところで、彼女が小さく頷いた。


「うん」


潤んだ目は記憶していたより涼しげで少し驚いた。ごめんね、忍足君。ハンカチ、洗って返すから。


それだけのことだ。彼女は濡れた上靴を右手に下げて帰宅し、翌週には新品の上靴を履いていた。貸したハンカチはご丁寧にもクリーニングの袋に入って机の中に返されていた。忍足はたったそれだけの会話を、記憶に付箋をつけたみたいに、鮮明に覚えていた。不要に失礼なことを言ったような気がする、というもやもやした羞恥のようなものが強く残るばかりだった。どうでもいいと思いながらもいつか取り消すチャンスを狙っていたのに、高等部にあがったとき彼女の名前が名簿になくて酷く驚いたのが、昨日のことのようだと彼は思う。彼は眼鏡のブリッジを押し上げながら、「あれからどうしてたん、自分」と10年を取ったに尋ねた。


「あの後ね、」


と随分美しくなった彼女はカクテルグラスのふちをなぞりながら言う。お母さんにひゃくじゅうに回もお願いして、新しい上履きを買ってもらったの。値段覚えてる、学校指定の上履き、3500円。忍足は小さく眉を上げる。ひゃくじゅうにかい。対価が新しい上履きだとすれば払いすぎのような気がした。彼女は楚々と笑ってグラスの中身を飲み干す。あのね、うち、そういう家だったの。服も靴も使えなくなるまで新しいのを買わないの。身だしなみの手入れもお洒落もだめ。そういう家。彼女は遠い夢の話でもするかのように微笑んだまま続ける。あの学校に全然合わなかった。でもあの学校に行ってることが私の親の自慢だったのね。


「三年間耐えて、結局もう駄目だと思って、親にまた何回も頼んで、外部の公立受験したの」
「高等部あがっておらへんかったから、驚いたわ。」
「うん、でも、楽しかったわ、高校」


それから大学受験して、奨学金とって、家でて、就職して、好きなお洋服かって、高い美容院行って、ネイルやって、友達もいるし、今、すごい幸せなの。だからありがとう、忍足くん。彼は唐突に出てきた自分の名前に目を丸くした。


「お礼言われることしてへんよ」
「いい靴がいいところに連れて行ってくれるって教えてくれたでしょう?」


私、あれで初めて私にもいいところに行くことができる可能性があるってわかったの。だから私靴って大好き。毎月お給料貰うと欲しい靴を一足買うの。どんなに高くても。私今、どこにでもいけるし、それに対して誰も文句を言わないし、そこは素敵なところなの、いつでも。今日も、仕事の付き合いでこんなところに来て、イヤイヤだったのに、一番お礼を言いたい人に逢えた。


忍足は黙って彼女が小さく話すのを聞いていた。それからふっと口元に微笑を浮かべて、「俺もええ靴履いとるから、今日こないな美人さんに逢えて、ほんまラッキーやわ」と返した。は耳元を赤くして、困ったようにしながら、くすくすと幸福そうに笑った。





魔法の靴なら星にも届く