隅に石榴の木がある。石榴なんて趣味の悪いアパートだ。赤い実を見ながら苦手なもののことを考えた。いつもどおりじゃないのは嫌い。普通じゃないものは厭。人と違うことはしたくない。クラスで二人しか喋らない標準語が煩わしくてできるだけ黙っていた。真面目で勉強ができるという理由だけで押し付けられたクラス委員なんて本当は全然やりたくなかったけれど、過度に騒いで目立つのはもっと嫌だから受けた。図書委員が貸し出しスタンプを本に押すのと同じだと、学級会で教壇に立たされるときだって、淡々とこなしてた。つまらない人間だと時々言われたし、自覚はあった。だけど、何かに心をかき乱されない生活はとても楽なのだ。彼に出逢ってから尚のことそう思う。私は彼が一目見たときから苦手だった。私がこの世で一番嫌う奇抜さの全てを彼が持っていたから。集団から頭二つぶんも飛びぬけている身長、くっきりと浅黒い肌、校則違反のシャツ、ぼさぼさの髪、どこのかわからない方言、サボり癖も全部。





「皺よっとるばい」


あの日。転校早々屋上で眠りこけて授業をさぼった千歳千里はそう言って私の眉間にかさついた人差し指を当てた。あなたのせいでしょう、と返したら彼はなんだか酷く嬉しそうに笑って、ああこの男は見た目どおりの変人なんだなと私は思った。こんな面倒な役までさせられるならクラス委員なんかやっぱり断ればよかったと口の中で呟きながら千歳くんの手を取って教室に戻るときにチャイムが鳴って、折悪くそのときの授業が一番苦手な科学で、悪びれもせずに逃げようとする千歳くんに本気で腹が立って、思いっきり睨みつけたら、千歳くんはずっと上から私の顔をぽかんと見下ろして、眼鏡にあっとらんね、と失礼きわまりない言葉を吐いた。私は千歳くんを無視してクラスに戻り、担任に事情を説明して次の授業に出た。千歳くんは帰ってこなかった。その次の日も、千歳くんは授業に出なかった。厳しいことで有名な現国の教師は私にまた授業をさぼらせた。千歳くんは中庭の橡の木の下で寝ていた。私が起こすとまた嬉しそうに笑った。私は現国の授業に出られなかった。


その次の日もその次の日も。千歳くんは授業に出なかった。もしくは午前中だけ出るか午後だけ出るか。そんな調子で一ヶ月が過ぎ、先生たちも次第に諦め始めた。一ヶ月後には私が千歳くんを探しに行かされることは殆どなくなっていた。よかったと思った。千歳くんと話すのも嫌なのに、千歳くんのために授業をさぼらなければならないなんて冗談じゃない。ついでに言うと千歳くんを迎えに行きたがる女の子たちも煩わしかった。私は彼に関ることがなくなってほっとしていた。彼は私にとってあらゆる非日常性を凝縮したような人だったから。


なのに。


放課後の図書室で私の足首を掴んだのは千歳くんだった。いきなりの感触に驚いて悲鳴を上げたら、彼は寝転んだままへらりと相好を崩した。ご丁寧にスパッツ、色気なかね、なんて下らない感想つきで。私が感触の正体が幽霊の類でないことを知ってひなへなと床に座り込むと、千歳くんは身を起こして私の手を握ってまた笑った。彼はずっと笑ってる。いつも私ばかりが余裕がない。いきなり何、と尋ねたら、さんのこつ待っとったばい、と耳元に囁かれて、背筋がぞわりと震えた。眼鏡、似合っとらん。初めのときと同じことを言われて眼鏡がはずされる。


「むぞらしかね」


好みばい。私を覗き込む目は得体が知れなくて、本能的な恐怖を感じた。かえして、と喉の奥に張り付いて搾り出し損ねたような声で抗議して、緩んだ手から眼鏡をもぎ取って逃げた。心臓が痛いぐらい鳴ってた。プリントを彼の家に届けるように言われたのはその次の日だった。雨の日で、湿ったプリントを受け取る千歳くんはやっぱり笑って、笑ったまま私の手を引いて家に引き入れた。このひとは普通のひとじゃない。重ねられた唇にも肌を這い回る手にも文句ひとつ言えなかった。その日千歳くんは何にも言わないまま私の身体をしきっぱなしの布団に押し付けて、首尾よく全ての最初を奪った。足の間が痛くて泣いた私に千歳くんはこともなげに口付けて微笑んでた。


って呼んでもよかと?」


今更だめって言ってなんになるの。


千歳くんは私から全部奪っていく自分は何も捨てないくせに。彼の傍にいると私はどんどん普通じゃなくなっていく。彼は何も変わらないのに。搾取されていると感じる。こういうのって遊ばれてるっていうのだ。軽々しいと、かつて迂闊な女の子たちの恋を嘲った罰なのだろうか?





眼鏡も制服も剥ぎ取られて、敷布一枚にくるまって千歳くんの布団に膝を抱いて座っていると、この世の終りはここなんじゃないかしらと思う。だって私こんなはずじゃなかったのに。千歳くんは小さな冷蔵庫の前で缶ビールをごくごく飲んでから私を振り返って缶を振る。私は小さく頷いて投げ寄越された缶ビールを受け取りタブを引いて自棄気味にあおる。投げ捨てられた眼鏡が恨めしげにこっちを睨んでる。いつもどおりじゃない、普通じゃない、人と違うと責めている。千歳くんは私を背中から抱きしめる。巨体に背中をすっぽり覆われると眠たくなってきて、目を擦った。むぞらしかと千歳くんは言うけれど私はその意味が未だにわからない。悪い意味じゃないと思う、だけどもしそれがどうでもいいって意味だったとしても別に驚きはしないだろう。


千歳くんは春には熊本に帰ると思う。言わないけど、そんな気がする。この先の話を私たちはしない。それでいい。私は千歳くんの部屋の窓から見える石榴の木の実がなっているのを指差す。千歳くんはそれを見てあれは甘かよ、と言う。食べたの、と尋ねたら、も食べんね、と返された。石榴の実は裂けて中から毒々しい赤が覗いてる。千歳くんなんか早く熊本に帰ればいいと私は思って、石榴の実から目を逸らした。千歳くんが私から引きずり出したものに、その実はあまりにも良く似ていた。破裂して戻らない。長い指が私の身体をなぞる。あがっていく息を煩わしく思いながら、私はもっと右って言うタイミングをいつまでも見計らってる。





人食い鬼