跡部が留学するというので、私は遂にこの日が来たか・・!と思ってそわそわした。この日、というのは私が跡部に捨てられる日、という意味である。私たちは常に終りを見据えた関係であった。そもそもドがつく庶民の私が何で跡部などという殿上人と付き合うことになったのかというと、それはかつて、そうあれは忘れもしない中三の夏、忍足クソボケが跡部に「ってお前のこと好きらしいで。うけるやろ」と言いやがったからなのだ。私の目の前で。有り得ない。それを聞いた跡部は暫く黙り、私の顔が絶望に満ちているのを確認し、忍足に蹴りを入れて一端部室の外に出て行った。私はその隙に倒れた忍足の頭をパイプ椅子で殴っておいた。許すまじ忍足、七代先まで祟ってやる、などと呪詛を吐いていると跡部が戻ってきて、私の前にふんぞりかえり、「俺様と付き合いたいなら自分の口でお願いしてみるんだな、アーン?」と言った。何で私こんなヤツ好きになったんだっけという思いが一瞬頭を過ぎった。一瞬だけ。継続していればこんなことにならなくて済んだものを。そもそも私は自分とこの男の間に横たわるベルリンの壁の如き決定的な身分違いをよく理解していて、正直跡部と付き合いたいなんて思ったことはなかったのだ。けれども、やっぱりそういうふうに希望をちらつかされてしまうと、私も一応中学生の女の子だったので、好きな人のそばにいられるのならそれがいい、と、甘い夢をみてしまった。バカである。私は跡部に平伏してどうかお付き合いしてください、とお願いした。すると跡部は私の頭を殴り、手を引っ張りあげて立たせた。


「仕方ねえな、お前は」


不満そうに溜息を吐く。それがスタートで、私たちはお付き合いを始めた。





わかると思うけれどそれから私は毎日が絶望だった。跡部は私を仲間としては慈しんでくれていたかもしれないが、恋愛対象としてみたことが果たしてあったのだろうか。なかったと思う。私が自分を好きだと知ったから、付き合ってくれていたのだろう。だって跡部は私のことを好きだなんて一度だって言わなかった。それに、跡部のファンからはそんなことばっかりを毎日言われるのだ。自分で解っていることを他人に繰り返されることほど、鬱陶しく、また傷つくことはない。初めてキスをしたときも、直後は本当に嬉しくて仕方が無かったのに、やっぱり家に帰ったら涙が出てくるし、セックスだって同じことだった。私はこの三年間で自分が跡部に振られるシーンを想像しない日はなかった。ありとあらゆる振られ方を私は考え、シュミレーションし、泣いた。本番で泣くのはまずいので、耐性をつけておく意味もあった。


そんなことをしながらも何とか交際を続けて三年目を迎える今年、お蔭様で私はもう、いつでもばっちこい!というぐらい完璧に跡部に振られる準備ができていた。振られ方についての想像のバリエーションは5000個近くあった。中には巨乳で美人のお姉さんが出てきたり、振袖を着たお嬢様が出てきたり、真冬に身一つで外に出されたり、ラブホテルに置き去りにされるという酷いものもあった。うむ、これだけあれば大丈夫だろう。跡部は奇想天外な男だが、意外とまともなところもあるし、いくらなんだって私の妄想ほど酷いことになるとは思っていない。現に私と跡部は跡部の部屋にふたりでいて、季節は春で、巨乳のお姉さんも可愛いお嬢様も今のところ私の目前に現れてとやかく言うということはなさそうだ。私は安心して跡部の言葉の続きを待った。それがどんなに酷くてもよかった。言葉だけなら大丈夫だと私は思った。私には耐性がある。だって付き合っていた三年間、跡部は全然私に優しくなかったのである。手を引かれるのは怒って引っ張られるときだけだったし、平気で頭を殴るし、優しい言葉なんかかけられたこともない。お前なんか全然好みじゃなかったんだよ、とかかな、と思ってもぞもぞしていると、跡部は私をじっと見て一言だけ言った。


「別れるか」
「そだね」


拍子抜けした。それだけだったのだ。跡部はそれから傍にあった雑誌を読みだし、私は執事さんが淹れてくれたおいしい紅茶を飲んだ。この紅茶を飲むことはもうないのだなあと思うと寂しい。私の想像のどれよりも簡単に、あっけなく別離の言葉は告げられた。跡部は来月日本を発つという。私はその日でもう別れたつもりだったのだけれど、跡部は出国までは取り敢えず一緒にいるつもりらしく、次の日には何事も無かったみたいに連絡が来て、部活も引退していて後はもう卒業式を待つのみだったので、私たちはふたりでいろんな所に出かけることになった。別れることが確定してからデートに励むとは皮肉なものだと思う。今までまともにデートしたことなんかなかったのに。映画に行き、喫茶店に入り、水族館へ行き、公園へ行き、動物園へ行った。動物園と跡部は全然似合ってなかった。


「キリンだよ跡部」
「ああ」
「象もいる」
「そうだな」


嬉しかった。ありがとう。











恙無く日々は過ぎ、その日は来た。跡部はきっとチャーター便を使うに違いないと思っていたのだけれど、普通にジャンボジェットに乗るらしい。ファーストクラスに乗る高校生を普通と考えてしまう自分はだいぶ彼に毒されているなと思う。王様の門出だというのに、氷帝の面子は誰も見送りに来なかった。それが、どうも私たちに気を使ったらしい。岳人から感謝しろよ!というメールが来たから。見当違いだなあ。もう別れるんだよと言ったら彼はどんな顔をするだろうか。返信をせずに携帯を閉じ、ポケットにしまう。日差しの強い日だったので、私は帽子を被っていた。ダセエぞその帽子、と跡部は言ったけど、無視した。アナウンスが入り、フライトの時間が知らされる。跡部はスーツケースを持ち、私は小さなリュックサックに財布とハンカチだけをつめて、搭乗口へと向かう。大きなガラスの窓からは飛行場が見えて、座礁したアザラシのように飛行機が並んでいた。跡部はゲートの近くで止まった。私は、ここまでだ。跡部は私を振り返りいつもどおりの尊大さでふんぞり返った。


「最後だ」
「うん」
「なんか言うことねえのかよ」



実は色々考えていたんだけどさあ。いざこうなると出てこないのはほんとうは小心者の私の常のことである。万歳でもするかと思ったが、最後の最後に蹴りを入れられるのも嫌なのでやめた。私は暫く黙って考える。今更好きだと言ってなんになろう。引き止めてるみたいで格好悪い。だからそれも却下だ。思い浮かぶのはこれから先、跡部がいなくなった私の人生のこと。私まともにまた誰かに恋ができるのか、それだけが心配だ。想像してたより、ちょっとやさしすぎる終りかただったんだよなあ。もっと、振り払うみたいに、切り捨ててほしかった。初めから望みなんか無かったんだと、諦めてしまいたいのだ。


「じゃあ」
「おう」
「もっとちゃんとフってほしい」
「・・・ああん?」


跡部は暫く絶句して、溜息を吐く。肩が丸くなった。それから高そうなコートのポケットの中から何か小さな封筒を出し、私に渡す。なにこれ、と言って首を傾げる私に、跡部は吐き捨てるように言った。


「いいから黙ってしまいやがれ。家に帰ってから開けろ、このドM女が」
「なんというか、ちゃんと終らせたいんだよね」
「ハッ、そうかよ」


何も嘲笑することもあるまいに。ちょっとむっとして俯いたら、帽子のつばを思い切りひっぱられて視界が塞がった。慌てて顔を上げようとする私の肩が、強い腕に引き寄せられる。続けて耳元で低い声がした。


「好きだ、





・・・・・いやいやこれはないでしょ。夢でしょ。まったく都合のいい夢を見たものだ。ああ、そうね、認めてもいい。一ヶ月に一回ぐらいは、跡部が私のこと好きなんじゃないかって、もしかしたらこのままずっと一緒にいられるんじゃないかって、思うこともあったのだ。でもそれは現実じゃない。今更こんなこと言ったってどうにもならない。そうでしょう。だって今まで一度だってこんなこと言わなかった。もう終わりなのに、私は一人で残されるのに、こんな終り方は酷すぎる。私の妄想にはいつだって先があった。跡部に酷く振られて、死ぬほど落ち込んで、だけど私はその先を生きて、きっと誰か、身の丈にあった人間に恋をすると思ってた。しかしこれじゃあ、もうそんなの。固まる私を跡部は一瞬で手放して、帽子を上げたら、もう背中を向けていた。小さくなって人混みに紛れていく。嘘でしょう、やめてよ、こんなのいや。


「じゃあ置いていかないでよ景吾お」


気が付くと私の口は勝手に動いて絶叫し、その拍子に膝が折れて、身体が地面に崩れた。つるつるした床に突っ伏して声を殺して泣いた。やだやだやだやだ。叶わないと思ったから、ずっとずっと胸に仕舞って、消えていくのを待っていたのに。こんなんじゃこれから、まともな恋ができるわけが無い。一生きっと苦しいままだ。跡部がどこにもいないのに、跡部のことを考えて生きていかなければならないのだ。私はきっと知るだろう。自分が絶望だと思っていた、跡部に捨てられることを考えて生きていた三年間が、どれだけ幸福に満ち溢れていたものだったかを。抱きしめられたことがなくても、デートなんかしなくても、愛をささやかれなくても、傍に居ることだけで、私がどれだけ嬉しかったのか、思い知り続けながら生きていくだろう。そんなのやだ。顔を上げたら跡部はきっともういない。それなら私はこのまま床に一体化して化石にでもなりたい。べちりと頭を殴られる。やめてよ。益々強く縮こまったら、誰かの手がいつぞやのように私の腕を引っ張りあげて無理やり立たせた。


「マジで仕方ねえな、お前は」


おせえんだよ、全てが!跡部は私を怒鳴りつけ、握りっぱなしだった封筒をひったくって破り、中身を出した。何で戻ってきてるんだお前は、と思う前に、私は驚きすぎて時間が止まったかと思った。破かれた封筒の中から私のパスポートが出てきたからだ。高校の修学旅行で使ったきり、どこにしまったかも忘れていたのに、なんで持ってるんだ。意味がわからない、ほんとにもう、なんなんだお前は!どういう人なんだ!


「・・・わたし着替え持ってないよ・・・」
「むこうで買ってやるから黙ってろ!」


パスポートと一緒に渡された航空券は端っこがちょっと破れてた。もうホントになんだかよくわからなくて、今意識が途切れて今までの全部夢です!と言われても全然驚かないと思う。寧ろそっちが自然だ。腫れた目で、手を引かれながら、のろのろと跡部を見上げたら、跡部もちょっと泣いていたから、益々夢を見ているんじゃないかと思う。気が付くと完全に見世物になっていた私たちは、通行人の口笛と拍手に追い立てられて、出国ゲートを潜った。








(臆病ものの海を渡れ)