右腕が折れた。数日前のことだ。

 奇行種の討伐中、怖じて動けなくなった新人を庇い前に出ると、私の乗った馬のほうが怯えて恐慌を起した。初めて壁外調査に出た馬だった。死の匂いが濃厚に漂う興奮状態の中、どうにか体制を立て直し、夢中で手足を振り回して巨人の首を斬りおとした。どちらかといえば、気付けば巨人の首が落ちていた、というほうが、私の意識の中ではより正確な表現と言えるが。
 私も部下も何とか生を繋いだが、馬は倒れて足を折り、その場に置き去りにされた。哀れなことをしたと思う。
 永遠のように長かった一瞬の混乱の中で、私の右腕は真ん中で折れていた。首の落ちた巨人の骸の目の前で、眼前に折れた腕を掲げた。関節の可動範囲と正反対の方向を向く腕の先を確認して、暫し途方にくれる。びっくりした。私の身体は常に自分の思うとおりに(場合によっては、今回のように無意識の中ですら)、武器として優秀な働きをし続けたので、骨が折れる、ということが現実として受け止め難かった。考えてみれば信じられない話だが、骨折をしたのは初めてだった。生傷のたえない生活で、痛みには慣れていると思っていたが、それでもひどく耐え難い痛みだ。全身から嫌な汗が噴出して、寒気がした。
 痛みに震えそうな足を叱咤して、大したことではない、と言い聞かせる。まだ私には左腕が残されていた。多分この左腕が巨人の首を落としたのだ。振ってみると健全に動く。班をひとつ預かる身で、壁内に帰るまで呆然としているわけにもいかない。駆け寄ってくる部下に片腕ぐらいどうということもない、と笑った。間もなく空に立ち上った撤退の煙弾を確認し、悪寒を振り払うように声を張上げて指示を出し、食われて死んだ部下の馬に跨った。片腕がなくとも、逃げるための指示だけならどうとでもなる。無我夢中で馬を走らせているあいだ、痛みはどこかに飛んでいた。

 壁内に帰還しても、暫くは骨折のことなど忘れていた。処置もしないまま喧騒の中で雑事に追われているときに、背後からいきなり左腕を引かれて、咄嗟に右手に力を入れようとして、入らず、驚いて、腕が折れていることを思い出したのだった。私の右腕の骨は折れていた。真ん中でぼっきりと。途端に痛みが噴出した。他人の溜息を感じて振り返るとナナバが、私の左腕を掴んだまま立っていた。

「運がよかった。この折れ方なら快復は早い」

 ナナバに左腕を引かれて連れられた先で、中年の医者はにこにこしながらそう言った。顔見知りだが、負傷時はいつも自分で手当てをするから、治療をうけるのはほぼ初めてのことだった。現状の認識と同時に再発した強烈な痛みに悪寒を覚え、意識は朦朧としていた。現金な身体だ。医者に腕をとられても碌に反応ができないほどだった。彼は微笑んだまま、何気ない手付きで、私の右腕の骨をそうあるべき元の位置に戻した。
 雷に打たれたような衝撃の中、何故だか脳裏にハンジ・ゾエの顔を思い出した。この医者がハンジと個人的な付き合いがあるのかわからない。しかしハンジが研究対象に対するときの、周囲への気遣いの欠如に酷似したものを、その瞬間猛烈に感じた。勿論、彼には何の罪もないと理性ではわかっている。悪いのは間抜けな自分だ。しかし本能が、その痛みの直接の要因たる彼に憎悪を抱くには十分すぎるほど強烈な衝撃だった。彼が、「快復する」と明言していなければ、左手で殴り飛ばしていたかもしれない。神経を引き裂かれる。叫び出す間もなかった。

「本当にもとに戻るんですか」
「戻りますよ」

 医者はずっと笑っていた。
 治療が済んでからも、痛みは全身に広がって身体を支配した。携帯できるように小型化したひどい悪夢のようだった。負傷は腕だけではなかったらしい。右足は捻挫、おまけに背中を強く打っているという。他にも色んな部位に、がたがきていたのかもしれない。それらの痛みは腕の痛みに増幅されて、重い荷物のように全身に圧し掛かった。挙句の果てに、猛烈な頭痛に苛まれた。熱を出した。処方された解熱剤と痛み止めを飲むと、意識は朦朧とした。食事をすると吐き気がする。起き上がるのも億劫で、昼も夜もなく眠った。そんなに長く睡眠を摂ったのはとても久しぶりのことだった。







 腕を折ったのを、数日前、というのはそのためだ。私は自分が眠っている間に何度太陽が昇って沈んだのか、よく知らない。三度朝日を見たが、三日しか経っていないということはなさそうだ。深いまどろみに浸かった意識が外部の小さな刺激で浮上するとき、何度か同僚たちと同じ形をした影が揺れるのを見た。三日程度の昏睡なら、只でさえ忙しい彼等が態々何度も時間を割いて来たりしないだろう。大きく取られた窓から西日が差す病室に彼等は決まって一人で来るのだった。私の名前を呼んだり、帰還後の兵団の状況を話したり、溜息のような悪態を吐いたり―――これはリヴァイだけだろうが。そうして、みんな、すぐにいなくなる。夢うつつに、まるで臨終のようだと思った。
 うんと小さな頃、両親がまだいて、自分の家があった時間。祖母が死んだとき、遺体はほんの短い間家のベッドに寝かされたままだった。そしてまるで眠っているような彼女に、町の人々が短い別れを言いに来たものだ。それも、悪くはないような気がする。
 家族を失ってから、死ぬことを恐ろしいと思ったことはなかった。思春期のかなり長い期間は、寧ろ死を望みながら生きていた。そこから脱したあとも、死は隣人ではあったが恐怖ではなかった。遅かれ早かれ人は死ぬ。ただの順序の問題だ。今日死んでおけば、明日は死なずに済むだろう。私がこのまま死んでしまったとしても、この先のそう遠くないいつかの未来の一日を、たまたま先取りしただけにすぎない。私の人生に残されている役割なんて、巨人の数を出来るだけ減らすことだけなのだ。それさえも、砂を数えるような途方もない仕事だった。

 砂粒を数えるように、私は巨人を殺す。

 しかしそれが何より重要なことだった。無限に沸く巨人の前に無力な人類は、個人による巨人の討伐数を数えて、多いほど喜んでは、英雄と讃えた。十体斬っても、百体斬っても、この劣勢は殆ど変りはしないだろう。本質的に大切なことは数を減らすことではない。巨人発生の原因を突き止めることだ。勝利の為には、元を断たなければならない。
 それを成すだろう人間の為に私は出来る限り派手に砂粒を数え続けるだろう。英雄であり続けるために。
 私は武器だ。それも今迄、「人類最強」ほどでないにしろ、かなり優秀な働きをしてきた。

 エルヴィン・スミスが人類を救うために選んだ、選りすぐりの、使い捨ての刃の一つ。

 たとえ私にとっての人類がそれほど救う価値のあるものでなくても、あなたがそうすると考えている限り、私はその為に戦い続けるだろう。「快復ははやい」と言った医者の言葉が、遅効性の薬のように、じわりと身体に染み込んでいく。快方に向いつつあるのを感じる。私はまだ戦える、その限り、無価値ではない。生きる意味が私を生かす。まどろみはどんどん浅くなり、明るい眠りの中で私は夢を見た。古い記憶の輪郭をなぞるような夢だった。








 時間外で人のいない、訓練兵団の埃っぽい食堂で、真向かいに座る男は現実の彼よりも随分若い。肌は艶があり、生え際の後退も見られなかった。穏やかそうな、それでいて底知れない意思を感じさせる双眸が真直ぐ私を見ていた。窓際の席で、外から差し込む光が目の前のテーブルを舞台のように照らしている。眩しくて私は目を細めていた。よく出来た夢だ。足元に落ちていた綿埃のかたちまで鮮明だった。

「君には力がある。もしも君にその意志があれば、私に力を貸してほしい」

 当時の私は死ぬことばかり考えていた。
 少なくとも市井にいる限り、親のない子供は、誰からも疎まれた。私は無価値で、孤独で、とても弱かった。両親の死後、引き取られた先は遠縁の親戚だった。私はそこで召使のように育てられた。パン屋で、一般的な家庭よりはいくらか裕福だったが、子供が多く、母親はいくらかヒステリーの気があった。私は家事を一手に任されていて、7人の兄弟とその両親と祖父母の洗濯物をほとんど半日掛かりで洗っていた。手はいつも洗剤に荒れてボロボロに皮膚が剥げていた。
 規定の年齢に達するとともに遠縁の親類のもとを離れ、兵士に志願した。平和な世、絶望から遠い町、頭がおかしいと後ろ指をさされることにも構わずに、ただ持て余した孤独と閉塞感から逃れたかった。
 その頃人類にとって常に世界を囲う壁は強固であり、自分で生き方を選べなかった私のような人間だって、死に方ぐらいはある程度選ぶことができた。仮初でも人類の尊厳が最低限守られていた、最後の時代だったのに、私はそのとき無意味と罵られながら壁の外で死ぬことをこの壁の中でやすらかに腐りながら生きるよりマシだと思っていた。遠くで死にたかった。それがたとえ巨人の口の中であっても。
 訓練兵団への入団は、私の意外な才能を花開かせた。変わり者ばかり、しかしそれでも、外の世界への憧れや人類の種族的勝利の理想に燃える、目的意識を持った同期たちのなかで、思想的にも精神的にも空洞でしかなかった私は、皮肉なことに飛びぬけて優秀だった。生物として。武器として。

 そのとき彼はまだ分隊長で、自分で自由に動かせる有能な駒を欲していた。訓練兵に調査兵団の兵士から直接勧誘がかかるなんて話は、他に聞いたことがないから、恐らく異例であったのだろう。元から調査兵団を志望するつもりだと告げると、彼はふっと笑って、それだけではなく、自分には腹心の部下が必要なのだと説明した。彼の理想に同調し、彼の言うことをよく聞いて、彼の指示通りに動く人間が。彼が力を貸してほしい、といったとき、けして「私たちに」とは言わなかったことを私は思い出した。紙風船に吐息を吹き込むように、彼は私に自分のなすべきと考えていることを説明した。巨人に勝つ。人類を救う、頭がからっぽの私にはその程度のことしかわかりはしなかった。
 そして最後にもう一度言った。

「君には力がある」 と。

「私には力がある」

私は思わず繰り返した。彼は強張っていた頬を少し緩めて、とても友好的な微笑を浮かべた。

「そう」
「でも、それ以外には、何も」

 何もない。
 混乱と動揺で、言葉が思わず口から滑り出た。もとめられることが、思えば殆ど初めてのことだったからか。
 何も持っていない。人類を救いたいという意志もない。理想もない。ただ楽になることを考えて生きてきた。彼の言う「力」を手にしているのは偶然だ。
 しかし彼は私から目を逸らしはしなかった。

「それだけあれば、充分だ」

 相手の皮膚に刻み込むような声だった。その瞳は笑っていなかった。薄暗い食堂で、傍の窓から線のように差しているきつい日差しは彼の鼻先を掠めるように白く照らしていた。彫の深い目元が陰になって、その瞳は恐ろしいほど印象的に見える。湖のような碧眼は、貪欲さを滲ませていた。この男は言った事を必ずやる、と私は直感した。この男に使われる限り私は無価値ではない。この男の言葉にこそ力がある。魂が鼓動した。考える前に身体が動いて首を縦に振る。すぐに大きな手を差し出された。その手を取ってきつく握った。私と彼の手は眩く照らされたテーブルの上にくっきりと陰を落としていた。まるで誓約の証のように。自分の血管が常に無いほど速く脈拍を刻んでいることに気付いた。
 歓喜だった。私は自分の意味を見つけた。この人の為に死ぬことになるだろうとそのときに思った。予感ではなく確信だ。

 そう。私には力がある。それだけがあれば充分だと言えるほどの力が。あなたが、そう言った。
 エルヴィン・スミス。私はあなたの武器だ。壊れるまで使われて、壊れたら捨てられる、優秀な―――







 ノックの音がした。きっかり二度。直後に、扉がの軋んで開く。堅くて高い、とても現実的な音だ。
 意識はそこでひといきに浮上した。過去の夢は唐突に終わりを告げて、眼裏は静脈を日光に透かした赤色に覆われる。強烈な赤。カーテンを閉めていないのだろう。頬がひどく熱い。薄く汗をかいていて、不自然に皮膚の表面が冷えていた。指先を動かそうとして、しかしそれが出来ないことに気付く。意識だけが目覚めて、身体だけが眠りについているのだ。自分の呼吸が規則正しく聞える。出来ることなら今ドアを開けて入ってきた誰かに挨拶のひとつぐらい、したかったのだけれど――指は動かない。無理に動かそうとすると、息苦しく、呼吸が巧くできなくなりそうだった。私は諦めて、弛緩した身体を仰向けにしたままおとなしく眠り続けることにした。意識だけを入室者に向けて。

 その人は、とてもゆっくりとした歩調で歩いて、私のベッドのそばに立った。それから部屋の隅の椅子を引っ張ってくると、ベッドの傍に腰掛ける。音と陰の動きで私にはそれがわかる。人影が日差しを遮って、網膜に焼きつくようだった赤色が少し陰った。


 実のところ、私はその時点でその人影が誰のものなのか、とっくにわかっていた。もしかしたら入ってきた瞬間から。ただそこにそんなふうに私に声すらかけずに座っている理由が、よく理解できなかっただけの話だ。
 人影の大きさや、足音の重さ、そして幾つかの短い嘆息で、私はその人がエルヴィンであることに気付いていた。

 大半の人間にとって、エルヴィンがここに座っていることは、それほど奇妙なことに思われないかもしれない。私が昏々と眠り続けていたこの数日の間、何人もの上司や、同僚や部下が、おなじようにこの部屋を訪ねていたのだから。負傷した仲間を見舞うのはおかしなことじゃない。しかしミケやリヴァイがこの光景を見たとしたら、首を捻るぐらいの違和感を覚えたのではないだろうか。リヴァイなら或いは、どうしたんだとエルヴィンに尋ねるぐらいはしたに違いない。
 エルヴィン・スミスはごく控えめに言って、ひどく忙しい人だった。
 無意味な行動をするような暇は彼の人生にはないのだ。だから彼は無駄なことをしない。一見行動原理が読めないようなことにも、必ずそこには納得できる理由があった。
 エルヴィンは穏やかで、部下にもある程度フランクで友好的だった。私にもそうだ。公平で、意見をよく聞いてくれた。そうでなければ私だって上司の名前を呼び捨てにしたりはしない。
 しかしそれは彼が本質的に穏やかで優しい人間であるかどうか、ということとはあまり関係がなかった。彼は恐らく「善い人間」であっただろうが、それは多分本当はもっと奥まっていて、表に出てきたりしない性質だった。今まで、彼が誰に対しても穏やかで公平で友好的であったのは、ひとえにそうすることが合理的で彼のも目的に「役立つ」からだ。高圧的であることが前に進む為に必要なのだとしたら、恐らく彼はそう振舞っただろう。
 本質的な彼の感情は、合理の前にいつも切り捨てられてきた。それを私は後ろで、隣りで、ずっと見てきた。
 エルヴィン・スミスがただ眠っているの人間の傍でぼうっと座っているだけの無駄な時間を過ごすなんていうのは有り得ない話なのだ。たとえそれが私のように腹心の部下であったとしても。
 私に何か用事があるのか?名前を呼ばれれば、眠りに固まった身体はきっとすぐに動いただろう。しかしエルヴィンは押し黙ったまま、ただそこに座っている。誰かと待ち合わせをしているのか。しかしいくら待っても一向にドアを開ける音がしない。
 これも夢なのだろうか?エルヴィン・スミスがこの部屋を訪ねていることすら、私の夢にすぎないのだろうか。そんな夢を見るのだって妙な話には違いなかったけれど、そのほうが、この状況よりは、いくらか現実味があるような気がした。私は何故だか酷く焦れているような気持ちになる。早く目覚めてしまいたいと思う。でも瞼を押し上げることができない。どうして起きられないのだろう?こんなことは初めてだ。私の寝息が規則正しく空気を揺らしているのがわかる。もしかしてこのまま永遠に目覚めることができないのだろうかと私は思い始める。

 しかし薄い膜のような、それでいて強固だった身体の眠りは、外からの刺激で簡単に破られた。ちょうどシャボン玉が指で突付かれてはじけてしまうように。眼裏のくすんだ濃い赤の幕。静脈の色に、影の形が浮かび上がった。手だ。いつかあの埃っぽい食堂で、差し出されたときよりも幾分太くなった大きな手。細くは無いが骨ばった指先。私たちを導いて、死なせるために動かされる指。眼裏の赤は影に塗りつぶされて一瞬暗くなる。彼の手は私の眼前で止まり、指先が私の前髪を掬った。
 途端に、いくら動かそうとしてもピクリとも言わなかった私の左手の指の先が動いた。覚醒だ。掬われた髪が位置を直されたのが鮮明にわかる。ああ、変な形にわかれていたのかな、と私は思う。そういえば前髪が聊か伸びすぎていた。

 だけどどうしてあなたがそんなことをするの。エルヴィン。

 彼の指は私の前髪を離し、目の際をほんの触れるか、触れないかぐらいの強さでなぞった。そうして指に引っかかった髪を、私の耳にかけた。
私はそれで悟った。

 この人は私に死んでほしくないと思っている。無意味だとわかっていることをわざわざ実行するほど切実に、そう思っている。

 眠りは覚めている。しかし意識が、瞼を開けることを拒否した。

 私は恐ろしかった。 あなたがそんなふうに無意味に私のそばにいて、私に触れることが怖かった。武器でない私を、慈しむように撫でたりしないでほしかった。自分が死ぬことを怖いと思いたくはない。あなたの目的の為に死ぬことを、心の底から、それでいいのだとあなたに喜んでほしかった。骨を折ったり馬を置き去りにしたり仲間を目の前で食い殺されたりするような、二度と経験したくないようなことを、何度も何度も繰り返すことになるとしても、それだけで私は何度でも立ち上がることができたのだ。この腕が快復して、再び武器を取れることに、心のそこから安堵できたのだ。

「起きたのか、

 名前を呼ばれて、反射的に瞼が開く。切れ目を指で広げるように大きくなる視界。エルヴィンは私から指を離して、両手を膝の上で組み合わせていた。私は恐ろしいものを見るような目をしていたのではないだろうか。エルヴィン、と彼をさも今気付いたかのように呼ぶと、声は随分掠れて、みっともなかった。彼は今作ったばかりという雰囲気の、友好的な微笑を浮かべた。彼にしては、あまり上手ではないと思った。

「調子はどうだ」
「快復、してる・・・わ。腕も、ちゃんと元に戻るって。医者が」
「そうか」

 碧眼が硝子のように見えた。腕がもどることについて、いいとも悪いとも言わない。何を考えてるのか捉え難いけれど、あの、昔見た貪欲な色は、今はなりを潜めている。


ああ。

 死んでおけばよかったと思った。今日死んでおけば、明日死ぬことはない。死ぬことを恐れないまま、死んでおけたらよかった。私の脳裏に巨人の大きく開いた口腔が蘇る。そんなものを想像するのは初めてだった。わたしは、死にたくないと思っている。恐慌を起した馬と同じように。
 しかし、私は初めにこの人の手をとったときに、直感したのだ。私はこの男の為に死ぬことになるだろうということを。かつての歓喜。それは確信だ。変ることは無い。この人は、私を殺すことを躊躇いはしない。人類のために。

 ただきっと、私がいなくなった世界で、たとえばこんな夕方に、今こうしてるみたいに、それを残念だと思うのだろう。





百年ぶりの朝