「俺、イギリス行くっショ 」


ふっっっっざけんじゃねえよなんでだよ。


散々我慢に我慢を重ねて生き抜いてきたというのになんでこんなに苦しまなければならないのか。わたしはただ、最後の青春に彼が近くにいてくれること、それ以外を望んでいないのに、何故よりによってそれだけが叶わない? 現実はクソ。っていうか地獄だし、現が地獄なら恋は悪魔だ。いつでも砂を噛んで生きているような気がする。舌でなぞれば歯茎の間に砂埃を感じる。人生の半分ぐらいを、多分ぜったいに報われはしない恋に身を焼かれながら過ごしている。この世に生を受けて十八年しか経っていないのに今まで過ごしてきた時間を覆う感情の、およそ半分ほどをひとつの対象に割いているのだと思うとその気持の重さに気分の悪さを覚える。10才にもならない頃からの片想いを18にもなって未だに引き 摺っているわたしはきっとまともに考えればストーカーだしかなり気持が悪い。わたしが男だったらそんなメンヘラは普通にお断りしたい。いっそ滑稽。他人事だったらわたしだって笑っていたかもしれなかったし、そもそも笑いとばして無かったことにしたほうが彼にもわたしにもいいことなのだろう。それなのに、わたし自身の恋が、これを悲劇にしろと言う。曰く、未来には希望がない。と。私が彼を好きでなくなることはきっとこれからだってありはしないので、ということは生きれば生きるほど自分を好きにならない男のことを想い続けなければならない時間が延びるというわけだ。あまりにも無惨な話じゃないでしょうか。こんなに惨めな女はわたしの狭く浅く堅く守られている世界にはわたしの他に見 当たらない。


高校最後の夏の終わりで、まだ蝉が鳴いていた。彼は私の目の前にいた。机を挟んで、差し向かいに座って、そこにいたのだ。クーラーが聞いているのに身体は熱く、合皮のソファーと腿の間に挟まったスカートが、じとりと汗で湿っていた。わたしは二度とあのファミレスにはいかないだろう。というか、ファミレスそのものが嫌いになった。今では絶望の象徴のような場所に思われる。彼は俯いたわたしを伏目がちに窺って、弱りきったような表情を浮かべて、長い玉虫色の髪をかきあげていた。わたしはただ下を向いて、垂れた前髪の隙間から彼の困り顔をぼんやり眺めていた。


願望はいくらでもあったけれど、何を言えばいいのかはよくわからなかった。わたしは昔から彼の家の近くに住んで同じ学 校に通っていただけで、彼のなんでもなかったからだ。わたしは彼のことがずっと何年も好きだったけれど、それだけだった。こんなところに呼び出して留学することを告げてもらえるほど彼に重要だとに思われているのだと、その程度のことに感謝しなきゃいけないと、思う程度には。そして同時に、別に彼がわたしを感情的な意味で重要視しているわけではないこともわかっていた。彼はわたしが自分を好きだということを知っていて、それが何年にも渡ることを知っていて、だからつまり、彼はわたしのことをかなりかわいそうだと思っている。わたしが誰よりもかわいそうだと彼が思っているから、わたしは今日こんなファミレスで、彼にとってなんでもないにも関らず、彼にわかれを告げられたのだ。わた しは、巻島祐介に、情けをかけられたのだ。彼はわたしの、徒労に等しい長年の好意に対して誠意を返そうとしているのだ。そう思うと目頭が燃えるように熱くなった。死ね、と悪魔がわたしに囁いた。死んでしまえ。地獄だった。哀れな女。好きな男に、見当違いな優しさを向けられて、俯くことしかできない。しかも呆れたことに、わたしはまだ彼が好きで、彼に好きだという気持を許してもらえないことに耐えられる気がしなかった。要するに、見当違いな優しさに縋る以外に何も術がなかった。まわらない頭で考えたことばを、ひとつひとつ小さく区切って音にした。咽喉も頭も熱くて、うまく息もできなくて、上ずった声が遠く、自分の声じゃないみたいに聞えた。


「もう、好きで、いないほうが、いい?」


陳腐な台詞は、べつに初めての質問じゃなかった。わたしはもう何度も何度も彼を好きだと言い続けてきて、彼だってそれを何度もするりと、その長い手足でいなすようにかわしてきているのだ。どんなことだって、長く続けばそれなりに様式というものができるし、わたしたちの間にも、暗黙のルールみたいなものはあった。わたしが彼の生活の邪魔をしない限り、彼はいつでもわたしが彼を好きでいることを、許し続けていてくれた。勝手にすればいいっショ、物好きなヤツ、そう言って、苦そうに呆れてくれたのだ。なのに、彼はその日、そうは言わなかった。後頭部をガシガシ掻いて、なんともいえない低い母音で、長く長く呻いた。


終っちゃったんだ、とわたしは理解した。それでなんだか吃驚してしまって、顔を上げて固まって、下を向いている彼の旋毛を穴が空きそうなほど見つめて、ふらふら立ち上がった。財布から千円を抜いてテーブルに置き、鞄をひっつかんで、わかった、と干からびた声で言って、彼がわたしを呼ぶのも聞かず店を出た。出た、まではいいけれど、打ちひしがれたわたしはもう歩くこともうまくできなくなってしまったので、店を出て数歩と進まないうちに足は縺れ、両目はぼったぼったと大粒の涙をこぼし、息が巧く出来なくて殆ど過呼吸になり、道路に膝をついてどうしようもなくなって、ただひたすら泣いた。


ファミレスの窓から見えるところで知人の女がそんなことになっているので、巻島は慌てて店を出てきて当然のようにわたしを助け起したし、わたしにタオルをくれたし、わたしがテーブルに置き忘れていったらしい携帯も律儀にもってきて鞄に入れてくれたし、わたしが出していった千円札もいらねえと言って右手に握らせてくれたし、しかもタクシーを止めて、一緒にタクシーに乗って家まで送ってくれた。巻島はすごい。本当にやさしい。わたしだったら、こんな惨めな女はほっとくのに、そういうことができないのだ。好きだ。酷い。酷いやつだ。出逢わなきゃよかった。それが多分わたしが巻島に出来た最良のことだったのだ。申し訳ない。車窓から過ぎていく滲んだ景色をながめて、好きになってごめん 、と言った。ひどい鼻声で、「ずぎにだっでごべん」と聞えた。巻島はハア、と深い溜息を吐いて、額に手をあてていた。そうしてずっと続いた沈黙の最後に、


「別にが謝ることじゃねえっショ・・・」


と言った。やさしい。でもわたし以外のだれが謝るべきだというのだろう。家の前にタクシーがついて、巻島はわたしと一緒に車を降りた。お金も当然のように彼が払ったし、握った千円札を差し出しても受け取らなかった。そして家の前に着いてもまだ泣いているわたしに脱力してしまったらしく、細い肩をまるめて、制服のズボンのポケットに手を突っ込んだ。


「なんつーか、もう、・・・好きにすればいいッショ・・・。」
「・・・うん・・・・ごめん・・・ずぎ・・・イギリスの、住所、教えて・・・できればメアドも・・・」

 
そうして住所もメアドも簡単に教えてしまうのが、巻島の巻島たる所以だった。わたしはどんなに離れても永遠にこの男を好きなままだろうと、彼の住所とメアドが書かれたメモを見て思った。そしてその限り、心の底から笑うことはない。左上がりの癖のある文字を指でなでて、確信した。








それから数日経って、宣言どおり、巻島はわたしの生活から忽然と姿を消してしまった。登校しても、彼の自宅の前を通っても、あの緑の強い玉虫色の長い髪を靡かせる後姿を見とめることはできなくなった。


考えてみれば、あの夏の終わりの日は、ほとんど半年前の話になる。大切なものを理不尽に隠されたような気がしたのが、もうずっと前のことのように思える。季節は冬を過ぎて春を迎えつつあり、肌をじとりとぬらしていた汗の感触を、わたしは思い出せなくなっていた。あのとき、わたしの目の前に巻島が座っていたことが、奇跡のように感じられる。そのぐらい遠かった。わたしは週に一度短い手紙を書いて巻島に送っているけれど、返事が来たことがないから、もしかしたら届いていないのかもしれない。届いていたって、巻島はわたしに返事なんて出してくれないし。でも、それでよかった。いいと思っている。


巻島がいなくなってから数ヶ月が経って、わたしは正直に言って、あの大泣きした日がなんだったのかわからなくなるぐらいに、平和に暮らしてた。彼のいない生活の快適さを認めないわけにはいかなかった。他の女の子と話している彼を見て心が焼け付くような気持になることも、遠い背中に振り向いてもらえない哀しみを突きつけられて唇を噛むことも、もうなかった。朝偶然行きあって挨拶をしてくれることがなくなっても、時々タイミングがあって一緒に帰ることができなくなっても、わたしはちゃんとお腹をすかせてご飯を食べて勉強をして、人なみの暮らしを守りながら、穏やかに彼を好きでいることができた。これはかなりおおきくて有意義な発見だった。あのとき思ったとおり、心の底から笑うこと はなかったし、幸福を感じることもなかったけれど、かわりに、死んでしまいたいと思うほど惨めなこともなかった。悪魔のように黒い恋はなりを潜めて、一番最初の頃の、やわらかい想いがあった。わたしはひとりで壁打ちをするみたいに彼に手紙を出して、遠くにいる巻島が幸福であったらいいと思いながら日々を過ごした。受験勉強をし、その合間に息抜きで友人と出かけて、週の終わりに巻島に手紙を書く。読まれているかもわからない手紙だと思うと、いくらか自由に書けた。


そろそろバレンタインだけどチョコは送るのかと、友人が尋ねてきてくれなかったら、バレンタインのことなんてすっかり忘れていたかもしれない。2月の初めの特に暖かい日、去年まで毎年眠れなくなるぐらいに悩んで選んだことを思い出しながら、受験先の大学の近くの洋菓子店で、小さなチョコレートの箱を買った。四角い、緑色の美しい缶に、小熊のイラストが刻まれている。賞味期限を念入りに確かめて、花模様のカードを添えてイギリスに送った。春が近づいていた。わたしはもうとてもゆるやかで、萎んだ風船みたいに気楽だった。返事がこないのをいいことに、カードには、ひときわ好き勝手なメッセージを書いた。巻島。お元気ですか? わたしは元気だけど、とても貴方に逢いたいです。顔がみた い。わたしはもうすぐ受験が終ります。3月頃はずっと暇だから、もし日本に帰ってくるなら―――・・・。夢みたいな話だった。実際夢だった。巻島はこの春に日本に帰ってはこないだろうし、帰ってきたとしてもそれを私に連絡したりしない。もう、きっとずっと逢えない。あのファミレスで、彼は全部終らせる気だったのだから。夢だから、書けた。わたしはいつも、巻島に本質的に疎まれることを恐れていたから、彼に何か現実的な行為を、会いたいとか好きになってほしいとかそういうことを、面と向って望んだことはない。いつも、ただ好きだと、それを許してほしいと言うだけだった。でも今彼は、殆どわたしの夢の中の人だった。わたしのもの、だった。

 
受験が終って、進路が決まって、卒業式が終わって、ゆるやかに、でもめまぐるしくいつもの習慣が意味をなくしていくなかでも、今のわたしは只管穏やかでいる。朝方は家の近くでうぐいすが鳴く。春も終わりに向っている。眼の淵がだんだんと痒くなり始めた。花粉症だな。このことを手紙に書こうかなと思う。イギリスにはきっと花粉症は無いんだろうな。うらやましい。3月も半ばで、桜の芽も膨らみ始めている。友人と花見の計画を立てて、大学入学までの時間を惜しむようにくだらないことをたくさん話して、始めたばかりのアルバイトをして・・・、それがわたしの、退屈で静かな生活だった。近所の喫茶店のアルバイトは、新鮮だけれど、なかなか大変だった。簡単だろうと思っていた接客も、実際に やると緊張した。巻島は接客が向いていなそうだと、帰途でふと思う。霞んだ夕暮れの空を見上げていると、下手な作り笑いを記憶のもやの中に思い出して、道端で笑ってしまった。口を手で押さえて笑いをかみ殺しながら自宅の門を入り、郵便受けから包みを取り出して、玄関をあけた。靴を脱ぎつつ、郵便物を点検する。新聞、チラシ、ダイレクトメール、それから一通、エアメールが。

 
エアメールが。英語で書かれた私の名前。左上がりの奇妙な文字。

 
指が滑った。青と赤の淵に彩られた封筒を殆ど引き剥がすように開ける。また封筒が出てくる。独特な花模様だ。でも、どうだっていい、べつになんにも考えていないのに、勝手に心臓がうるさい。張り裂けそうなほど胸が痛い。なにもかんがえられなかった。なんにも頭になかった。ただ脳裏で半年前まで毎日、わたしの視線を奪い続けた玉虫色の長い髪が踊る。目頭が熱くなって、熱が顔中に広まっていく。震える手で封筒の糊を剥し、中身を出すした。小さなメモ帳の切れ端がひらりと落ちる。走り書きみたいな文字で、チョコレートへのお礼が述べられていた。美味かった。Thank you. そして何かの日付けと、電話番号が、無造作に記されている。吐き気がせりあがって、今日食べたものが、口からまるまる出てきそうだった。そもそも、この日付はなんのことだ。混乱したまま封筒を逆さにすると、ひらりと、一枚紙が、空中を舞いながら床に落ちる。ぼうぜんと、拾い上げて見ると、それは航空券だった。ロンドン行きの。わたしは膝から崩れ落ちた。同時に、死人みたいに過ぎていった日々の平穏が粉々に崩れる音を聞いた。


わたしの手紙を読んでいたの、巻島。いままでずっと毎年欠かさず渡していたバレンタインのチョコレートに、お返しなんかしてくれたことがないくせに、はじめての手紙の返事で、はじめてのお返しで、これか。ああ、そうか、今までわたしは何も彼に望んでいなかったから、多分彼は何を返せばいいのかわからなかったんだと、妙に平静な頭が回って、思い至る。だから、戯れで書いた、はなから本気にしていなかった、わたしの自己愛でしかない夢想を、そのまま簡単にかなえた。わたしのこと好きじゃないのに、わたしがあいたいと言ったから、ただそれだけで、こんなものを寄越した。これがわたしの望みで、貴方へ想いと積み重ねた徒労への正当な対価だと、信じて。わたしがなんてもないくせに、わた しを愛さないくせに、かわいそうなわたしの望みを、簡単に、しかも大金で、叶えたのだ。
 

あの夏の日と同じだ。救われないわたしに、誠実に報おうとする。信じられない。本当に人間なのか。貴方は本当にクソみたいに優しくて、わたしはいつも死んでしまいたいほど惨めだ。出逢わなきゃ、よかった。あなたにも、わたしにとっても、それがよかった。だけどもう一度逢えるなら、千度地獄に突き落とされたって、構わないと思ってしまった。封筒をにぎりしめて床に突っ伏して泣き叫ぶ。夏みたいに。息がうまくできない。同時に、多分心の底から笑った。玄関の姿見に、膝を折って泣きじゃくる女がうつってる。わたしの恋が、笑う。逢える。巻島。逢いたい。逢いたい。なんて、惨めな。一生好 きなままだ。未来に希望はない。現実はクソだし恋は悪魔だ。脳裏で玉虫色の髪を掻き揚げる彼はなんにも悪気がなさそうに、夏の終わりの日とおなじ弱りきった顔をして、わたしを地獄に突き落とす。


ふっっっっざけんじゃねえよ、なんでだよ。

 


 



 
私の悪魔は菖蒲を食べる