4.撫子・花曇り・憂う




 よこしまなことばかり考えていたからバチがあたったのだ。よこしまを具体的にいうとこの女が自分のことを好きになってくれたらとても便利だな、と思っていたということだ。もちろん、彼女に対して抱いていた気持ちはけしてそれだけではなかった。シンドバッド王はまっとうに人を好きになる部分、心の中の壊れていない場所をなんとか確保していたので、その場所でシンドバッド王は彼女のことを好ましく、自分には珍しい女「友達」として、それなりに大切に思っていた。事実だ。しかしシンドバッド王の一日は、ただのシンドバッドである時間よりも王である時間の方がずっとずっと長かったので、相対的に彼女に対する気持ちもどちらかというとよこしまな部分が強く強調されていたのである。彼女は利用価値がある程度には頭のいい女の子であったので、シンドバッド王は彼女にそんな気持ちがばれていないとは思っていなかったけれど、まあ、なあなあな感じで誤魔化して、よこしまさは隠して、できるだけ長くシンドリア王国に留まって、自分の手の内で利用できるようにしておきたい、と考えて、実際そのようにした。シンドリア王国はシンドバッド王が設計した楽園の国なので、彼女もまあまあシンドリアを気に入って、随分長く滞在してくれた。しかしどう考えても潮時だろうといったところだった。彼女は旅人なのだ。限界はもうそこまで見えていた。いよいよあと数日のうちに彼女が国を発ってしまいそうな頃になって、シンドバッド王はこう思った。あ〜、もう殺しちゃおうかな。と。年中無休で忙しい王であったが、ちょうど繁忙期が重なっており、度重なる不眠で疲れていたのである。疲労がいらだちと物騒な思考を連れてきたのだった。勿論そんなことをしようなんて本気で思ってはいない。ただちょっとけがをするとか、そのぐらいならいけるんじゃないかなあ、なんてことが心を過ったことは否めないが。

 結局、彼女は再訪の約束をして、盛大な宴の翌日、国を発つことになった。シンドバッド王はまだなんとかしたい、と思っていた。港にはあまり好ましくない、弱くてぬるくてしめっぽい風が吹いていて、空はシンドバッドの気持ちのようにどんよりと曇っていた。未練がましいシンドバッド王は、舟に乗ろうとする彼女の腕を何も考えずに掴んでしまった。掴んでから、口説いてみようかな、と思った。もう5回ほど試して結局失敗したのに懲りない男である。だがしかし、押して押してそれでもだめなら引くと見せかけて押す、それが恋愛の極意、とシンドバッドは思い直し、口を開こうとした。開かなかった。唇に柔らかい感触と、甘い匂いがした。よこしまな口説き文句を封じたのは、彼女の唇だった。シンドバッドの頭はその一瞬、お花畑になった。やった〜〜〜〜〜と思った。この女が、自分のことを好きじゃない筈がない、とシンドバッドは思った。そのぐらい、とろけるような、極上のくちづけだった。くちびるの合わさっている間、一呼吸を永遠のように感じた。しかし、永遠などない。シンドバッド王はわかっていた。わかっていたのに、どうしても抗えなかった。多分、ひとかけらの純情だった。一瞬の間に唇が離れて、下方から現実的な衝撃が、シンドバッドを襲った。顎を蹴りあげられたのだと、地面に倒れてから気付いた。天に向けて伸ばしたつま先を颯爽と戻して、あばよ!と彼女は言った。あばよ、て。もっとましな別れの言葉もあるだろうに、彼女は振り返りもせず、すでに動き始めた船に飛び乗った。蹴られた顎に手を当てると、単純に熱い、何も残らない痛みがあった。駈けよって来る部下を、シンドバッド王は手を振って諌める。悪いことを考えたので、悪いことをされたな、と思った。反省ではない。出し抜かれたな、という、いたずらのばれた子供のような気持だ。だがどこか、心の壊れてないところが、ぎゅうぎゅう締め付けられるように痛むのも事実だった。シンドバッドは恋をしたことがないが、恋した人に裏切られるというのは、きっとこういう感じに違いない。