16、胡桃染・狂雲・逃げ惑う




すごく気持ちのいい日だった。雲一つない青空から春の一番あたたかい日差しが満遍なく降り注いでいて、風が吹くたびいい匂いがした。辺りは広い野原で、芝生は青々と柔らかく、見渡す限り色とりどりの花が咲いていた。みんなは少し離れた、私のいる場所より少し高い、小さな丘のようになっているところで追いかけっこをしたり、花冠を作ったり、昼寝をしたり、おにぎりを食べたりしていた。はしゃぐ乱や秋田の黄色い声が時折やさしく耳に届いて自然と頬が緩む。口元を抑えようとしたとき、ふと、左手にぬくもりを感じてそちら見ると、加州清光が私の手をそっと握ってくれていた。あっちでみんなと遊んで来ていいんだよと言おうとしたけれど、加州があんまり嬉しそうに微笑んで私を見つめているので私はなんだか少し恥ずかしくなって、口を噤んで自分の足のつま先を見た。

「■■、行こうよ」

みんなのとこ。と加州は言った。私は何故だか罪悪感に駆られて、咄嗟にいいのかな、と返した。加州はいいに決まってるでしょ?、と笑った。みんなが向こうから、私の名前を呼んでいた。

「ほら、みんな待ってるよ。■■を独り占めできないのは癪だけど、せっかく平和になったんだから」

それで、ああ、今は平和なのかとその時気付いた。平和。平和かあ。途方もない気持ちになって空を見上げると、おおきな浮雲がぷかぷかと空に浮かんで風に流されて行った。遠くで笑い声が響いていた。誰もみんなが、この場にいない世界中の人々、物々さえもが、笑っているように思えた。まったく幸福の形の景色で、まるで本当に平和みたいだった。

「もう戦は終わったんだから。これからはずっと一緒にいられるね」
「そうなの?」
「そーでしょ?だって平和なんだから、」

加州は私の左手をぐっと引っ張ってみんなの方に駆け出した。私は咄嗟に目を瞑った。


目を覚ますと見慣れた茶色い天井が視界いっぱいに広がっていた。夢を見たのだと気付くのに時間を要した。

身を起こすと強烈な吐き気が胃からせりあがってきて、這う這うの体で布団を出て、殆ど転がるようにトイレに駆け込んだ。ドアを閉めることもできないまま、無様に一頻吐いた。昨日燭台切が作ってくれたご飯を胃からすべて出してしまうと、今度は涙が止まらなくなり、私は便座を抱いてしくしくと泣いた。すぐに、あけっぱなしの部屋と、主君の不在に気付いた前田が、トイレにすっ飛んできた。

「主君!?ご無事ですか!?」

前田が手ぬぐいを渡してくれても、まだ私は泣いていた。何をどうがんばっても、どうしても涙が止まらなかった。前田の叫びに誘われて次々に集まってきた刀剣たちはみんな大慌てだった。主君、主様、主、私を呼び、気遣ってくれた。そうだった。ここでは誰も私の本当の名前を知らないのだ。私ももう、自分がなんという名前だったのか、夢でなんと呼ばれていたのかも、よく思い出せなかった。

「主、行こうよ」

部屋にもどろう、と、ほとんど涙声の加州が言い、涙やら鼻水やらに汚れた私の手を取って、そっと引き上げた。

一体、私はなんのために戦うのだろう?

世界平和のためであると偉い人々は言う。しかし、世界平和が本当にあるとして、気が遠くなるほど先の未来、いつか宿願が果たされて、この戦争が終わったら、平和な時代が来たら、そのとき私に何が、どれほど残っているのだろう?わからない。わからないけれど、ひとつだけ、はっきりしていることがある。私はみんなに人間になってほしいのだ。誰にも損なわれることのない、やわらかい春の日差しの中で、楽しく、幸福に、一緒に生きてくれたらと、願っているのだ。

そして私の刀の中に人間になりたいなんて思っている刀はたった一振りだって無い。