※福富くんが大変なことになっているので、注意※



12.藤黄・くらげ雲・揺れ動く




 

 離婚をした。

 発端は妻の浮気である。
 その日、福富は図らずも出来た空き時間を利用して自宅へ戻った。拷問のような日差しの降り注ぐ月曜日の昼下りのことだった。シャワーを浴びて、汗を流すつもりでいた。妻は出かける予定があると聞いていたので、誰もいないものと思っていた。車を車庫に入れ、玄関へ続く階段を上り、鍵穴にキーを差し込んでまわした。いつもどおりの、淀みのない所作だった。後ろ手でドアを閉め、室内の涼しさに吐息し、ポロシャツの胸元を指で引っ張って風を入れる。靴を脱いで部屋へあがり、靴下越しのリノリウムの床の冷たさを心地よく思いながら、荷物を置くためリビングへ続く扉に手をかけようとした。
 福富はそこでおかしなことに気付いた。ドアに嵌め込まれた磨りガラスから、オレンジ色の照明の光が漏れ出していたのだった。誰もいないはずが、と首を傾げながらドアを開けると、汗と、それから嗅ぎ覚えのある、堪らなく不快なのにおいが鼻についた。
 何の匂いかはすぐにわかった。リビングに備え付けた黒い本革の大きなソファに、福富の妻は裸になって寝転んでいた。柔らかい白い肢体の上で、禿げ上がった男が一心不乱に腰を振っているのが見えた。汚らし水音と嬌声とくぐもった吐息が室内を満たしていた。福富はその男を知っていた。近所のクリーニング屋の店主だったからだ。その店にはジャージをクリーニングに出したこともあったので、福富はちゃんとそのおやじの顔を覚えていたのである。  その時、福富はとても驚いて、ドアを半開きにして立ち尽くしたまま固まってしまった。何も考えられなかった。怒り、悲しみ、悔しさ、そういう感情すら微塵も沸いてこなかった。
 完全に活動を停止した福富の眼前で、クリーニング屋のおやじは恐れおののいた様子で言い訳と土下座をした。福富に気付いてから、おやじは今の今まで自分が抱いていた福富の妻を一度も見ようとはしなかった。そして福富がいつまでたってもなんの反応も返さないのを見てとると、慌てて服を着て、逃げるように玄関を出て行った。福富は追わなかった。  妻は男が言い訳をしている間も、服を着て逃げ出すときも、ずっと黙って下を向いていたが、福富が石のように固まり続けているので、終いにはため息を一つ吐いてリビングを出て行った。しばらくあとに、シャワーの音が福富の鼓膜を揺らした。その水音で、福富は自分がそもそもシャワーを浴びるために家に戻ってきたことを思い出した。そのころになってようやく再起動しはじめた頭で、どうやら自分の妻は近所のクリーニング屋のおやじと浮気をしており、自分はその最中に行き会ってしまったようだ、ということを把握した。
 そして福富は妻を許そうと思った。取り敢えず浮気というものは、許すか、許さないか、という話に集約されるだろうということを、知識として知っていたのである。福富夫妻には子供が三人いる。男の子と男の子と女の子だった。彼らがいきなり片方の親をなくすのは不憫であろうと思った。それにそもそも、福富は別段怒ってもいなかったのである。誰にでも間違いはある、と福富は思った。

 つまり、元の鞘に収まることを拒否したのは福富ではない。妻のほうだった。
 シャワー室から出てきた妻は、最早福富の知る柔らかい家庭の女ではなかった。嫋やかではあったが、力強く、断固として離婚を主張した。慰謝料も払う、男とも縁を切る、財産も放棄する、だからもう自分に関わらないでほしい、というのが妻側の要望であった。福富の感情をそっちのけで、福冨の両親が怒り狂った。妻を思いつく限りの悪態で罵り、莫大な慰謝料をふっかけようとした。妻は一切反論しなかった。福冨の母に土下座を求められたときも、従順にそうした。

「ごめんなさい。」

 床に額を擦りつけながら、妻は呻くように言った。
 福富の三人の子供は、長男が中学生、下の二人は小学生だったが、三人とも一切の迷いもなく、口をそろえて母親についていきたい、と言った。福冨の母が言葉を尽くして経済力の大切さを語り、彼らの母親がいかに邪悪な淫乱であるかを説明したが、全く無意味だった。福冨の母の饒舌の見返りとして、白く無感動な6つの目が福富と福富の母を映した。子供たちは福冨ではなく、クリーニング屋の汚いおやじと不貞行為を働きこれから莫大な慰謝料を払わねばならず明日寝る場所すら確かでない妻を選んだのだった。どうやら子供にとって、自分は不貞を働いた妻よりも劣る存在らしかった。
 何故だ、と思った。浮気をされる理由も、恩赦を断られる理由も、子供に選ばれなかった理由も、福富にはサッパリわからなかった。
 ただ、そのときふと、学生時代に交際していた同級生の少女のことが脳裏によみがえった。名前は、という。



「あんたあたしと別れないほうがいいとおもう」
は言った。眉間に皺を寄せて、こんなことは決して言いたくないが止むを得ない、といった様子だった。
 福冨はその時、とても困惑した。福冨は親のすすめる女性と結婚するため、どうしても彼女と別れなければならなかったのだ。『女を振る』という作業を行うにあたって、福冨が気の置けない友人にアドバイスを求めると、福冨の友人たちはきっと彼女は「別れたくない」と言うだろう、と予測した。泣くかもしれない。それでも断固として別れなければならないのなら、情を見せてはいけない、と言うのが彼らの助言だった。福冨は覚悟していた。泣いても、縋られても、別れなければならないと。
 しかし現実の彼女は泣かなかったし、別れたくないとも言わなかった。ただとても嫌そうに、本当にいいのか、気付いてないだろうがあんたは結構碌でもない男だぞ、というようなことを繰り返した。まるで別れることが福富のためにならないとでもいうかのような、恩着せがましい口ぶりだった。福冨は仕舞には腹立たしい気持ちにすらなって、「ああ、構わない。別れよう」と断言した。彼女はちょっと肩を竦めて、「あたしはちゃんと言ったからね。」と念をおしただけだった。そしてひらりと手を振って、福冨に背を向けた。

 土下座する妻の細い背中や、白い目の子供たちを前にして、あのとき、彼女の小さくなっていく背中が、角を曲がって見えなくなるまで目を離すことができなかったことを、福富は思い出していた。その日も夏でとても暑く、彼女の進む方の遠い空に、不思議な形の雲が浮いていたことまで、はっきりと思い描くことができた。

 そしてなんだか、自分は妻の、一人の女性の人生を台無しにしてしまったのかもしれない、と思った。

 福富は慰謝料を請求しないことにした。父や母の怒りは黙殺し、妻が受け取らなかった家も家財も売り払うことを決めた。不動産屋が家の査定をしているときに、子供たちにそれぞれ買ってやったロードバイクがそのまま置いて行かれていることに気付いて、福冨ははじめて傷ついたような気持ちを抱いた。何もかもを売って得た金に、貯金からある程度のまとまった金額を加えて、妻の両親に渡した。長男が成人するまでは食べていけるのではないかと思われる程度の額だった。

 それからというもの、福冨は都内にある高層マンションに一人で暮らしている。夜景とロードバイク以外は何にもない部屋だった。事の顛末を聞いた福富の友人たちは、皆挙って福富を慰めた。中でも高校時代のチームメイトである荒北靖友は、当然幸せになるべきだと思っていた福富の突然の不幸に大変に心を砕いたようで、殺風景な福冨の部屋に野菜を抱えてやってきては、夕飯の世話などを焼き、終電で帰っていくのだった。荒北は一緒に食事をしながら、時々泣きそうになる。福チャン優しすぎ、と呟くように言う。彼は福富が優しすぎるために貧乏くじをひかされたのだと、本気で思っているようだった。

 荒北が帰ってしまってすっかり生気のなくなった部屋で、福富はふと思い立ち、携帯電話を取り出して、高校時代のままの電話帳から、の名前を引き出した。何故かはわからないが、もうこうするしかしかないと思った。何の意図もないまま、通話ボタンを押す。3コールののちに、「もしもし」と、女にしては少し低い声が聞こえた。いつも不機嫌そうな、あの夏と少しも変わらない声だった。

「福冨だ」
「名前見ればわかるよ。何?離婚した?」
「ああ」

 するとは永遠のように長い間をおいてから深い深いため息を吐き、ひどく嫌そうにこう言った。

「だから、言ったのに・・・」