土曜日の負け犬





 金曜の朝の来客なんてろくなもんじゃないことはわかっていた。普通の人間はまず仕事だし、有給を知っていてアポ無しで訪ねてくるのは非常識というものだ。でもそういうことをこの男は平気でやる。礼儀も常識も余人に任せておけば良い、御柳芭唐よ野球をせよ、と日本中がこの男を甘やかすのでどうにも矯正の術がない。あえて言えば出会った高校の時分に総力を上げて叩いておくべきだったのだ。全ては過去にある。振り返るだけ時間の無駄だ。

 来訪時のまま酒精をまとって床で寝ている男を尻目に、社会人のモーニングルーティンである新聞を開いて目を通す。私は男と対照的に、大変な社会派の畜生、略して社畜であるからして、有給であっても新聞を読むのだ。ファック。時代遅れな灰色の誌面には、御柳芭唐(30)、女子アナと破局!などという文字が踊っていた。私はそれをじっと凝視したあと、その、腐れゴシップ紙に成り下がった経済新聞を音を立てて畳み、草花が印刷された紙袋にぽいと投げ入れて溜息を吐いた。嘆かわしい。新聞代は月に5000円近くかかっている。生活を圧迫するほど高くはなくとも、安いとは口が裂けても言えまい。少なくとも5000円のバリューは出していただきたいのだが。右手で頭を掻きむしりながら左手でコーヒーを飲んで心を落ち着かせていると、床の方から「ガサツ女」と嫌味な声が飛んでくる。何?ゴキブリみたいなやつだ。

「ゴミをゴミ箱に捨てただけよ」

 そう言い捨てると、バカは床からゾンビのように立ち上がって捨てた新聞を取り出し、ゴシップ部分を半眼で眺めながら、いかにもラディカルに八重歯を見せて笑った。

「重要情報だろ。明日の朝から話題になるぜ?」なんて言う。多分その予測は半分は正しく反論も面倒なので、私はただ黙って首を横に振った。半分の不正解は、明日が土曜日で、野球選手の恋愛事情で盛り上がるようなジジイと顔を合わせる予定はない、ということだ。

「んで、どこのアナウンサーと破局したわけ」
「破局してねえよ。付き合ってもねえっての」

 ああさいですか。聞いといてなんだがどうでもいいわ。相槌を打つ前に、御柳はペラペラと口を回している。最近の女子アナってのはよキャバ嬢特別つかねえし。昔はキャバはギャル、アナウンサーは清純路線だっただろ。だから女子アナは高嶺の花だったんだよ。最近じゃキャバ嬢も港区女子もアナウンサーもみんな整形顔。量産。キャバ出身のアナウンサーもいるしな。全員正直見分けつかねえからどれがいいかわかんねえ。などと最低な一人雨の品定めを始めていてマジで、終わっている。何よりも御柳芭唐はいまや日本野球界のスーパースターであるということがこの国の行末を暗澹たるものとしているような気がした。

「てか、アンタギャル好きじゃん。昔の彼女ギャルばっかじゃん」
ふと思い出してそう指摘すると、御柳は莞爾と微笑んだ。
「ま、明りいしな。つーか最近ギャルいなくね?絶滅してるだろ。いても歳下」
「そりゃもういい歳だからね私たち。小悪魔アゲハも廃刊で平成は遠くなりにけりよ。おっさんがいつまでもギャルと遊んで訴えられないように気をつけな」

 言われる程遊んでねえよ。と御柳は不服そうだ。まあ、確かにゴシップが空回りばかりの有様を見る限り、実は手堅くやっているのだろう。意外である。同期のスラッガー、女好きの猿野と純朴少年村中が早々に結婚し、ピッチャー犬飼が女嫌いで有名、すぐ上の屑桐選手もまたさっさと結婚して5人も子供を作っているので、同世代の選手ではぶっちぎりにチャラくて軟派、賭博好き、不誠実で軽薄そうだがしかし顔は良くて成績好調なこの男は、マスコミに追い回されてさながら時代の寵児であった。

「確かに意外と真面目にやってるよな」
「だろ?もっと褒めていいぜ」
 いや、知らんし胸を張られても世界一どうでもいい。
「別に遊びをセーブしたほうがいいとかは思ってない。訴えられたり殺されない限り好きにしたら?今レストランの横にベッドついてるホテルとかあんでしょ?そういうところで遊んだらバレないんじゃない?」

 下世話なことを話しているうちに、だんだんと御柳の眉間の皺が増えていくことには気付いていた。不機嫌を満面に浮かべて、喉の奥で唸る。まるで威嚇だった。身長は高校時代よりさらに伸びているので、かなり威圧感がある。
「お前が存在知ってんならもろパンピーにバレてんだろーが。つーか耳年増かてめえ」
「耳年増て、アンタ私も同じ歳だってわかんない?それ相応に年増にもなるだろ」

 にじり寄ってくる男の前に手をかざして距離をとろうと試みると、御柳はそれが癪に触ったのか、私の手首を掴んで捻り上げた。いてえよ。ひとたまりもない。

「あ?そりゃお前が経験あるってハナシ?」
「いや痛いんだけどほんとサイアク……そういう食事付きホテルには行ったことないけど」
「へえ。連れてってやろうか」
「いや、いらんてば。離れろバカ」

 掴まれたままの手首で胸を押し返すと、御柳はかなりイライラした様子で手を離してヒステリックに叫んだ。
「そこは「嬉しい!ずっと待ってたの!」だろクソ女!」

 ぞわりって感じ。突然何を言い出すのかこの男は。反射で自由になった手が御柳の日焼けした頬に吸い込まれていく。パチン!と音がした。殴っちまったと気付いたのはその後だった。とりなさなければ、現役スター選手に暴力沙汰で訴えられたら困る……と思いながらも、展開の寒さに耐えきれず、私は腕の鳥肌をさすりながら素直に身を引いた。

「バカじゃねえの。バカラだけに。夢見てんじゃねえよ、気持ち悪い。今更そんな昭和展開あってたまるかよ。ロマンスの神様、まじでこの人じゃないですよ」

御柳は頬を押さえながら私をぎろりと睨んだ。しかし、目に涙が浮いており、可愛らしい顔立ちもあいまって、ほとんど迫力はなかった。

「フィジカル命のアスリートの身体をなんだと思ってんだ?暴力ヒロインとか2000年代で需要終わってんだよ!DVで訴えんぞ、ブス!」
「はいはいブスです。バイオレンスは否定しないけどドメスティックではないです」

 くだけた空気にほっとしたのも束の間、御柳は壁に追い詰めた私の腰をとると、「これからドメスティックにすんだよ」と低い声でアホなことを囁いた。驚きのしつこさ。いやアホか?諦めなさすぎるだろ。

「バイオレンスを?ドメスティックに?」
「バイオレンスから離れろ」
「じゃあ何なわけVは」
「………victory?」
「ドメスティックビクトリーってなんだよ」
「家庭による勝利」
「いや家庭内での勝利じゃない?家庭的勝利?」
「チッ……、マジでうるせえな。なんでもいいだろが、そんなもん。口説かれろ少しは」
「嫌。友達でいよう御柳。私はギャルでも女子アナでもない」
「はー?男女に友情なんかねえよ。マジでダルすぎだぜこの女」
「ダル男に言われたくないが?友情を感じたことを後悔している。時間を返せ」
「あ、の、な。俺様が結婚してやるって言ってんだぜ?御柳芭唐様が」
「あ、の、さ。私、以外と結構モテるよ。男に不自由していない。そして、結婚願望はない」
「知ってるっつの」
 だから口説いてんだろ、と案外真っ当なことを御柳は言って溜息を吐いた。困った様子で蹲みこみ、ぼりぼり髪をかいている。被害者仕草はやめてほしい。私の方が困っているのだが。
 数秒の沈黙ののち、御柳は何かを私に向けて投げてよこした。慌てて受け止めたそれは、小さなプラッチックのサイコロだった。
「賭けようぜ」
「何を」
「俺が明日ホームラン打ったら結婚」
「イヤ……。ダサ……。アンタと違ってギャンブラーじゃないんですけど」

 すると御柳は、癪に障る渋面を作ってやれやれと首を振った。アメリカ人のような仕草だった。
「あのなあ。確率。わかんだろ。サイコーのバッターだって打率は4割超えねえよ。しかも明日はクソ犬の先発登板。俺がホームラン打つ確率ってどんだけだよ。お前だって悪い勝負じゃねえだろ」
「負けたら身売りというのが気になるが確かに。私が勝ったら何がもらえるわけ?ボーナス一億円とか?」 すると御柳芭唐はにやりとして、「いいぜ」とこともなげに言った。

「なんでもくれてやる」

 恥ずかしい話だが、もう、御柳が口にいれなくなって久しい、バブリシャスシトラスソーダの甘ったるい匂いを、私はそのとき思い出してしまった。

かくして私はこの男が賭け事の申し子であることを知っていながら、統計学の力に賭けたのである。結果は推して知るべしと言うものだ。だってこれは御柳芭唐の物語なのだから、サイエンスの力は及ばない。

 液晶画面の中で、御柳は黒のユニフォームに身を包み、満面の笑みでバットを放り捨てて走り出した。笑うと、八重歯が出るが、中継では遠くて、笑っていることしかわからない。私は胸に抱えたレディボーデンのバニラアイスクリームをひとすくいしながら、「こんなのちょっとできすぎだよなあ」と呟く。

昭和だか、平成だかっぽい、陳腐な展開だ。けれども私たちは平成に生きていたのだ。こんなふうに、陳腐な展開を積み上げて歴史を重ねてきたのかも、という気もする。怠いなあ。親に電話しないといけない。まったく人生というやつは。テレビからは歓声と、私の名前を呼ぶバカの声が聞こえている。