「結婚することになった」

 赤司征十郎はまっすぐ前を見たままそう言った。淀みなくハンドルが切られ、車が左折する。一週間ほど前の夜中、いきなり彼が根室に行きたいと言い出したので、私はそれに付き合う形で彼の運転する赤いクラウンの助手席に座り、なぜか搭載されていないナビにかわって膝に紙の地図を広げていた。東京から根室まで車で約20時間強。運転と休憩と宿泊を繰り返しながら北上を続け早5日目、私たちはようやく目的地に到着しつつあるところだった。
 予てから何かと唐突な人間だったのだが、何の前振りも無い話題の切り替わりに私の頭は混乱した。そもそもそれまで私たちは豚骨スープについて議論していたのだ。赤司はこの頃ラーメン作りに嵌っている。中でも豚骨がお気に入りのご様子で、買ってきた豚骨を割り、たわしでゴシゴシ洗ってから寸胴鍋に水と薬味と一緒に火にかけて10時間ぐらい煮る、のであるが、このはじめの「煮」がまず問題で、赤司は豚骨ラーメンが好きなくせに、スープを火にかけてから最初の10時間ぐらい家じゅうに漂う獣臭さが苦手なのであった。長時間煮たたせられ続けたスープがある時点でラーメンの匂いに切り替わって、その瞬間、それまでずっとシャッターの降りたような目をしていた彼の大きな双眸は、ようやく瞳の輝きを取り戻す。今世紀最後の御曹司に毎度そのような死人のような顔をさせるのも気の毒なので、最近では一通り赤司が配合を終えたあと、私がスープの番をして、獣臭が消えてから彼を呼び戻すこともある。私がそうすることを提案したとき、彼は特に悪びれた様子もなく、「そうか。ではスープ番は頼んだぞ」と言った。そういう男なのだ。以来彼はラーメン制作の度に、「では、スープ番は任せたぞ」と言い残して玄関を出ていく。私がスープを煮ている間は漫画喫茶にいるらしかった。という話はいまはいい。

 ちらりと運転席の赤司を見上げる。赤司は前を向いたままハンドルを両手で握り、教科書のような姿勢で運転を続けていた。こうして彼の顔を見るたび嘆息してしまうのだが、そう派手な顔つきではないのに、上品な面差しの美しい男である。直視し続けることがなんとなく耐え難い気がして、私も前を向いて、ふうと息を吐く。
「誰と?」
「お前以外とだろうな」
「なるほど」
「相手は父が決める」
「へえ」
 なるほど。驚きはしたが、別段裏切られたとは思わない。世の中の男女には結婚を前提とした付き合い方とそうでない付き合い方があるが、振り返ってみれば私と彼の関係は後者であったのだろう。所詮は学生同士。彼女、という肩書のわりに、私は赤司のことをあまり知らない。食事の後にしこたま錠剤を飲むこと、バイトをしていないのにやたら金回りが良いこと、時々大学の横にリムジンを付けて現われること、どうもご家族と巧くいっていないらしきことなど、彼の傍にいたことで少し掘ればいくらでも身の上話ができそうなことを、私は全て「まあ金持ちらしいし、そんなもんなんだろ」と適当に流してきたのだった。色々大変なんだね、と相槌を打ちながら、窓の外を見る。視線を逃がす算段だったが、このあたりは長く長く続く道路と、両脇に荒野のような森林が広がっているばかりで、何もめぼしいものがなかった。100キロ先まで同じ景色が広がって居そうだ。なんだか脱力して、シートに深く持たれる。いい加減腰が痛い。

 何故今言うのだろう、と私は思った。事前の予定ではあと6日、旅を続けるつもりだった。赤司が根室に何の用があるのかは知らないが、私は帰りに六花亭のバターサンドを食べたり旭山動物園へ行ったり仙台あたりで城を見たり等したい、という希望があった。しかし上りの車中でいきなり降って沸いた別れ話、これでは根室まで辿り着けるかも微妙である。行く前に言うか、帰ってから言うか、せめて着いてから言ってくれと思うのは人情ではないか。じとりと赤司を睨むと、彼は先ほど見たときと同じ体制で、じっと前を見据えている。どんなときでも安全運転。結構なことだ。本当に感情が顔に出ない、何を考えているのかわからない男だ。入学式の新入生挨拶もこの男で、欠片ほどの緊張も見せずにこなしていたことをぼんやり思い出す。いつもテンションが一定なのはどういうわけなのだろう。入学式の後、将棋部の勧誘に捕まってコンパに参加したのが、私と赤司のファーストコンタクトだった。私たちは席が隣同士で、赤司は梅干しサワーを物珍し気に頼み、一口飲んで、ジョッキを机に置き四方から観察したあと、「しょっぱいな」と言った。飲んだことがないものを頼んだらしい。その所作は、壇上に上がってマイクを調整していた姿と全く同じだった。作り物めいた様子が妙におかしいかった。

 わからないことばかりだったから、隣にいるのが楽しかったのだと思う。カミソリのように切れる男なのに、時々信じられないようなポカをやらかして、誰にもわからないぐらい微かに、そのポーカーフェイスが崩れる瞬間が見えたときが、とても好きだと思ったのに。
 これから幾らでも、もっとわけのわからないところを見て、時々本当のことを教えてくれたらいいと、思っていた。考える前に、ぽとりと言葉は落ちた。

「やだな」
「嫌なのか」
「やだよ、そりゃ。そうでしょ。赤司」

 声が籠って、身体の中が熱かった。笑おうとしても口端が下がってしまうので、誤魔化すために俯いた。口に出す価値もないような、とりとめのないことを2、3、考えようとして、結局、「いやだな」、以外のことを思いつくことが出来なかった。運転をしてなくて良かった。私が操縦権を握っていたら、このままハンドルを切って森の中に突っ込んでいたかもしれない。赤司がこのタイミングでそれを告げたのは正しかったのだ。お蔭で私には今、何の反抗の武器も無い。車は赤司が運転をしていて、私はこの場を去って体制を整えることが、取り敢えずすぐには出来ないのである。無念だった。他の女の人が赤司を連れて私の前から消えていくと思うと、吐き気を催すほど悲しいと思った。
 沈黙の中、隣で赤司がふっと笑った。「」、と彼は私を呼んだ。

「実は俺も嫌だ」

 俺はお前以外と結婚などしたくない。言葉の意味がわからず顔をあげると、車のスピードが上がった。アクセルを踏みこむ彼は、まるで逃げている人のように見えた。真っ直ぐ前だけを見続ける、赤司の双眸が揺れている。何かに耐えるように薄い唇を一瞬噛み、そして震わせる。そんな顔をみたことは一度もなかったので、私は彼の表情から目を離すことが出来なくなった。

「そう、父に言わなければならない。でももうずっと、俺から父に話をしていない。話しても聞いて貰えないかもしれない。そう思うといつまでも言い出せない。父は随分老いた。俺のほうがもう力も強いだろう。身体も育った。もうすぐ社会にも出る。こうして、行こうと思えば何処へでも行ける。なのに、父を前にすると言葉が出てこない。情けない話だが、今でも多分父が恐ろしいんだ。あの頃から、ずっといろんなことがあったのに、その度、俺たちの問題の本質が父にあると気付いていたのに、俺は何も成長していない。逃げ続けている。そのほうがきっと楽なんだろう。それが自分の選択のように振る舞って、父の言うことをよくきいて、父の望む通りにする。そうすれば存在を否定されることはない。父と俺が決定的に終わることはない。でもそれでは、お前とのことが終わってしまう。」

 赤司はそこで言葉を切って、一度短い息を吐いてから、絞り出すようにして呻いた。

、力をくれ・・・」

 肌に突き刺さる、痛々しい声だった。心臓がぎゅうと握りつぶされる。瞼が灼けるようだ。可哀想で、可愛くて、軋んだように胸が痛かった。そっと赤司の肩に触れると、シャツ越しの彼の身体は、どくどくと脈打っていた。懇願するかのように、頬を私の手に寄せる。陶器めいた肌は、しかし人の体温を宿している。彼の素肌に触れるのは、考えてみれば殆ど初めてで、もう一生離れたくないと思った。あげられるならなんでもあげたかった。このまま何処までも、二人だけで逃げたかった。巧く言葉にならなくて、赤司の腕をぎゅっと握った。



(君はありふれた歌を歌う/end)