灰崎祥吾の機嫌は悪かった。普段から気のいい人物であるとは言い難かったが、それを考慮したってあまりに酷い。機嫌が悪すぎて何かに八つ当たりすることすら億劫になっていたほどである。過去最低と言ってよかった。腹を立てたのに何かを損なわない、そんなことは彼の人生では一度もないことだった。灰崎はそれまでムカついたら虫を殺し空き缶を投げ自販機を蹴飛ばし人を殴って憂さを晴らしていたのだ。しかし今日の彼ときたら物を蹴るために足をあげることすら出来なかった。そんな気力はどこにもなかった。気の抜けた風船のような身体。なんでもいいから、兎に角鼻で笑おうとして、巧く口端が上がらず、短い吐息だけが空中に消えた。彼は教科書が一冊も入っていない鞄に買ったばかりの煙草と100円ライター、それにガムの包みとレシートをぐしゃぐしゃに丸めたゴミを突っ込んで、見慣れた家と学校の間の道を虫の這うような速度で歩んでいた。殆どからっぽの鞄すら肩に食い込むような気がしている。晴れ渡った空は天井に描かれた絵のように見えて彼の閉塞感を煽った。黄色く照った日差しが眼球を焼く不快さに、目を眇めたまま彼は足を進めた。所属だけして練習など滅多なことでは行こうと思わなかった部活には、もう行く理由がなくなっていた。誰にも何にも咎められない不羈の放課後。彼は恐ろしいほど自由で、何も背負うものがなく、ゲームも喧嘩も女遊びだって、いくらでも選ぶことができた。なのにその両足が選択したのは家だった。纏わりつく蝶のような女をぞんざいに押し退けて一人きりの帰路。家の隙間に無理やり引いたような狭い道だ。一通で、車はあまり通らない。静かだった。進むにつれて道は細く、暗くなる。


彼の自宅のマンションは入り組んだ住宅街の真ん中にひっそりと立っている。奥まっていて車では行きにくい場所で、その所為かはわからないが地価の割には家賃が安い。灰崎の住む部屋は日当たりの悪い3LDKで、物干し場になっているベランダは一年中日が当たらず、壁には慢性的に黴が生えている。部屋の中は雑然としていて薄暗い。なんとなく自宅の光景を思い返しながら彼はマンションの薄暗い門を潜った。母親は仕事で遅くまで戻らない。兄も多分いないだろう。どちらとも暫く顔をあわせた覚えがなかった。息子の素行の悪さで学校に呼び出されても頑なに来ない母と、弟よりよほど出来も物分りも良い兄である。顔をあわせたところでどうなるものでもないと灰崎は思い、ポケットから鍵を出してドアを開けた。密閉され湿った空気の匂いが外へ出ようと押し寄せて鼻腔を擽る。どこか安心した自分には気付かないことにした。後手にドアを閉めると、狭い室内は物の形を見ることしか出来ない程度の明かるさで、彼の家族の名前の通り灰色の光景が広がっている。灰崎は鞄を玄関に落とし、靴を脱いでのろのろとリビングに向った。自室にこもる気には何故かならなかった。窓どころかカーテンも閉められたリビングの床に腰を下ろし、傍に転がっているリモコンを弄ってテレビをつける。面白くなさそうな芸能人が面白くなさそうな企画で面白そうに笑っていた。興味をもてないままリモコンを持て余していると、視界の右下を赤い何かがひらりと踊った。


そのままつられてそちらを見遣ると、水を張った金魚蜂を一匹の赤い金魚が泳いでいた。液晶の光を反射してひらひらと鮮明な赤い尾鰭を振っている。どこで捕ったのか、いつからそんなものがあったのか彼には見当もつかなかった。そういえば暫くリビングには入っていなかったことを思い出す。赤。強烈に脳裏に残る、嫌な色だった。灰崎はテレビを消した。室内に静寂と暗黒が降りる。金魚の赤もひらめかない。かわりに頭の中に何か違うものがちらついた。テレビの映像などよりよほど鮮やかにその光景は彼の眼裏に現れた。初めは女の顔だった。それは彼が退部を期に棄てた女だった。1年の秋に告白されて付き合いだした。大人しくてノリも悪く、灰崎の好みでもない。何故付き合ったのかと言われれば、物静かで成績もそれなりに優秀な優等生の癖にあえて自分を選ぶ、そのどうしようもなさが理由だった。実際彼女と付き合っていた間、他に女がいなかった時期など数えるほどもない。それでも傍にいた時間は、多分他のどの女より長かった。黒い髪と、何故自分ひとりにしないのかと詰め寄らないところが気に入っていた。彼女は灰崎と付き合っている間、ただの一度も泣かなかったし怒らなかった。無理矢理突っ込んでも遠慮なく揺さぶっても。彼が女の泣き顔を知ったのはもう別れが済んだときだ。もういらねえ、と彼の口が言って彼女の肩を突き飛ばして、スカートがひらめいて、彼女はぺたりと地面に尻をついた。それが彼の提示した関係の終わりだった。それでも彼女は意志の強い視線で灰崎を見上げて何か言った。しかし何を言われたのかを灰崎は覚えていない。全く。何も。多分、自分でも言葉を、恐らく暴言、を返して、そうして女は大きな瞳からぼろぼろ涙を零して泣いたのだ。灰崎はそのまま踵を返した。彼女は縋りついてはこなかった。ただか細い声が灰崎の背中を追いかけて、すぐに掻き消えた。泣く女のことを思うとどうしようもない吐き気のようなものが競りあがってきた。不愉快さを押し込めようとリモコンを壁に投げつけ、違うことを考えてみる。何か。何だっていいと思った。次に浮かぶのはもっとマシなものだと思っていたから。


しかし女の面影が消えて浮かぶのは燃えるバスケットシューズだった。それから慌てて自分を呼び止めた、影の薄い同級生のこと。スキール音の鳴る、汗の臭いが染み付いた体育館。浅黒い肌の手が由にボールを操って、変幻自在のシュートを決めるのも、自分よりうんと高い目線から容赦ないブロックを叩き込む長身も、冗談のように綺麗な放物線を描いて飛んでいく3Pシュートも、完璧な采配をする迷いのない赤い眼も。浮かんで消えない。目の前で見ているように強烈に焼きついていて、あまりにも鮮やかだ。二度と並び立つこともない人間の面影が、二度と足を踏み入れることもないだろう場所の光景が、とりとめもなく思い出されて、最後に女の泣き顔に戻る。唐突に耳の奥で声がする。やめたくなかったくせに、と。関係ない。部活のこととお前のことは関係ない。部活もやめたし、あいつらとも切れたし、女も変えようと思っただけだ。ずっと鬱陶しかった。お前も。部活も。あいつらも。何もかも。清々した、と暗い部屋で灰崎は笑った。つまらない練習もなくなってなんだって思い通りになるのだから。彼は自分でも意識しないうちに立ち上がっていた。そして酷く自然な動作で視界の隅の金魚鉢に目を留める。近づいて、踊り続ける赤を水ごと掬い、そうするように定められていたみたいに、口を付けた。思った以上の冷たさが舌にあたり、生臭い臭いが口内に流れ込む。頬に溜まった水を泳ぎ、小さな赤い魚は尾鰭で頬の内側を叩く。嚥下しようとする力より、食道を競り上がる熱が勝っていた。数秒を無限のように長く感じながら飲み込もうとして、それでも結局耐え切れずに吐き出した。水音と呻きと咳が静謐な室内の空気を揺らす。硝子の鉢に戻された魚は暫く聊か忙しなく泳ぎまわっていたが、すぐに何事もなかったかのように優雅に赤を翻すようになった。彼は金魚鉢を叩き割ろうと拳を振り上げて、すぐにおろしてしまう。部屋は元通り静けさに満ちて、外の日が落ち漏れ入る明かりのない室内は完璧に暗闇に塗りつぶされる。


金魚はそれから3日ほどたった頃に鉢ごと消えた。死んだのを、彼の兄か母が棄てたのだろう。