斯る暢気な政治家どの宗教家どの学者どの文士どのが世間にお構いなく鼻突合わして太平楽をならべる、是ぞ真の天下太平なる哉。アア真の天下太平なる哉。 向かいのお茶屋の二階から笛の音が聞こえる。お師匠さんが芸妓の姐さんがたの舞のお稽古にいらしているのだろう。流れてくる美しい音色にうれしくなって顔をあげると、丁度店の戸ががらりと音を立てて開いた。女将さんと板さんがいらっしゃいと同時にほごらかに声をかけて、あたしも慌ててお茶を淹れていた手をとめて、「いらっしゃいませえ」と声を追いかける。水屋から顔を出してのぞけば、開いた戸の向こうには久方ぶりに実弥さんが立っていた。 「実弥さんじゃないか。久しぶりだねえ!」 懐かしい顏に驚いて声をかけると、それに実弥さんは億劫そうに手を挙げて応えて、敷居をくぐりながら「空いてるか」と尋ねた。軽く上げた手の指が欠けているのにはすぐ気づいたけれど、この人は宇随さんのつながりでうちの店を訪れたひとのひとりで、この一味ときたらだれも彼も逢う度に怪我ばかり増やしてある日突然来なくなると思ったら死んでいた、ということが多いので、触れずにいておいた。開店したばかりの十一時を少し回ったところでまだお客は一人もいない。あたしは戸棚からお盆を引きずり出して、ほうじ茶を満たした急須と湯呑を乗せながら頷いた。 「空いてますよお。店中どこでも。丁度一番いいのが焼き上がる頃合い。ねえ大将」 「おう、今年の鰻は油が乗ってるよ」 「そいつはいいなァ」 実弥さんはにやりと口元を吊り上げて笑った。傷だらけの頬にネコ目の三白眼、お世辞にも人相がいいとは言えないが、微笑み方になんとも言えないやさしさが残るのがこの人の持ち味である。平素は一人で鰻屋に来るような気質でもないので、宇随さんもいらしているかもしれない、と思って後ろに続く人影を待っていると、実弥さんが振り返って呆れたように口を開いた。 「オイ冨岡。とっとと入れ。てめえが昼は鰻が良いって言ったんだろうが」 「不死川に行きつけの鰻屋があるとは知らなかった」 言いながら敷居を跨いで暖簾を潜ったのは、なじみの色男、宇随天元さんではなかった。背格好は殆ど実弥さんと変わらない、開襟のシャツに水色の着物、濃紺の袴をつけた書生風の立ち姿。しかし顔面の審査でもある集団なのか、かんばせは絶世の美形の宇随さんに勝るとも劣らない、端正な顔立ちをした男性である。 「別に行きつけじゃねえよ、こんな贅沢なモン頻繁に食うか。宇随に連れてこられたことが何度かあるだけだ」 「知らなかった」 心なしかむくれたように彼は繰り返す。何故かそれに、実弥さんはちょっとバツが悪そうに頬を掻いていた。 「わざわざ言う事でもねえだろうが。今日連れて来たんだしよォ」 なんだか弁解のようなセリフで面白い。美青年は居住いを正しながら「次は宇随も呼ぶ」とあくまで自分の間を崩さずに、断固として言った。 「宇随には奥方もついてくんだろォ。うるせえぞ」 実弥さんは入口の目の前の、焼き場の前の席に陣取ろうと椅子を引く。初見の青年の見目の麗しさにぽっとなっていたあたしが黙って居ると、女将さんが厨から「あのう、お二階も空いてますけど」と気を回して声をかけた。実弥さんは苦虫を?み潰したような顔をした。 「ここでいい」 「……俺は二階でもいいが」 「テメエは黙ってろ」 にべもなく斬捨てられて、青年――冨岡さんはちょっとムッとしたように唇を尖らせた。それから女将にむかってすこし微笑んで 「折角気遣いをいただいたのに、かたじけない。不死川は何故か不機嫌なので許してくれ」 と言った。女将は首だけ厨の入り口から出していたのをぽっと赤らめて、余計な気を回しましたねえと早口に言って引っ込んでしまう。口調は硬いけれどお花みたいなかんばせで、ふんわりした空気の殿方である。宇随さんが千両役者で実弥さんが任侠者なら、この人――冨岡さんは名家の薄幸の美青年という感じである。たぶんうなぎ屋の二階がどういうところかなんて知らないのだろうな、まで考えて、ふと赤面するあたしを、実弥さんは呆れたように横目でにらんでいる。 「冨岡ァ。テメエもう少し顏引き締めてらんねえのかァ」 「……笑った方がいいとこの前炭次郎に言われたが。そんなに奇妙だろうか」 実弥さんの隣に腰かけながら、冨岡さんは自分の頬を左手で触った。袖が長いので気付かなかったが、冨岡さんにも、右腕がなかった。私は勿論そのことを訪ねたりはせずに、お二人の目の前湯飲みを置いて茶を注ぐ。実弥さんは苦々しそうに溜息を吐いている。 「またアイツの差し金か……程々にしとけ。女に刺されて死ぬぞォ、そんなだと」 「どういう意味だ」 冨岡さんは首を傾げてバカ真面目に問う。理由は自明なように思われたけど、言いづらいのか、ふんと鼻を鳴らして実弥さんは答えない。いじわるだなあ、と思って助け船を出すつもりで、「魅力的すぎるって意味でしょう。綺麗なお顔だから」とあたしがお茶くみ序でに茶々を入れる。軽く睨まれたが、訂正は入らなかった。 しかし容姿を褒められた側の冨岡さんはなぜか、憮然とした顔で頬を膨らませた。なんというか、幼けないような所作だった。 「不死川こそ、禰豆子にすっかり懐かれて」 俺のほうが付き合いは長いのに会うとお前の名前ばかり出る、と冨岡さんは拗ねたように呟いている。不死川さんは心当たりがあったのか、いささかばつが悪そうに頬杖をついたまま明後日の方を見て、手持無沙汰を誤魔化すように品書きを手に取ると、いくつもない品名を欠けた指で撫でていた。 「知らねえよ。つーかガキじゃねえか」 「女心のわからん奴め。」 「てめえにだけは言われたくねえんだよ」 吐き棄てる実弥さんのこめかみには青筋が立っている。しかし冨岡さんはどこ吹く風という様子でお茶を啜って、品書きには興味がないのか目も通さない。実弥さんも特に相談や理もなく品書きをほっぽると、「オイ、鰻重上二つ頼めるかィ」と言った。 「はあい。大将、上二つ!」 焼き場からはいよ、と景気のいい相槌が飛んでくる。なんだか、宇随さんと実弥さんの気の置けない友達感覚とも違う、不思議な関係の二人だなあと、あたしは思う。 上と言わず特上にしてやったよ、二人には言うんじゃねえよ。と大将は盆に載せたお重を渡しながら言った。随分気前のいいことに驚いていると、お二人とも立派に役目を果たされたんだ、お前も労わってやらなくちゃいけねえよ、と涙声で諭されるので何が何だかわからない。もしかしてこのひとたちは傷痍軍人かなにかなのかしら。今戦争をしているという話はとんと聞かないが。とにかく冷めないうちにと席まで運んでいけば、二人はお茶をすっかり飲み干して、何やら深刻そうに会話を続けている。 「輝利哉様のお申し出のことはどうする」 「見合いの件か。俺はお断りするつもりだ。お気持ちはありがたいが」 「そうだよなァ……」 と実弥さんが溜息交じりに呟いた。今更普通に生きろって言われてもなァ、と途方に暮れたように呟いている。きりのいいところでお重を渡してしまいたいものの会話の内容が濃そうなので躊躇していると、当の相手である冨岡さんがぼけっとした表情で、「そうなのか?」と首を傾げた。実弥さんも拍子抜けした様子でがっくりと首を落とす。おまたせしました、とすかさずお重を台に滑り込ませる。実弥さんは相槌がわりに片手をあたしに向けてあげながら、冨岡さんを横目でにらんでいる。 「てめえはちげえのかよ。つーか何だったんだ今までの会話はァ」 「不死川はいい亭主になりそうだ。父親にも」 要領を得ない返答に苛立ったのか、実弥さんは苛立った様子でこめかみを撫でた。 「そういうこと聞いてんじゃねえんだよォ。そう言うてめえは家庭生活破綻しそうだよなァ会話が下手糞すぎてよ」 「なんだと。そんなことはない」 「あるだろうが今現在。俺と会話ができてねえじゃねえか」 「何を言っている。俺たちは親しく話をしている」 ズレた人だなあ、とあたしも呆れた。実弥さんは慣れているのか積年の辛さなのか呆れかえったように脱力している。冨岡さんは実弥さんには頓着せず、自分のお重をぱかりとあけて、ムフ、と嬉しそうに笑った。鰻のいい匂いが漂う。それから不意に真顔になって「それに俺の話を毎日聞きたいという女性はいる」と何でもないことのように爆弾を落とした。 実弥さんががばりと顔をあげた。 「ああ!?なんだテメエそりゃ!佳い仲の女でもいんのか」 驚愕のあまり鬼気迫る勢いの実弥さんに、冨岡さんは至って平常通りといった様子で椀物のふたを開けた。こりゃあ一緒にいたら疲れるだろうな、とあたしは呆れた。 「そういうわけではないし、どうともなっていない。だが手紙が来る」 「手紙だァ?」 うん、と冨岡さんは頷いた。いただきます、と手を合わせてから、箸置きの箸を左手でとり、ゆっくりとした動作で握る。実弥さんは久々にお重の存在を思い出したようで、おざなりに蓋をあけて右で箸をとり、左手に持ち替えた。箸を持ったまま、冨岡さんは話をつづけた。 「俺はもうあと数年の命だから諦めろと書いたのだが。それでもいいから墓も立派なものを立てて先々まで一族郎党誠心誠意供養するから残りの年月を共に過ごすようにと執拗に手紙が届く。一旦考えを整理しようと返事を保留していたらしびれを切らしたのか説得しに行くから首を洗って待っていろと。近々訪ねてくるらしい。」 まずうら若そうな冨岡さんがあと数年の命なのかとかいろいろと気になる点はあったけれど、あたしの疑問はさておき、実弥さんはどこか青ざめた様子でぶるりと身を震わせている。空の湯呑にお茶を注いでやると、端を置いてそちらに口をつけた。 「……とんだバケモンじゃねえか」 「道成寺の清姫みたいですねえ」と思わず同意すると、実弥さんは黙って首を縦に振った。 「見目は普通の小柄な女だぞ」 「何処で知り合ったァ?」 「任務だ。任務が終わって直後から、ずっと手紙が来ていてかれこれ2年近い。最近まで一度も返事をしたことはなかったのだが、もう全て終わったので、挨拶がてらに連絡をしたらこうなった……。なあ、不死川」 冨岡さんはその端正な顔を真面目に固めて、実弥さんに向き直った。 「何だ」 「俺は食いながら喋れない。先に鰻を食べよう」 「てめえが食前にとんでもねえ爆弾ぶち込んだんだろうがよォ!」 「はいはい店の中では静かにしてくださいよ」とあたしは実弥さんに声をかけたけれど、正直、今のは冨岡さんのほうが悪いとは思う。やっぱり二階に通すべきだったのだ。 お食事が終わって暫く待って、水菓子に葡萄を出した。葡萄か、と冨岡さんは言いながら嬉しそうに顔をほころばせている。あたしが気を遣っている間に二人の間では話が終わったらしく、実弥さんもどこかつきものの落ちたような表情で、くだものを頬張って、甘え、と呻いた。もっと甘いものが好きなくせに、好きなものを嫌いなように言うのが上手な人である。 女将がお代を受け取って、あたしは見送りがてら二人を追って往来に出る。「うまかった。また来る」と冨岡さんが言う。実弥さんはつまらなそうに頭を掻きながら、大将に礼を言ってくれ、と言った。出された鰻が特上だと気付いたらしい。きょとんとしている冨岡さんに呆れた様子で「どうみても特上だっただろうがありゃァよ」と低く告げる。ぴしり、と冨岡さんは固まって、にわかに慌てだした。 「それは今礼を言った方がいいのでは」 「無粋だろうがその方が。次は土産でも持って来らァ」実弥さんは泰然としている。丸で反対の反応が面白くて、あたしは笑った。 「実弥さんは気が利くなあ」 うん、とこれには冨岡さんのほうが深く頷いて微笑んだ。俺はずっと不死川と話してみたかったんだ。こんなに優しいとは思わなかった。と成人男子とも思えない、歯の浮くようなことを言う。咄嗟に実弥さんの顔を横目で見ると、苦虫をかみつぶしたような顔で、しかし耳だけがはっきりと赤かった。 「不死川が生き残ってくれて俺は本当に嬉しかった。どうかお前も、健やかで幸せでいてくれ」 「照れってもんがねえのかよてめえは」 「本心だ」 でも、今日は沢山喋って疲れた。そんなことを言いながら、冨岡さんがあたしにぺこりと会釈して、ふたりは並んで歩きだした。実弥さんの耳が赤いことに冨岡さんは気付かない様子で、最後まで花が綻ぶように笑っていた。不思議な二人だった。後姿を見ながらぽかんと途方に暮れるような気持ちで、伸びていく影を眼で追っている。 不意に、ざわりと風が吹いて、甘い匂いがした。きっと裏手の御宅の庭の、藤棚の芳香が、風に乗ってきたのだろう。御向かいのおたなからは雅楽の音がまだ聞こえて、人通りの多い往来、青空の下をやわらかく流れていく。季節は春で、あたたかく、だれも彼もが幸せそうに見えた。頭の後ろで手を組んで、実弥さんは歌うように呟いている。 「まったくこんなつまんねえ話をてめえとする日が来るとはなァ」 |