衆生に長らえど




満開の彼岸花が群生する野原を歩いていた。近くで川のせせらぎがして、その音のする、明るい光の方向に進んでいる。背後に残してきた空は暗く、後ろを振り返ると背中がひどく痛んで、遠ざかれば遠ざかるほど痛みが薄くなるように思われた。わたしはもうたくさんだ、あの光の下まで行けばなんとかなる、助けてもらえる、好きな人々が待っている気がする、そんなことばかりが頭を埋め尽くして、わたしの足はくるくると回る車輪のように、緩い傾斜の野原をかけていた。後ろからだれかがわたしを呼ぶ声がしていた。懐かしい声だったが、聞きたくはなかった。川縁が見えた。顔を上げると、対岸に人影があった。わたしは食い入るように薄闇の中目を凝らした。それは、その人影は、なつかしいわたしの母だった。いつかの晴れ着を着た姿のまま、泣いてわたしに手を振っていた。先ほどまであんなにも求めた川の流れの音さえ煩わしく感じられた。「おかあさん!」と叫んだ。母が口を押さえる。川の音がうるさい。母が何か言っている、聞こえない、川を渡らなくては。わたしは迷うことなく、草鞋の足を、白波のたつ渓流に浸そうとした。爪先が水に着く直前で、後ろに髪を引っ張られる。

振りかえると、そこには水柱様が立っていた。いつも通りの無表情でわたしの右手を掴んでいる。

「水柱様」

彼は重たげに唇を開いた。

「戻れ」

命令のような口調であった。彼は柱であるから、たかだか一介の隠である私に命令をすることはいくらでもできるのだ。けれど私は長く水屋敷の周りに配置されていて、この人が評判ほどは強権的な性質でないことも、報告書の最後のひと文字を間違えて書き直しているうちに大きな墨の染みをつくって途方にくれているような人であることも、買った茶菓子を隠に分け与えたりするようなところも知っていたから、このようなきわめて個人的な場で命令を拒否することは別段、恐ろしくはなかった。感情が上手く制御できずに、噛みつくように私はいった。

「いやです」 水柱様は、冨岡さんは、表情を変えずに目を伏せて、掴んだままの私の手をぐっと握る。冨岡さんの暗い水底のような瞳を見ていると、なんだか無性に泣きたくなって、両目から涙が流れていくのがわかった。言い訳のように、私は言葉をつづけた。

「痛いのも苦しいのも、もうたくさん」

そう言って川に飛び込もうとしたが、掴まれた手は痛いほどで、ぴくりとも動かなかった。

「ならもう、苦しまなくていい」

もがく私に、冨岡さんは馬鹿みたいなことを言った。そんなわけはなかった。私は苦しむことが仕事であると言っても間違いではなかったのに。俯いた前髪が瞳を隠してしまって、表情を窺うことができない。苦しそうな声だけがしている。

「痛いならもういい。今までよくやってくれた。あとは俺に任せて、ゆっくり休めばいい。」

だから戻ってくれ。その、殆ど懇願のような調子に、私は困惑した。

「どうしてですか。私は貴方がそんな言葉をかける価値のある命じゃない」
「そんなふうに自らを蔑むな」

仲間が死ぬのは嫌だ。そう吐き出すように彼は呻いた。わたしは返す言葉を思いつかずに途方に暮れて、咄嗟に母を振り返った。母は変わらず対岸で手を振っていて、いきなさい、と呟いて泣きながら笑った。唐突に景色が黒く塗りつぶされる。

そこで目が覚めた。

杏仁型に開かれた視界に、満天の星空が広がっていた。がらがらと車輪の回る振動が背中に伝わって、酷く痛み、身体中が泥の中に埋まったように重い。馬の足音がする。荷車を引かせているらしかった。芯から冷え切っているのに、身体の中で右手だけが熱い。冨岡さんは、横たわる私の傍らに、刀を支えにするように肩にかけ、膝を立てて座していて、手が、わたしの右手を握っていた。華奢なのに皮膚が固く、胼胝だらけの指で、触れているだけで悲しくなった。散々流れていたらしい涙が、またじわりと滲んで、乾いた涙の筋を通り、荷車の底に落ちる。

戻って来てしまったのだ。星ばかりが美しい、信じられないほど残酷な、この世界に。

「冨岡さん」
「ああ」

疲労が滲む低い声で、冨岡さんは相槌を打った。言葉をつづけようとしたが、上手く口が廻らない。きれぎれに言葉を紡ぐのを、彼はじっと待っていてくれた。

「私の……母の声を聴きましたか」

鬼に殺された母です。冨岡さんは暫く考えて、首を横に振った。

「いや。魘されていたからお前の寝言は聞いたが」

あまりにも「らしい」言い草に、私は傷の痛みを忘れて笑った。吐息が肺を抜けて痛む。せき込むと、しゃべるなと窘められた。私が起きたことに気付いた隠の同僚が、馬を御しながら、涙声で名を呼んでくれる。それに返事をしながら、私はあいている手で胸元を抑えようとして、左手がないことに気付いた。鬼に喰われたらしい。覚えていないが、そうだったのかと思う。そして周りを見渡して、自分と馬を引く者、冨岡さんのほかに、誰も仲間がいないことに気付いた。ああ。負けたのか、と思う。そうだった。今更失ったことに狼狽するのもばからしく、私は言葉をつづけた。

「三途の川を……見たんです。母が手を振っていた……。でも貴方の声がして川を渡れなかった」

冨岡さんはふうと息を吐いて、「そうか」とだけ言った。空を見上げていて、表情は窺うことができない。星の光が瞬いて、闇に慣れた目に眩しいほどだった。あれは南十字星だろうか。星の光を眺めていると、夢見心地のようになって、

「冨岡さんは、死んでいった人たちに夢でまみえたことはありますか」

少しの沈黙の後、否、と冨岡さんは応えた。

「夢にも見たことはない。……俺には合わせる顔もない」

そう呟いて、彼は俯いて目を閉じてしまった。
また涙が出た。何の役にも立たないのに、どうしてこんなに泣けるのだろう。そんなことはない、そんな風に自分を蔑まないでくれ。さっきの夢で彼がそう言ってくれたように、私も彼に言いたかった。言いたかったのに、酷く眠くて、そのまま口を開けなかった。握られたままの冨岡さんの手だけが熱くて、もう夢を見ないだろうということだけはわかっていた。