夜明け前




六日間の長い夜が終わって、休む間もなく冨岡さんは上野を発つという。自宅に帰るのかと思いきや、また次の任務が控えているのだそうだ。遠方なので汽車をつかうらしい。朝ごはんだけでも食べて行きませんか、と一族総出でこの命の恩人を引き留めたが甲斐もなく、朝日の差し始めたばかりの白んだ靄の坂道に長く影を落として、冨岡さんはひとり駅を目指している。私はその隣を、見送りと称して執念深くついて歩いているのだった。私はこの六日ですっかりこの男を好きになったので、このまま帰られては困るのである。冨岡さんは私の思惑など露ほども知らぬ様子で「朝は冷えるだろう、もう帰れ」と無表情に言う。それがいかにも迷惑そうに見えるのだが、どうもこの顔で気を遣っているつもりらしいのだ。「別に寒くないです」と云うと、冨岡さんはハアとあからさまに迷惑そうな溜息を吐く。

その白い吐息に被せるようにして、
「鬼殺隊のひとって恋愛とかどうしてるんですか」
と私が尋ねると、冨岡さんは端正なかんばせをぴたりと固めて、それからゆっくりと首を傾げた。怪訝そうに顰められた眉が鋭く大きな瞳に影を落として、酷く冷たい印象を受けるけれど、多分そういう顔なだけなのだろう。案の定冨岡さんは「レンアイ?」異国の言葉を無理に呑み込まされたかのように復唱し、はてなマークを飛ばしながら明後日の方向を向いている。

「何の話だ」
「恋の話ですけど」
「コイ?」
言いながら、差し掛かった竜門橋の下をそっと覗いた。鯉じゃないよ。天然ボケというか、天然バカなのかもしれない。
「魚じゃないですよ」
「じゃあ何だ。要件があるならきちんと説明しろ」

冨岡さんは何故かイライラとした様子でそんなことを言う。ズレてるなあ、と思いながら要望に沿って私は彼に単刀直入に尋ねた。

「冨岡さん恋人いるんですか」
「はあ?」
素っ頓狂な声だった。それから視線を右に外して、早足で歩きだす。

「いない。そんな暇はない」
「そんな綺麗な顏なのに」
「顔は関係ない」

綺麗じゃないとは言わないんだな、と思いながらついていくが、鬼退治などをしているだけあって、ただの早歩きも物凄く足が速い。私は追いすがるようにして小走りで並びながら、しつこく食い下がった。

「じゃあ私どうですか?」
「どうとは」
「貴方のこと好きになりました」
「な」

冨岡さんは停止した。足だけではなく、表情も停止したのである。信じられないものを見るように私をまじまじと見降ろして、けれど私が真っ直ぐに見返すと、すぐに視線を逸らしてしまう。

「……ませている。」
「歳変わらないでしょう」
「いくつだ」
「私ですか。十八です。今年で。冨岡さんいくつです」
「……二十」
「はたち!ピッタリじゃないですか。適齢期」

茶化して笑うと、冨岡さんは困惑した様子で腰の刀を触った。ちゃきり、と金属の鳴る音がする。
「何が適齢期だ。からかうのもいい加減にしろ」
「だって本当に好きなんだもの」
すると冨岡さんは途端に足が重くなったように、歩みの速度と肩とを落とした。「俺などの何がいいというんだ」、とぼそりと呟く。
「聞きたいですか?長くなりますけど」
「……。」
橋をわたりきって、忍川から合流した不忍池には、枯れた蓮が広がって居る。困ったように目尻が震えたのを私は見逃さなかった。

「ねえ、今嬉しいなって思ったでしょう」
「思ってない」

きっぱりと言い捨てながらこちらを見ない。腕を掴もうとするとやんわりと離された。ああ、まずいな、と私は思う。速度を取り戻した冨岡さんはすごい勢いで蓮のしげる池を抜けていって、もう遠くに駅舎が見えていた。いつのまにか朝は昼間になって、街には人出が現れている。私は上がってきた息を整えながら、めげずに冨岡さんに笑いかけた。

「次いつ会えますか」
「もう会わない。俺の事は忘れろ」
「映画みたいなことを言いますね」
「現実だ。弁えてくれ」

もう会えない。冨岡さんは幼子に含めるようにそう言いきって、静かに目を伏せた。ここまで殆ど走ってきたのに、息のひとつもきらしていない。私は部の悪さを悟りはじめていて、誤魔化す様に肩を竦めた。

「そんなら私も一緒に行きたい。好きになった人を忘れて生きるのは切ないわ」
「俺にそんな価値はない」
「私の目が節穴みたいに言わないでくださる」

冨岡さんはそれにはもう応えなかった。往来を渡ったら、駅についてしまう。半分ずつの羽織の背中が私の前を過ぎていこうとする。私はあわてて、大声になって叫んだ。雑踏で、通行人が数名物珍しそうに私たちを振り返る。
「別に、いますぐじゃなくっていいんだわ。鬼がいなくなって、平和な世の中が来たら」
そうしたら私はどうですか。
すると、冨岡さんは、からくりの人形みたいに、ぎこちなく振り返った。日の光が冨岡さんの癖毛を照らして赤茶色に光る。 唇が躊躇いがちに開かれて、たどたどしく途方に暮れたように音を紡いだ。

「その日のことを想像することができない、俺には」

それはまるで、罪を吐露するかのような言い方だった。目指した理想のために長く暗い道を歩きすぎて、夢見ることができなくなった人の目をしていた。不意に、つんと、鼻の奥が痛くなる。ああ。私たちはこの人のお蔭で、この人のつらさの上に、幸福な人生をこれからも繋げていくことができるのに、この人は自分でそれを体感することはないのだ。冨岡さんが想像できないならかわりに私がいくらでも想像するから、この人にいい夢を見てほしいのに、それは叶わないのだった。
敗北を悟って俯くと、不意に、頭に手のおおきなてのひらの感触がした。無骨な指先が私の、朝整えたばかりの髪をごわごわと撫でる。冨岡さんはきっと、下に弟妹がいないのだろう。だって、あまりにも慰めるのが下手だ。

「……冨岡さん」
「なんだ」
「助けてくれてありがとう。貴方のお蔭で私たち家族、これからも元気に暮らせます」

かろうじて紡いだ台詞に、冨岡さんは目を瞬いた。それからさらに強く下手くそに私の頭をぐしゃぐしゃ掻き混ぜて、ぽつぽつと落とすように唇を開いた。今回は間に合ってよかった。家族と達者で暮らせ。抑えきれなかったみたいに、花弁の綻ぶような微笑が零れる。

「ありがとう」