宿命




これが私の最期の仕事になる。

アンタは派手に食われて死にそうだと思ったんだがな。というのは後輩の「音柱」こと宇髄天元の言である。療養中、ボロ屋の病床に沈む先輩に向かってよくもこんな無礼な言葉をかけてくるなと思うが、まあそもそも鬼殺隊は普通のところではないし、9つしかない柱が1本使えなくなるというのは猫の手どころか死人の手でも借りたい現場では大変な負担であって、嫌味のひとつでも言いたくなるのは仕方がないことである。男の頭を張り飛ばしたくなる衝動を布団のすみを握って押さえる。尊敬する先輩であった炎柱が酒と無力感に崩れていくのをすぐそばで見ていた身としては、その炎柱よりはやく脆く崩れ落ちようとする己の身の間の悪さが情けないというのもある。
まあ、宇髄はもとよりこういう物言いの男なので悪気すらないのだろう。随分痩せちまったな、と言って遠慮なく近づいてこようとするのでさすがに呆れて「感染るからよしな」と遮ると、釈然としない様子で敷居の向こうの、隠が用意した真新しい座布団の上にどかりと腰を下ろした。
そうして人材がいないだの育手が不甲斐ないだの継子が死ぬだの細かい日々の愚痴をたたいたあと、不意に静かになって、
「……。まあ精々療養してくださいよ」
と、これから死ぬ人間にかけるにはいやに軽い言葉を残して辞していった。 宇髄は大柄なので腐りかけた廊下の床はひどく軋むと思われたが、元は忍の出という話は本当なのだろう、足音のひとつもしないまま玄関の扉がガラリと空いて、そうして閉まる音が響く。もう会うこともないのだろうが、悲壮感がないのは気楽である。 柱を拝命するものとしてお館様にいただいた水屋敷はすでに返してしまっていて、今の私はの身は江戸の頃連れ込み宿だったというボロ屋の小部屋に移されている。隔離、というのが正しい。本当なら病棟に連れて行かれるのが筋なのだが、最後までできるだけ一線にいたい、ということでお館様のほうで手を回していただいてこういうことになった。宇髄が持ってきたのは、お館様からの手紙であった。口に覆いをした隠が恭しく私にその手紙を捧げる。私はそれを布団の上で座したまま、膝に乗せて表書きを軽く撫でた。そうしてこれが私の最後の仕事になることを思った。生きてれば他の仕事もやるけど。

鬼殺隊に入ったのは13歳のころである。朝駆け10年にもなるか、刀に刻んだ「悪鬼滅殺」の字の通り、ひたすら鬼を斬って斬って斬って斬っただけの日々であった。いつか鬼舞辻を斬って、何も恐れるもののない平安の夜を闊歩してみたかった。今となっては果敢ない願いである。
鬼殺隊の隊員はいろんな思いを持って鬼狩りに勤しんでいるが、わたし大儀だの世の中の平和だのお館様のためだののために鬼殺の道を選んだわけではない、と自負している。わたしはかつて、親を鬼に喰われた子供だった。理不尽に命と同等の大切なものを奪われてそのまま生きていくことが我慢ならなかった。なにより、鬼に遭遇したものは夜に怯えて過ごすこととなる。夜が恐ろしいということは1日の半分を震えて過ごさねばならぬということで、私はそのような不自由に耐えて生き続けるぐらいならば、戦って愛した人の仇を取って死ぬ方がマシだと思っていた。また奪われることに怯えて唇を噛んで生きていくことはできなかった。それだけで、そこにはなんの正義も大儀もない。命が続く限り鬼を殺してやりたかった。そういう意味では、この度のことはいかにも無念である。
だがもしかするとこのように、そう時間もかからずに確実に死ぬ病を得たことは、或いは天からの哀れみのようなものなのかもしれない、と思う。戦えないわたしを悼むものもわたしを惜しむものもいないのだ。口元だけに自嘲の笑みが滲んで、そのまま手紙を開く。お館様の美しい筆跡が紙面を埋めている。身体を労わる言、これまでの功績を称える言。そして。 「冨岡義勇の水柱就任の件、呉れ呉れも宜しくお願い申し上げ候。……」 なぞるように呟いて、目を閉じる。ただ座っているだけなのに疲れを感ずるのは、どういうわけなのだろう。


「いらっしゃいました」

隠が部屋の戸を押し込むように開きながらようやく言った。戸が歪んでうまく滑らないのだ。締まらない継承だな、と他人事のように私は思った。私は先代から刀の鍔を賜ったが、この前死んだばかりの継子の墓に入れてしまったので、次代、彼に渡せるものは、何もない。

古い女郎屋、腐りかけた床は来訪客の無遠慮な足音でぎしぎしと軋んでいる。細身の青年の姿を脳裏に思い浮かべて、あれで意外にも足音を立てて歩くのがおかしい。笑って居ると脳裏に浮かべた姿ままの少年が、陰気な表情をして戸の向こうに現れて、俯きがちに敷居をまたごうとする。隠が慌てて静止した。

「肺病はうつるから。寒いだろうがそこで聞いておくれ」

私がそう言うと、冨岡義勇はハッとしたように息を飲んで頭を下げた。そして刀を左に置き、廊下に置かれた座布団の上に座り、絵にかいたような無表情で、「遅参、申し訳ございません」という。言われてみれば指定した時間から一刻も遅れていたが、かけらも申し訳なさを感じない詫びに苦笑を禁じ得ない。手紙に同封された書類をいくつか広げながら嘆息する。

「よくないけど、まあいいよ。こちらも君の前に来客があったのでちょうど良かった。……しかし君の持ち場からここはそう遠くなかったと思うけれど、遠回りでもしてきたのかい」
「気が重く足が進みませんでした」

冨岡はバカ真面目に言った。宇髄とは正反対の世慣れぬ率直さで、喉の奥で笑いが漏れそうになった。たしか、この子はもう17にもなるはずだが、初めに出会った癸の頃から少しも変わらず社交性がない。

「相変わらず正直だねえ。柱合会議には遅刻したら殺されるから。気をつけなさい」
途端に空気が固くなる。冨岡の指がギュッと握られて膝の上で血の気をなくしていた。
「……俺は柱には」

ならない、と言おうとする唇が開く前に、手元にばらけた資料を拾って読み上げる。「冨岡義勇。戦績。異能の鬼を五十九、下弦の壱を討伐」
「それは……俺の代わりになって死んだ人間がいたからです」
恥じらうように言う。私は資料を置いて冨岡を横目に見据えた。
「生き残ったのは君なんだから、君以上の適任はいないんだよ。水の呼吸の使い手であるということを差し引いても、私の次は君しかいない。数字がそう言っている」
「数の問題ではない」
世の中には柱を目指して討伐数を偽造する者もいるというのに、まるで早口の弁解のような台詞であった。

「他にどんな問題があるの」

私が呆れて呟くと、冨岡はやはりバカ真面目に居住まいを正して、視線を下に向けながら口を開いた。呻くように、絞り出すように。

「柱とは、鬼殺隊を支えるものであるはずです。……俺は他の者たちとは違う。そんな資格は俺にはない」

項垂れる男のつむじを眺めながら、私は以前の任務で目にした、冨岡の剣技を思い出していた。
水の呼吸。揺蕩う海のような、流麗を極めたその御技。
男のくせに繊細すぎると嗤うのが躊躇われるほど、彼には剣の才能があった。刀に、呼吸に、技に愛されている。誰も疑うことのない、研ぎ澄まされた太刀筋。

しかし、もっと誇ればいい、と上官に声をかけられても、彼は憂鬱そうに刀を納めて首を振るだけだった。冨岡義勇は剣に愛されていたが、剣を愛してはいなかった。鬼を斬るときはいつも、ひどく嫌そうな、多分、悲しそうな顔をしていた。私は手紙をまた捲って、首を傾げる。それだけの動作で、疲労を感じて瞼が重い。

「……君の憂いのもとは最終選別なのかな。死者1人のみという史上唯一の選別の」

冨岡は尾を踏まれた猫のように、ぎょっとして顔を上げた。鉄面皮の目尻にかすかに、憔悴した様子が見える。もしかすると暫く眠っていないのかもしれない。

「何故、……それを」
「お館様の手紙に書いてある。私は内緒話が好きじゃないから教えてしまうけど」
あの方もなりふりかまってない、余程君を柱にしたいようだ。私がおどけても、冨岡は笑わなかった。悔しそうに唇を噛んで、長いものを吐き出すように呟く。
「錆兎はあそこで死ぬ男ではなかった」
「でも死んでしまった」
「違う。錆兎こそが柱に相応しかった。あいつだけが、あいつだから俺たち全員を守れた。柱というのは、錆兎のようなものであるはずで」
「冨岡君、きみ、柱に必要なのは何かわかるかい」
「……知りません」
「そう。じゃあ教えてあげる。柱に必要なのはね、他のやつよりたくさん鬼が殺せて、他のやつより長く死なないことだよ。それ以外には、何もいらない。人格や人柄だの、英雄らしさや資格なんていうのは勝手に他人が解釈するんだよ。君は生きて数字を重ねていけばいい」
「……ッ違う!そんなわけがない」
「錆兎くんはもう君の記憶の中にしかいない。記憶は誰も救わない」

ぎろりと睨めつけられる。殺気が刺さって、冨岡のそばに控えていた隠がひっと短い悲鳴を上げた。わたしは肌がピリピリと痛むのを感じながら、なんとなく、花を踏みにじるような情景を瞼の裏に描いた。美しい花だ。か細い、ほのかな薄紅の花弁の。
「君が柱をやらないとどうなるかわかるかな」

花を毟るように私はささやく。冨岡は応えなかった。

「まあ、誰かが柱をやるんだけどさ。水の呼吸はいままで柱が絶えたことがないし、隊士も育手も多いんだ。育手は呼吸の威信をかけて推薦する。私の次の、君でない水柱を」
びくりと冨岡の肩が震えた。怒られている子供のような震え方だった。
わたしはいつも、そうだったなと、不意に思う。

世界はいつでも美しかったのに、わたしは何年も鬼を斬ってきたのに、結局何一つ守ることはできなかった。継子も死なせた。部下も死なせた。上官も死なせた。守るべき、無辜の人々も死なせた。醜い鬼どもに、だいじなうつくしい命たちを、大勢喰わせた。また花をみよう、また海へ行こう、また月を眺めて、また雪を愛でよう。そう、明日を夢見て日々を真面目に闘っていたひとびとを、わたしはいつも救わなかった。

それでも、そうだとしても、どれほど惨めで力が無くても、夜を恐れずに戦い続けることだけが、いつか夜の果てを迎えることだけが、死なせた彼らへの餞だったのに。

「そしてすぐに死ぬんだ。君より弱いから。崇高な志をかかげて、資格とやらを振りかざして理想のために剣を奮って、柱が任されるろくでもない任務を渡されて、すぐに死んでしまう。知っているかい、柱が行かされる任務っていうのはね、本当にろくでもないんだよ。一番人が死んでいて危険で、どうしようもない任務に行かされるんだ、だって柱なんだから。柱が失敗したら、任務でもっと大勢の無辜の人々が死ぬ。鬼に喰われて」

喋りながら、なぜか喉が焼けるように熱くなって、肺の痛みを感ずる。
次に呼吸を使ったら肺が破れると言われるほどに、いつのまにかすっかりわたしは弱くなってしまった。視界が揺れる。水の膜が張って、水槽の中にいるようだ。

視界の端で、隠が立ち上がって、駆け寄ってきて私を腕に抱きしめた。泣きながら。その震える身体に抱かれながら、私の唇はぽろりと「申し訳ない」と言った。何を言っているのだかと、自分で笑えてしまった。永遠に戦えたらよかったのに。そうしたらいつか、力及ばぬ身であろうとも、夜の果てで誰かを救ってやれたかもしれないのに。ぎゅうと、抱かれた腕に力が篭る。
冨岡が悲しみに塗りつぶされた瞳をして私をみていた。呆然と脱力してしばらく黙っていた。

そうして、硬い動作で居住まいをただすと、耐えがたきに耐えるように目を閉じて、美しい所作で頭を下げる。

「御功績には及ばぬ、未熟の身なれど……身命を賭し努めます」

ありがとう、と私は言った。他に言えることがなかった。笑って継がせるつもりだったが、涙声になってしまった。最後の仕事はうまくいったのに、どうしてこんなに哀しくて、涙が出て来るのだろう。